(以下は『異形の将軍 田中角栄の生涯』津本陽著からの抜粋
2004年6月29日から半月くらいかけてノートにとり勉強
2026年6月11日~19日に作成)
🔵はじめに。田中角栄とロッキード事件のあらまし
昭51年(1976年)11月2日、衆院の「ロッキード調査特別委員会」で、丸紅を通じてロッキード社から金を受け取ったとされる5人の政治家の実名が発表された。
そのトップに田中角栄の名があった。
同月15日に総選挙が公示されたが、田中角栄も立候補した。
12月5日に田中はトップで当選。
その後も当選し続けた。
昭56年1月12日に、田中角栄は呼吸困難となり
昭和58年10月3日にも、胸痛で救急車で病院に運ばれた。
角栄に辞職をすすめる手紙を中曽根・総理が送ったが、秘書の佐藤昭子が角栄に見せなかった。
昭58年(1983年)10月12日に、ロッキード丸紅ルートの裁判で、田中角栄は収賄罪により懲役4年、追徴金5億円の判決となった。東京地裁において。
角栄はイヤな話を聞くのが苦手だった。
忍耐が足りない、残忍さも足りないとの評価もある。
🔵田中角栄の幼少期
田中角栄は大正7年5月4日に、新潟県の古い農家(平野の中の村)で生まれた。
血液型はB型。汗っかき。
生家の近くに日本でも屈指の油田があり、角栄のいる村(二田村)の者はそこで働き、けっこう豊かな暮らしだった。
なお、この西山油田は昭47年に廃山となった。
角栄の祖父は宮大工で、土木建築の請負もやっていた。
角栄は姉が2人、妹が4人。妹のうち2人は早逝した。
祖母のフメが、昭和19年に82歳でなくなるまで家事を全てしていた。
母フメは50歳まで田んぼ仕事をした。
当時の農家は「三日半日」といい、三日働いたら半日休む習慣だった。
フメは農閑期も外で日雇いの仕事をした。
角栄は幼い頃にジフテリアをわずらい、言語障害がおこって吃音になった。
角栄の父・角次は牛馬商をしてかなり儲けていた。
しかしオランダから高級な種牛を三頭輸入したところ、全て船旅で死んでしまい、借金が残った。
角栄は大正14年4月に、高等小学校に入学した。
この校長を角栄は終生の恩師とした。
角栄は体が弱く、吃音のため無口だった。
吃音のためいじめられたが、怒って仕返しをし、それが極端な仕返しだったのでいじめがなくなった。
高学年の時、学芸会で主役をして、吃音をある程度まで克服した。
チョンガリ(浪花節)が当時流行していたが、それを聞きにゆき一回で全てを憶え、周りを驚かせた。
この記憶力は、後年にコンピューター付ブルドーザーなどと評された。
角次は競走馬を育ててレースに出す仕事を始めたが、レースに勝てず借金がたまった。
当時は、材木は価格の上下が激しく、材木屋は手付金を出して先物取引ができ、相場の波が激しくて男商売といわれていた。
角栄は学校の先生に五年修了で中学にいけると言われたが、貧しい家庭なので高等科へ進学した。
昭和8年3月に、高等小学校を首席で卒業。
🔵田中角栄の青年期
小学校を卒業すると、新潟県の土木派遣所の募集に応募した。
中卒以上の資格が必要だったが、角栄は履歴書が達筆だったため採用となった。
彼は書道を自習していた。
角栄は役所に住みこみ、初めての一人暮らしをした。
半年間つとめた。
利発で気のきくため、上司や同僚にかわいがられた。
角栄は日頃から「東京へ行き勉強したい」と言っていたが、上司の人が大河内正敏・子爵の書生になれるよう紹介状を書いてくれるというので、上京した。
大河内は当時、理化学研究所の所長で、柏崎(ここに土木派遣所があった)に工場をいくつか持っていた。
角栄は大河内邸に行ったが、取りついでもくれなかった。
仕方なく彼は、知り合いのいる井上工業という土建会社を頼った。
角栄は井上工業で働きながら、夜間専門の私立中央工学校に通い始めた。
井上工業の同僚には、2歳年長で後に角栄の側近になり、親友でもあった入内島金一がいた。
一ヵ月住み込みで五円しか給料が出ないので、角栄は秋に辞めた。
この頃になると、東京の事情が分かってきた。
新聞の広告欄を見て、保険評論という雑誌を発行している学者、小山哲四郎の書生になった。
記者見習いとして働き、半年ほど働いた。
母が病床についたと聞き、休暇をもらおうとしたが許しがもらえず、辞職して帰郷した。
母フメはすぐ元気になり、角栄は東京へ戻った。
角栄は新聞に「夜学生を雇われたし、住込みでもよし」との広告を出し、高砂商会に就職した。
高砂商会は、米国のスチールウール研磨材の輸入をしていた。
家族四人の経営で、親切だった。一ヵ月に13円の給料。
角栄はここで働いたとき、人を動かすには叱咤激励よりも温情がはるかに勝ると知った。
ここでは3~4ヵ月働いた。
海軍兵学校や陸軍士官学校などは、旧制中学の四年二学期修了の学力があれば誰でも受験できたため、角栄は海軍将校になろうと考えた。
中央工学校の友人から機械の図面やトレースの下請け仕事を回してもらったところ、すごく稼げるため、昭和11年初頭に、その仕事をしながら下宿して受験勉強を始めた。
研数学館、正則英語学校などに通った。
角栄は海軍受験を決めたが、身体検査は一万三千人の中で13番目だった。
身長164cm、体重61kg。
ところが学科試験の直前に、母フメがまた病いにたおれ、角栄は断念した。
ちなみに、海軍兵学校の就学期間は3年8ヵ月。
卒業後は少尉になって月給は85円だった。
昭和11年2月26日に、「2.26事件」が起きた。
このクーデター事件の後、日本軍部は急速に軍備拡大の方針を打ち出し、軍需産業が沸いた。
角栄は昭和11年3月に中央工学校を卒業した。
中村建築事務所に就職した。
中村建築事務所は、理研(理化学研究所)の下請けとして、急速に規模を拡大していた。
理研は子会社を次々と作って拡張していた。
理研所長の大河内と、角栄は理研に出入りしているうちに知り合いとなった。
この頃の角栄は、引越して一歳年下のいとこの信雄と自炊生活をしていた。
中村事務所を辞め、以前下請けをしていた会社の番頭だった椙山の作った新会社に就職した。
(※角栄が次々と就職先を変えていることに驚く)
昭和12年春に、角栄は設計をする「共栄建築事務所」を自ら立ち上げた。このとき19歳。
大河内に会い、理研の下請けをさせてもらう。
水槽鉄塔の設計、ガーネット工場の設備設計、荒川のるつぼ新工場計画などを受注した。
測量、設計、計算、仕様書の作成、工事業者の選定、工事監督を自らこなした。
月収は五百円となり、ひげをたくわえ始めた。愛人も作った。
昭和13年春に20歳になり、徴兵検査で甲種合格。
馬に乗りなれていたので騎兵科に。
半年ほどした昭和13年の末に、入隊通知が来た。
盛岡騎兵第三旅団に配属された。
当時は昭和12年7月7日に盧溝橋事件が起きて、本格的な日中戦争が始まり、戦線が拡大し続けていた。
角栄は昭和14年3月末に、日本陸軍兵の見習いとして満州へ出発した。
満洲に着いた初日から、古参兵の鉄拳をくらう(教育という名のいじめに遭う)毎日となった。
軍人勅諭には、「同級同列でも定年に新旧あれば、新任の者は旧任の者に服従すべし」とあり、同じ階級でも古参者がいばったのである。
角栄は馬の飼料の袋(60~100kgの重さ)を運ばされた。
3ヵ月後、一期検閲が行われた。
これで基礎実習を終え、実戦部隊に配属される。
なお一期検閲は、元々は普通兵科だと4ヵ月、騎兵科だと5ヵ月の訓練の後に行われたが、ノモンハン事件(ソ連軍との戦争)が起きた後は訓練期間が短くなった。
当時、満洲の最前線では、日本軍はものすごいヤキの入れ方で、虐めがすごかった。
他方で現地の兵たちには、女性からの手紙や慰問袋がよく来た。
昭和14年9月15日に、モスクワで日本とソ連の停戦協定が成立した。
角栄は昭和15年11月末に、右乾性胸膜炎で倒れ、入院した。
翌16年2月に療養のため日本へ帰国。
同年4月に危篤となる。
その頃に妹のトシエが病死した。
角栄はその後、快方へ向った。
10月に肺結核と診断され、除隊になった。
🔵除隊後の田中角栄 結婚、建設業をする
除隊となった角栄は、すぐに東京へ行き、再び建築事務所を立ち上げた。
その事務所を貸してくれた坂本家のバツイチの女性・はなと、昭和17年3月3日に結婚した。はなのほうが8歳年上だった。
はなは結婚するさいに、角栄に3つの誓いをさせた。
①家を出ていけと言わないこと、②足蹴にしないこと、③将来に角栄が二重橋を渡る (宮内へ参内する)日があれば彼女を同伴すること。
2人の間には、昭和17年に長男の正法が、19年に長女の眞紀子が生まれた。
昭和18年12月に、事務所を株式会社にして、「田中土建工業」という名に改めた。資本金19万5千円。
この会社は、坂本組(はなの実家)を引き継いでいたので、土建の実績があった。
この角栄の会社は、朝鮮における工場建設を日本軍から受注し、現地で活動中に昭和20年の日本の敗戦となった。
この敗戦時に、建設費を着服したらしい。
🔵日本の敗戦時の大掛かりな不正行為
日本政府が降伏する直前の8月14日に、鈴木内閣は軍の物資を連合軍(占領軍)が来る前に処分する事を決定した。
そして各部隊に対し、全ての物資を速かに放出するよう命じた。
この政府命令によって、軍の物質がタダ同然で一部の人間の手に渡った。
現在の金額で百兆円にも達する物資が横流しされ、闇成金が生まれた。
この命令は、日本に来た連合軍の命令により、28日に取り消された。
また昭和20年8月の終戦の後、軍需会社に対して未払い代金の損失補償金などを名目に、日本軍部からカネが流れ出た。
GHQの占領軍が同年11月に禁止するまでに、266億円(現在の金額で13兆円)ものカネが流出した。
こうした不正を隠蔽するため、8月16日には「軍の物資関係書類を破棄せよ」との 命令も出た。
🔵終戦後の田中角栄は政界進出を目指す
昭和20年8月の終戦のとき、角栄は8月25日に東京に戻った。
彼の会社の十数ヵ所の事務所などは、みな空襲を避けて残っていた。
すぐに家の建築の仕事を始め、占領軍からも仕事を取った。
戦時中の日本の国政は、翼賛政治会、それが名を変えた大日本政治会という組織が牛耳っていた。
終戦当時、議員の90%がこれに所属していた。
日本に来た占領軍は、昭和20年12月31日に衆院を解散させた。
これを受けて、翌年1月31日の選挙に向けて大日本政治会は進歩党を作った。
総裁のポストを宇垣一成と町田忠治が争った。
角栄は、町田派の大麻唯男を会社の顧問にしていて、町田への資金援助を頼まれた。
大金を提供した。
この事から大麻に出馬をさそわれ、角栄は衆院選に立候補した。
昭和21年1月4日に、GHQは軍国主義者の公職追放を命じ、進歩党にいる276人のうち260人が追放となった。
選挙日も延びて、4月10日に行われることとなった。
🔵大混乱の日本経済、角栄の落選
日本政府は、GHQが発足すると「占領軍の経費」を予算支出させられる事になった。
終戦処理費という名目で、国家予算の3分の1がこれの支払いに充てられた。
ものすごくインフレが進行したので、それを止めるため昭和21年2月17日に、金融緊急措置令を日本政府は公布した。
新円を発行し、旧円の預貯金は即日に封鎖した。
旧円の流通を禁じて、封鎖された貯金は100円しかおろせなかった。
終戦直後にボロ儲けした闇成金は、これにより財産(貯金)を失った。
田中角栄は占領軍との仕事を増やし、いち早く新円を稼いだ。
こうして彼は新興の成金となった。
稼いだカネを元手に、進歩党の公認で昭和21年の衆院選に新潟県から出馬したが、落選した。
落選はしたが、理研の工場長である星野と、小学校校長の草間の応援で善戦はした。
このとき角栄は27歳。
落選を受けて、角栄は新潟県にも自分の建設会社の支店を作った。
昭和21年12月29日に、GHQの指令で「自作農創設の特別措置法」が施行された。
この法律により地主階級が消滅した。小作人たちが自作農民になった。
この農業改革により、それまで社会党を応援していた人たちが、今度は自らの利益を増やす事を考え始め、社会党から離れた。
(※ある意味では社会党潰しの政策とも言えるが、基本的には社会主義者たちの理念が実現した法である。)
小作人から解放され、自作農民となった人々は、トンネルや道路、ダムなどの建設を求め始めた。
🔵田中角栄は衆院議員に初当選する、小佐野賢治と知り合う
新憲法が制定されたのを受けて、昭和22年4月25日に総選挙が行われた。
田中角栄は、前回の衆院選では選挙ブローカーを使って落選したのをふまえ、今回は自ら歩き回って活動した。
そして初当選した。
それまで新潟県では上流階級の者ばかりが当選していたが、角栄はその慣例を破った。
なお角栄はこの選挙では、進歩党が改組した民主党の候補として当選した。
小佐野賢治は、角栄の一歳年上で、角栄とビジネス・パートナーになった人。
ロッキード事件では2人共に追及された。
小佐野賢治は戦時中は軍需省の傘下で卸商をいとなみ、終戦時に日本軍の物資を買い取って巨額の儲けを得た。
日本の敗戦時のドサクサに紛れて得た大金を、ホテルなどの購入に当てて、敗戦で価値の暴落した熱海ホテルや箱根強羅ホテルなどを買収した。
小佐野は昭和22年に「国際興業」を設立したが、角栄と知り合いになった。
🔵昭和22年~23年の政界
片山政権は、昭和22年6月1日に、社会党、民主党、国民協同党の連立内閣として発足した。
同年11月に、民主党にいる幣原喜重郎ら15人は、社会党と組んでいる芦田均を見限って脱党し、同志クラブを結成した。ここに田中角栄も参加した。
昭和23年当時の議席数は、片山哲の社会党は143人、吉田茂の自由党は131人、芦田均の民主党は124人だった。
昭和23年3月10日に芦田政権が、民主党、社会党、国民協同党の連立内閣として発足した。
同じ3月に、同志クラブらの31人は自由党に合流し、数の増えた自由党は第一党になった。
田中角栄も自由党に入り、選挙部長になって資金集めなどで活躍し始めた。
芦田内閣は、昭和23年10月に昭和電工・疑獄事件をうけて退陣した。
民主自由党が第一党なので首相を出す事になったが、GHQは党首の吉田茂を嫌い、幹事長の山崎を推した。
田中角栄はGHQの言いなりになるのは間違っているとして猛反対し、意見が通って吉田が首相になった。
(※この本『異形の将軍 田中角栄の生涯』は角栄が主役のため、吉田政権になったのを角栄の功績としている。だが当時はGHQ内部で権力闘争があり、吉田を推す勢力が勝ったというのが真相だろう。)
吉田政権で、角栄は法務政務次官に抜擢された。
🔵田中角栄は逮捕されるが、衆院選で当選
昭和23年11月11日に、炭管事件(炭鉱国管疑獄)で田中角栄が経営する田中土建の本社が家宅捜索された。
この汚職事件は、炭鉱業者から炭鉱国営化に反対するための資金などで、政治家が不当な取引をしたとの疑惑である。
田中角栄は12月13日に逮捕された。
昭和23年12月23日に衆院は解散した。
角栄は立候補を決めた。
翌24年1月13日に、角栄は保釈された。
23日の投票に向け、角栄は選挙区内を回り、秘書の曳田らは資金を集めた。
この頃、田中土建の経営は悪化していた。
角栄は当選した。
公共事業を地元でさかん行っているのが支持を得た。
🔵池田勇人。角栄は無罪判決に
第三次・吉田内閣が組閣される時、田中角栄は大蔵大臣に池田勇人を推した。これが容れられた。
池田勇人は、明治32年の生まれで、角栄の19歳年上。
広島県の酒造業の家の出である。
池田は大正14年に大蔵省に就職。
だが象皮病という難病にかかり辞職した。療養中に看病してくれた遠縁の娘と結婚。
全快後に大蔵省へ再び就職した。
日本の敗戦後、GHQの公職追放令で池田の上司たち(大蔵省の幹部たち)がみな辞めさせられた。
その結果、池田は昭和22年に事務次官まで一気に昇進した。
昭和24年の選挙で衆院議員となった。
角栄は池田をインテリだが人情もあると高く評価していた。
角栄の義理の娘と池田の甥が後に政略結婚している。
昭和25年4月11日、角栄は炭管事件で懲役6ヵ月、執行猶予2年の実刑判決となる。
だが同年6月に二審で無罪判決となった。