(以下は『異形の将軍 田中角栄の生涯』津本陽著からの抜粋
2004年6月29日から半月くらいかけてノートにとり勉強
2026年6月19日&27日、7月6&9日に作成)
🔵田中角栄は議員立法をして、新潟県を中心に富と利権を築く
衆院議員の田中角栄は昭和25年11月1日に、赤字となっている長岡鉄道の電化(石炭からの電気化)を依頼され、社長に就任した。
彼は銀行に働きかけて資金を出させた。
この電化工事で角栄は、中古品のレール車両を買いつけ、帳簿には新品を買った事にして高値を書き、その差額を選挙資金にしたらしい。
昭和27年(1952年)に吉田茂・首相は、反吉田派の勢力を倒すため衆院を解散した。
11月1日に行われた衆院選で、田中角栄は初めて選挙区でトップ当選した。
この年に長岡鉄道は電気化し、全線開通した。
角栄は長岡鉄道を関藤栄に任せて、バス・ハイヤー部門を新設させた。
さらに砂利の採取と販売も始めた。
田中角栄は、昭和25年に身請けした芸妓・辻和子に、26年に男児を生ませた。
角栄は昭和26年頃から、後援会員を団体用バスで東京・目白の自宅に招いてもてなす、「目白詣で」を始めた。
昭和28年の時点で、新潟県の山間にある入広瀬村は、主食が未だに芋と大豆で、炭を作って売った金で盆と正月だけ白米を食べていた。
この村から陳情を受けた角栄は、山地の整備をして農地を作る予算を出した。
角栄は、自ら「住宅金融公庫法」と「公営住宅法」を立案・作成して国会に提出した。
昭和27年に角栄は、佐藤昭子を誘って秘書にした。
佐藤はちょうど離婚する所で、仕事に困っていたのを、知り合いの角栄が秘書に誘った。
大平正芳は、昭和27年に国会議員に初当選したが、後に首相になった人。
大平は明治44年生まれで、角栄よりも8歳年上で、大蔵省の出身である。
大平は、蔵相になった池田勇人に見込まれて、昭和24年に大蔵省秘書官になり、そこから政治家に転身した。
田中角栄と大平正芳は、気が合い仲良くなった。
昭和27年4月に田中角栄は、「道路法」を作成して国会に提出した。
これは6月に公布された。
当時は舗装道路がきわめて少なく、道路整備が急務だった。
昭和28年7月に、ガソリン税を道路建設に当てる法案が成立した。これも角栄が作成したものである。
当時、角栄は議員立法を33本も成立させ、政策力を評価された。
昭和28年6月28日に、「越山会」(角栄の後援会)が発足した。
角栄は、大型ダム発電所の誘致に成功し、地元に巨額の利益が出た。
このダムは、当時の日本の最大規模であった。
ダム付近の農民は、大手会社の下働きで土木をし、後に独立して業者になった。
角栄が経営する長岡鉄道も、砂利を独占で売って儲けた。
角栄はダム誘致のための運動資金ももらい、大儲けした。一気に大金持ちになった。
角栄は、まだ地方のインフラが未熟だった当時、次のように説いて支持された。
「官僚は数十億円の経費で橋を架けるのであれば、利用者は何十万人も必要だと計算するが、トンネルの利用者が150人でもその人たちが欠かせないものなら作るべきだ。
都会ではトンネルや橋の一本が生活を左右する事はないが、地方は一本の重みが全く違う。」
昭和29年12月に、吉田内閣が倒れて鳩山内閣になった。
昭和30年9月に長岡鉄道は不正事件で立件され、田中角栄も起訴された。
しかし11月15日に保守合同(保守派の政党の合併)で自民党が誕生したことで、角栄はこの事件を追及をされなかった。
田中角栄は、昭和31年に「有料道路法」を可決させた。これも彼の議員立法である。
大蔵省の反対を押し切り成立させた。
これは予算編成を建設省ができる法だったため、大蔵省は反対した。
角栄は大蔵省の若手実務者に対し、日本再建の基礎は道路だと一人ずつ説得した。
🔵田中角栄は大臣にまで出世する。郵政大臣に。
昭和31年の末に、鳩山首相が病気で引退となった。
自民党は総裁選を行い、岸信介に7票差で石橋湛山が勝ち、石橋が首相に選ばれた。
ところが翌32年の2月に石橋は病に倒れ、岸信介が首相に就いた。
同年7月の内閣改造で、田中角栄は郵政大臣になった。
なお角栄は自民党の中で佐藤派(※佐藤栄作の支持派。栄作は岸信介の弟である)だった。
10月に角栄は、郵政省の局長二人を勇退させた。
彼は自ら次官室に行って話をするなど、官僚たちに対して偉ぶらなかった。
この頃、角栄の秘書だった佐藤昭子は、角栄の子を8月に産んだ。当時の彼女には夫がいた。
昭33年1月に、角栄の側近の曳田が急死したため、佐藤昭子が秘書に復帰した。
なお曳田の後は山田が継いだ。
昭和33年の春に、全逓組合(※郵政事業の労働組合。当時は郵政事業は完全に国営である。)が勤務時間にくいこむ大会を開いた。
田中角栄・大臣は、「勤務しないで組合運動するとは何事だ」と、組合員の1割に及ぶ2万2千人の大量処分を断行した。
(※田中角栄は庶民の代表と評されることがよくある。
だが彼の経歴を見れば、彼が経営者気質であり、経営者目線の価値観を持つ人だと分かる。
だから自民党で上手くやれたのだ。
もし庶民感覚があれば、労働組合の弾圧になるこんな事はしなかっただろう。)
当時はテレビ放送が始まったときで、TV局の免許を得たNHK、日本テレビが放送を始め、テレビ放送の申請が郵政省に殺到した。
郵政省では大量に許可すると技術上難しくなるとの見方だったが、田中角栄・大臣は一挙に民放37局、NHK7局に予備免許を与えた。
これにより一気にテレビ時代に突入した。
同じころ、角栄は地元に全国初で、農集電話(農村集団自動電話のこと。一つの電話回線を5〜10軒ぐらいで使うもので、電話料金は安いが、どこかの家で電話をかけている時は他の家では使えなかった)を設置した。
当時はまだ、学校、郵便局くらいにしか電話がなかった。
昭和33年、地元で中越自動車、栃尾鉄道、長岡鉄道の合併の話が生まれるが、白紙になった。
田中角栄は、東急社長の五島慶太および小佐野賢治と組んで、中越自動車の株買い占めを進めた。
そして昭和34年5月に、中越自動車の会長に田中角栄が、社長に五島の懐刀の田中勇が就任した。
(※いわゆる会社の乗っ取りである)
昭和34年6月に三国トンネルが開通し、新潟県は一気に開発地域となった。
角栄は栃尾鉄道を買収し、三社を合併させて、越後交通が発足した。
同年8月に五島慶太は病死。
五島の持ち株を角栄が譲り受け、越後交通の筆頭株主になった。社長は田中勇が就いた。
小佐野と組んだこの頃から、角栄は高飛車でアクの強いタイプに変身しだした。
角栄は、日本電建の社長および筆頭株主にもなり、土地、建物の売買や株取引を始めた。
🔵田中角栄は大蔵大臣になる
昭和36年(1961年)7月18日に、田中角栄は自民党の政調会長になった。
翌37年の7月18日に、大蔵大臣に就任した。44歳で史上最年少の就任だった。
この時に角栄は、「これまでの表日本中心だった投資を、裏日本中心に改める」と発言した。
大蔵官僚は他の省庁の者と違い、取りつきにくく、打ちとけない。特殊な人々である。
だが角栄は、次官、局長よりも課長や課長補佐と親しくし、何かあると祝儀をあげて仲良くなった。
昭和37年8月、角栄が大蔵大臣になった直後に、「産業投資特別会計法」が可決された。
これはガリオア・エロアの対米債務問題の法で、対米債務は19億ドルだった。
ガリオア・エロアとは、日本が米軍に占領された時代に米国政府から受けた援助金のことである。
これを米国は、日本の債務だと主張し、返せと言ってきていた。
(日本と同様に支援を受けた)西ドイツは支払ってなくて、大蔵省は「贈与であるから返さなくていい」と主張していた。
田中角栄・大臣は、この援助で助けられたのだから返すが、時間をかけて返すと決定した。
昭和39年に開かれる東京オリンピックのため、準備金として4年で1兆円(30億ドル)の投資を日本政府は行った。
IMFの年次総会を初めて日本で昭和39年に開いた。
無理と言われていたのを、角栄が押しきって成功した。
昭和39~40年に、角栄は地元・新潟県の水害のある土地を農民たちから買い上げ、その後に提防を作って水害のない優良な土地にし、上がった地価で大儲けした。
角栄が大物になるにつれ、秘書の山田は公共事業を地元の各町村へ割りあてるシステムを作り上げた。
陳情の数は減り、利権のパイプラインが自動的に作動するようになった。
角栄は、「積雪寒冷地冬季交通確保に関する法律」を立法し、国費の補助で除雪を行えるようにした。
他にも「北海道耐寒住宅法」も立法・成立させた。
雪国の人々は、除雪に追われ10ヵ月しか働けない。
その一方で、雪は水や電力となり、大都市を支えている。
雪国の建物は耐用年数が半分以下だが、固定資産税率は都市よりも高い。
昭和38年3月26日に、降雪による災害を激甚災害に指定した。
これにより高率の国家補助をうけられるようになった。
この頃から角栄は、地元だけでなく全国の開発の遅れている地域で人気が広がった。
🔵昭和40年の大不況、田中角栄は自民党の幹事長に
昭和40年は、大不況の年になった。
証券バブルがはじけたのが一因である。
昭40年上期に、山一証券は株の下落で営業収入が落ち、負債が600億円になった。
山一は、四大証券のうち最も古風で、大神社長と山瀬部長は「兜町の教祖」と呼ばれ、売り方に対し強気に買い向かって仕手戦に勝つという、強引な方針で成果を上げていた。
この方針を昭和37年以降の株価反落でも変えず、大赤字になったのだ。
昭和40年5月21日に、山一証券の大赤字が新聞に出て、投信の解約が殺到した。
5月29日に、田中角栄・大蔵大臣は日銀の特別融資で解決した。
昭和40年6月3日に、田中角栄は自民党の幹事長に選ばれた。
当時は佐藤栄作・内閣だが、幹事長は自民党総裁(首相)の党務を代行する人で、党の公認を与える権限を持っている。
各派閥が推薦する候補者を拒否する権限も持っている。
角栄は、地元・新潟県の公共事業は、親しい業者を頂点に置いて、中小・零細を従えるピラミッド型に組織立てた。
分かったの角さんと言われ、陳情の途中で分かったと切り上げることで、多くの陳情者と接した。
だがちゃんと内容は理解していた。
ちなみにライバルだった福田赳夫は逆で、一人一人に丁寧に聞いた。
そのため多人数には接することはできなかった。
🔵佐藤政権下の田中角栄
田中角栄は佐藤内閣の大蔵大臣の時に、大蔵省から国有地の土地(虎ノ門の土地)を11億円で親しくしている政商の小佐野賢治に払い下げた。
小佐野はそれをすぐに転売し、1年で17億7千万円も儲けた。
角栄は、地元の公共事業の用地買収に介入し、カネ儲けしていた。
また越山会は、若者の就職の斡旋をし、会員を増やした。
1万人以上も就職の斡旋をした。
角栄は昭和44年3月19日に、再び自民党の幹事長に任命された。
幹事長は全国の陳情を聞くため、全国に人脈ができる。
角栄は、官僚の留学の世話もした。
官僚は留学経験があると出世が早いので、これに感謝した。
自民党の岸信介と福田赳夫は仲が良く、角栄を失脚させようと協力していた。
この時代は大学紛争(大学での学生運動)が盛んで、昭和41年の早稲田大学の授業料値上げ反対のストがその始まりだった。
昭和43年1月に、東大医学部の自治会がインターン(無給研修医)制度の改革案を教授会に提出した。
これが大きな紛争に発展し、6月に学生数十人が安田講堂を占拠した。
機動隊が出動して学生を排除した。
この武力排除に怒り、東大の全学部がストに突入した。
さらに全学共闘会議が生まれた。
昭和44年には165の大学で学生ストが始まり、高校にも波及した。
この状況を受けて、「大学運営臨時措置法・案」が国会に提出された。
この法律は、粉争の起きている大学は6ヵ月間は一時休校でき、9カ月以上も粉争が続いた場合は文部大臣が閉校にできる。
閉校から3ヵ月たっても紛争続いていたら、廃校にできるというもの。
この法案は与党内(自民党内)にも慎重論が多く、野党や大学関係者が反対する中、角栄はほとんど一人でこれを採決(昭和44年8月)に持ちこんだ。
角栄はカネ集めが上手く、所属する自民党・佐藤派の資金の3分の1を調達していると言われていた。
この時代は、反米運動・反米思想、自主独立運動が盛り上がっていた。
この圧力により、昭和44年11月に佐藤栄作・首相は渡米してニクソン大統領と会談したさい、沖縄の核抜き、本土なみの返還を要求した。
これを米国政府は受け入れ、昭和47年に沖縄返還が実現する事になった。
昭和44年12月27日に衆議院選挙が行われ、自民党は大勝した。
幹事長の角栄は株を上げた。
この選挙では、梶山静六、小沢一郎、羽田孜らが初当選した。
角栄は、上越新幹線と関越高速道路の実現を悲願にしていた。
佐藤栄作・首相は、福田赳夫や保利と組んで、力をつけた田中角栄と川島正次郎を失脚させようとした。
田中角栄は反主流派の前尾、中曽根、三木を仲間にして、佐藤陣営と対抗した。
ちなみに岸、佐藤、福田は、台湾支持で、反中国の立場だった。
角栄が発案した「自動車新税」は、自動車業界の猛反対にあったが、道路、鉄道業界に後押しされて可決となった
角栄はこの税収を、「新幹線を全国に引くのに使う」と主張した。
角栄と川島は、佐藤に自民党総裁(首相)を続けてもらって、福田を首相にしないよう努力した。
福田は高齢で、もう後がない状況だった。
昭和45年10月29日に、自民党の総裁選が行われ、佐藤が353票、三木が111票で佐藤が四選を果たした。
同年11月9日に、川島正次郎は急死した。
🔵田中角栄は通産大臣になる
昭和46年6月27日に参議院選挙が行われ、自民党は改選前の64議席を下回る63となった。
これを受けて幹事長の田中角栄は自ら辞任した。
この頃になると、佐藤栄作の長期政権は飽きられ、国民の支持率がどんどん下がっていた。
昭和46年7月5日の内閣改造で通産大臣に任命された。
当時は、昭和44年7月の交渉以来、日米の繊維交渉は暗礁にのり上げていた。
米国は繊維について、対米輸出の自主規制を求めてきたが、日本は拒否していた。
繊維業界はニクソン・米国大統領の大票田だった。
角栄の前に、大平、宮沢喜一が通産大臣をしたが、この問題を解決できなかった。
当時、参院は自民党の重宗雄三・議長が10年近く議長を務め、完全に牛耳っていた。
そして重宗は、佐藤首相と強く結びついていた。
佐藤と重宗は、福田を次の首相にしようとしていた。
しかし参院改革の声が高まり、昭和46年7月16日に重宗は議長選への出馬を断念。
翌日に角栄に近い河野謙三(河野一郎の弟)が選出された。
🔵ニクソン・ショックと日米繊維協定の締結
昭和46年7月14日に、米国のヘンリー・キッシンジャー大統領特別補佐官が北京へ行って交渉し、 ニクソン大統領の北京訪問や、毛沢東・主席、周恩来・首相との会談を決定した。
この件は、日本へ事前通知がなかった。
それまで米国と中国は長く敵対していたから、日本も大きな衝撃をうけ、ニクソン・ショックと呼ばれた。
同年8月15日に、日本で第二次ニクソン・ショックが起きた。
ニクソン政権は、日本製品に対して10%の課徴金をかけると発表したのだ。
これも日本に通知がなかった。(※発表の10分前に通知された)
当時、日本の繊維業は年20%増で輸出が伸びていた。
それを佐藤政権(田中角栄・通産大臣)が主導して、化合繊維は年5%増、毛繊維は1%増に3年間おさえ、その補償として2000億円の大予算を組むことにした。
この法案が通って、日本政府は補償金を業者に支払うことになった。
その際、休止した機械は廃棄させた。
(※完全な敗北である。情けない。)
同年10月15日に、『日米繊維協定』が結ばれた。
🔵中国の国連参加、沖縄返還
昭和46年(1971年)10月26日に、国連総会でアルバニアを中心とした決議が行われ、中国の国連参加と安保理事国入りが、賛成76、反対35、棄権17、欠3で可決した。
これを受けて、佐藤内閣は台湾支持を撤回し、中国政府と国交を開くため交渉したが、失敗に終わった。
同年11月24日に、自民党、公明党、民社党の賛成で『沖縄返還協定』が国会で可決した。
社会党と共産党は、米軍基地の全面撤廃がないため、これに反対票を入れた。
田中角栄は、窮地には強く、繁栄時には弱い人だった。
得意技は再建だった。
昭和47年(1972年)2月2日、佐藤首相は「台湾は中国の領土である」と発言したが、彼がそれまで言っていた事と全く反対のため、大問題になった。