タイトル武田信玄の略歴①

(以下は『信玄の戦略』巻末の年譜から抜粋)

大永元年(1521年) 1歳

11月3日に、武田信虎の嫡男として甲府に生まれる。太郎と名付けられる。

大永6年(1526年) 6歳

父・信虎は、北条氏綱に大勝する。

大永7年 7歳

信虎は大井氏と和睦。今川氏輝とも和睦。

享禄元年(1528年) 8歳

信虎は、諏訪頼満・頼隆の父子に敗戦。

享禄3年 10歳

家臣の小山田信有が、北条氏綱に敗戦。

享禄4年(1531年) 11歳

1月21日 栗原兵庫や飯富虎昌が謀反して、諏訪頼満と結ぶ。

2月2日 信虎は、離反した大井信業・今井尾張守を攻め殺す。

4月12日 信虎は、諏訪頼満、今井信元、栗原兵庫らに大勝する。

天文元年(1532年) 12歳

9月 信虎は今井信元を攻め、降伏させる。

天文4年 15歳

8月19日 信虎は、今川氏輝と戦う。

8月22日 北条軍に敗れる。

9月17日 諏訪頼満と和睦。

天文5年(1536年) 16歳

1月17日 太郎は元服し、足利将軍・義晴から一字をもらい晴信と名乗る。従五位下に叙せられる。

3月 今川氏輝が死去。

7月 今川氏を継いだ今川義元の斡旋により、晴信は三条公頼の娘を正室に迎える

11月 晴信は初陣。海の口城を攻略する。

天文6年(1537年) 17歳

2月10日 信虎の長女が今川義元に嫁ぎ、甲駿同盟が結ばれる。

2月26日 北条氏綱はこの同盟に怒り、今川氏の治める駿河に出兵。信虎は救援のため出兵する。

天文7年 18歳

5月16日 北条氏綱が甲斐に侵攻する。武田家は北条氏と和睦する。

この年、晴信の嫡男・義信が生まれる。

天文8年 19歳

北条氏との合戦が再発。

天文9年(1540年) 20歳

5月 信虎は信濃・佐久郡に出兵。1日に36城を落とす。

11月29日 信虎の三女・禰々が諏訪頼重に嫁ぐ。

天文10年 21歳

5月13日 信虎は、村上義清、諏訪頼重と共に、滋野一族を破る。

6月14日 信虎は凱旋帰国の直後に、晴信によって駿河の今川義元の所へ追放される。

6月28日 晴信は家督相続の儀式を行う。

天文11年(1542年) 22歳

7月2日 諏訪頼継(高遠城主)と呼応して、諏訪頼重を攻める。
すでに4月に諏訪郡に向け出陣し、調略工作をしていた。

7月4日 諏訪頼重は降伏し開城。(居城の上原城にて)
この降伏では、降伏後の優遇が約束されたらしい。

ところが頼重は甲府に送られると、21日に切腹させられた。

7月28日 諏訪郡の下社(下半分か?)を支配していた金刺氏が、武田氏に恭順してくる。

9月 諏訪頼継は、諏訪郡全域の支配を狙って、武田方の城を攻める。

9月19日 武田晴信は諏訪郡に出陣。この時、自分の妹と諏訪頼重の間に生まれた子・寅王を擁して、名分を得ようとした。

だが、この後は寅王は冷遇され、流浪して哀れな最後をとげる。

9月25日 晴信は頼継に大勝。頼継は高遠城に逃げ戻る。

9月28日 武田軍は福与城を攻め、城主の藤沢頼親は降伏。

こうして信濃・諏訪郡は全て武田領になった。

天文12年 23歳

5月 上原城代に板垣信方を起用する。板垣に諏訪郡の支配を任せた。

後のことになるが、板垣信方の死後は補佐していた守矢頼真が実質的な統治を継いだ。

9月19日 小県郡・長窪城を落とす。

9月20日 佐久郡の望月一族を成敗する。

天文13年(1544年) 24歳

10月29日 謀反した藤沢頼親を攻めるが、落とせず。頼親は諏訪頼継と結んだ。

天文14年(1545年) 25歳

4月17日 高遠城を落とす。城主だった諏訪頼継は逃亡。

4月20日 続けて福与城を攻める。しかし信濃守護の小笠原長時が救援に現れ、長期戦に。

武田側に今川の援軍があり、さらに6月1日に板垣信方が小笠原氏の竜ヶ崎城を落としたため、6月10日に和睦となる。

藤沢氏は再度、武田氏の配下に。

この戦果により信濃の上伊那郡が晴信の支配下になる。

なお保科正俊は、高遠城攻略後に晴信の配下になったといわれている。

9月9日 今川義元の救援のため駿河に出兵。

10月24日 晴信の斡旋により、義元と北条氏康は和睦する。

天文15年(1546年) 26歳

5月10日 佐久郡・内山城に大井貞清を攻める。

5月20日 内山城落とす。
なお、貞清は翌年5月6日に甲府に出仕してくる。(それまでは逃亡中か)

内山城には城代として、上原伊賀守(後の小山田備中守)を入れる。

この年、四男の勝頼が生まれる。

この頃に真田幸綱は晴信に会って、配下となる。
そして旧領地に復帰する。

天文16年(1547年) 27歳

6月 「甲州法度之次第」55ヵ条を制定。

8月6日 志賀城の救援に赴いた上杉憲政の軍に大勝する。

8月11日 佐久郡の志賀城を落とす。

天文17年(1548年) 28歳

2月14日 上田原にて村上義清と戦うが大敗する。重臣の板垣信方と甘利虎泰が戦死。

7月19日 塩尻峠にて小笠原長時に大勝。

9月11日 佐久郡の前山城を落とし、佐久衆の数百人を討つ。

天文18年(1549年) 29歳

7月15日 伊那郡で箕輪城の築城を開始。

8月 佐久郡の北部を制圧する。

天文19年(1550年) 30歳

5月25日 小笠原長時と戦い勝利。

6月2日 今川義元・夫人になっている姉が死去。

7月15日 小笠原長時を攻め、林城を奪取。

8月29日 戸石城にいる村上義清を攻めるが、大敗する。横田高松らが戦死。

10月1日 戸石城の攻略を諦め退陣する。

12月7日 嫡男の太郎が元服。(武田義信のこと)

天文20年(1551年) 31歳

5月26日 真田幸綱が戸石城を落とす。

6月28日 伊那郡の保科正俊を調略する。

9月20日 上原伊賀守を正式に内山城主とし、小山田備中守・虎満と改名させる。

10月24日 安曇郡の平瀬城を落とす。

天文21年(1552年) 32歳

1月27日 降伏し従属していた高遠城主の諏訪頼継を、甲府で自害させる。

5月7日 生母の大井夫人が死去。

8月12日 安曇郡の小岩岳城を落とす。

10月6日 甲府~諏訪の間の棒道の建設を命じる。

11月28日 嫡男・太郎を、今川義元の娘と結婚させる。

天文22年(1553年) 33歳

閏1月24日 安曇郡の仁科盛康が従属する。

4月2日 筑摩郡の苅屋原城を落とす。

4月9日 村上義清方の葛尾城を落とす。

7月23日 太郎は足利将軍・義輝より偏諱を受け、義信と名乗る。

8月5日 小県郡の塩田城を落とす。
村上義清は越後の長尾景虎の許へ逃亡する。

塩田城を飯富虎昌にまかせる。

9月 川中島で越後の軍勢と戦う。

天文23年(1554年) 34歳

5月 甲州法度に2ヵ条を追加。

8月15日 神峰城を落とす。

12月5日 上杉謙信の家臣の北条高広が、武田家に内応して挙兵する。

12月20日 伊那郡・知久平を下条信氏に安堵する。

12月 長女を北条氏政に嫁がせ、甲駿相の三国同盟が成立。

弘治元年(1555年) 35歳

4月23日 上杉謙信と戦うため出陣。

7月19日 川中島で上杉軍と戦う。

8月 木曾義康が降伏し、配下になる。

閏10月15日 今川義元の調停により、武田氏と上杉氏が和睦。

11月6日 側室の諏訪氏が死去。

弘治2年(1556年) 36歳

8月8日 真田幸綱が埴科郡の尼飾城を落とす。

8月 上杉謙信の家臣の大熊朝秀が、武田氏に内応して挙兵。だが謙信に敗れて甲府に逃げてくる。

弘治3年(1557年) 37歳

2月15日 水内郡の葛山城を落とす。

4月18日 上杉謙信が川中島に出陣。

8月 水内郡・上野原で上杉軍と戦う。

この年に川中島に海津城を築城。

永禄元年(1558年) 38歳

1月頃 晴信は、信濃守護に任ぜられる。

4月 弟の信繁は、家訓99ヵ条を定めて嫡男・信豊に与える。

9月25日 善光寺の本尊・如来像を甲府に移し、板垣の地に善光寺を建立する。

11月28日 将軍・義輝の詰問状に答えて返書し、自己の正当性を訴える。

永禄2年(1559年) 39歳

2月 出家して、信玄と号す。

(以上は2011年1月13~14日にノートにとり勉強
それを2025年8月14日にここに記載)


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