(以下は『異形の将軍 田中角栄の生涯』津本陽著からの抜粋
2004年6月29日から半月くらいかけてノートにとり勉強
2026年7月10~11日に作成)
🔵田中角栄は田中派を立ち上げる
昭和47年(1972年)5月9日に田中角栄は、田中派を旗上げした。
これは長老格の木村武雄を中心に、衆院議員では以下の者達が参加した。
まず金丸信、愛知揆一(前外相)。
佐藤派からは、二階堂進、竹下登(官房長官)、橋本登美三郎、亀岡、仮谷、小渕恵三、橋本龍太郎、山下元利(がんり)、小沢一郎(角栄の愛弟子)、羽田孜、奥田敬和(けいわ)、石井一、綿貫民輔など。
無派閥からは、渡部恒三、小沢辰男。
衆院は計40人で、他に参院議員も41人が参加した。
この結果、佐藤派は衆院で20人、参院で24人に減った。
佐藤栄作・首相や、その側近の福田赳夫、保利・幹事長は苦境におちいった。
同年6月2日に、田中派と大平派(40人)は会合を開き、協力する事を決定した。
🔵佐藤首相が引退を表明し、総裁選が行われる。田中角栄が勝ち首相になる。
昭和47年6月17日に佐藤首相は、「沖縄の復帰(沖縄返還)を果たしたので引退する」と表明した。
その際に佐藤は、語り継がれるほどの最低な記者会見を行った。
佐藤政権は7年8カ月の長期政権だった。この時に佐藤は71歳。
佐藤は首相の時期、待ちの政治を一貫していたため、いろんな意見を聞き流して聞かなかった。
田中角栄は、中曽根派23名を味方に引きこんだ。
橋本と斎藤の2人は、福田支持の周山クラブを脱退し、田中支持にのりかえた。
6月20日に、角栄の書いた『日本列島改造論』が発売され、80万部の売り上げとなるベストセラーになっていった。
この本は、昭和43年に自民党の都市政策調査会がまとめた大綱が元になっていた。
地方都市の整備と、農村の発展を主張していた。
佐藤首相が辞めたので、自民党は総裁選を行うことにし、田中角栄、福田、大平、三木の四氏が出馬した。
この選挙では、角栄が大金を使ったとのもっぱらの噂だった。
当時の角栄は、朝は必ず4時に起き、書類に目を通して、5時からは新聞を読み、6時には秘書の佐藤昭子に打ち合わせの電話をした。
7月5日に、自民党の総裁選が行われた。
衆参の国会議員の他に、地方の代議員も加わるやり方で行われた。
田中156票、福田150票、大平101票、三木69票だった。
決選投票が行われて、田中282票、福田190票となった。
こうして田中角栄が次の首相に決まった。
ちなみに福田は、血液型はO型、体重は50kg以下と痩せていた。
発足した田中内閣は、世論調査で歴代最高の62%の支持率となった。
田中内閣で活躍した後藤田正晴は、次のように話す。
「金権政治は田中角栄に始まったのではなく、戦後ずっとそうだった。
吉田内閣の時の1954年の造船疑獄では、検察が狙った本命は佐藤栄作と池田勇人だった。
田中時代になってから、金権政治の密度が増した。」
政治家などが悪事で金を得た時、キャッシュオン・デリバリーを守ればほとんど逮捕されない。
キャッシュオン・デリバリーとは、カネを銀行に振りこませず、現金で入手して、領収証を渡さないこと。
税務調査は銀行で始まり、銀行で終わるというくらいに、銀行が重要。
だから現金で保持されると捜査が難しい。
🔵田中政権、日中の国交回復
土地価格が急上昇し始めたのは、昭和33年頃から。
昭和35~40年頃に、不動産屋はキャッチボールと呼ぶ土地を次々と転売買させるやり方で 、大儲けした。
田中角栄も土地売買をさかんに行い、大儲けしていた。
角栄は首相就任の会見で、日本列島改造と日中国交回復を掲げた。
右翼たちは台湾支持派のため、角栄に敵意を持った。
発足した田中内閣は、大平が外相に、二階堂が官房長官に就いた。
公明党の竹入委員長は中国と太いパイプがあり、田中首相と中国政府の仲介をした。
中国政府は交渉において、日米安保条約は交渉と切り離す、日本への(日中戦争時の)賠償請求権を放棄する、との譲歩をしてきた。
昭47年(1972年)9月1日に、田中首相はハワイでニクソン大統領と会見した。
ここで日中の国交回復は良い事だと結論された。
9月25日に、田中首相は訪中のため出発した。
この前に右翼の反対勢力による暗殺未遂事件もあった。
高島益郎・外務省・条約局長が、日中の交渉の場で以下の発言をした。
「中国を唯一の合法政府と承認しよう。しかし台湾を中国の一省と認めるわけにはいかない。なぜなら日本は台湾と日華平和条約を結んだからだ。
もし台湾を中国の一省と認めたら、日本は中国の一省と平和条約を結んだことになり、筋が通らない。」
この外務官僚的な場の空気を無視した発言で、交渉がこじれてしまった。
さらに高島は、賠償問題は日華平和条約ですでに解決していると、強弁した。
田中首相、大平外相、二階堂・官房長官は、中国の毛沢東・主席と会談した。
9月29日に、日中は国交回復の共同宣言に署名した。
🔵田中政権の列島改造計画と地価高騰
昭和47年のGNPは、1~3月は3.4%、4~6月は4.9%、7~9月は4.8%、10~12月は5.3%のプラスだった。
この間、5度の利下げが行われた。
47年度の国家予算は、12兆1千億円と戦後最高で、前年比で2兆4千5百億円の増加(20%増)だった。
日銀が円高抑制のためドル買い円売り介入を続けたため、円が国内で溢れて、やがて土地の買い占めにカネが殺到した。
大豆が3000円から1万5千円以上に急騰し、黄色いダイヤと呼ばれる状態になった。
昭和47年9月14日の閣議で、列島改造計画の第一号として、青森県六ヶ所村の石油コンビナート建設を決定した。
土地ブームの波に乗り、地方の知事や市長や企業主が開発に使用される土地を事前に知って買いあさり、大儲けするのが常態化した。
この買いあさりのボロ儲けは、角栄の盟友である国際興業の小佐野賢治が筆頭格だった。
田中内閣の支持率が急降下し、翌年に予定していた衆院選挙を年内に行わざるをえなくなった。
田中首相は11月13日に、衆院を解散した。
12月10日に選挙は行われ、自民党は26議席減り、271になった。
社会党は87から118に、共産党は14から38に増えた。
中間政党の公明党は47から29に、民社党は29から19に減った。
昭和47年度中に全国平均で地価は30.9%も上昇した。
48年3月になると、卸売り物価は前年比11%高と、極度のインフレに入った。
選挙後の第二次・田中内閣では、大蔵大臣に愛知揆一(元大蔵官僚)、自治大臣に江崎真澄、副総理に三木武夫、外務大臣に大平、通産大臣に中曽根、官房長官に二階堂、行政官理庁・長官に福田赳夫が就いた。
昭和48年度予算は、一般会計が24.6%増、財政投融資が28.3%増の超大型となった。
🔵石油ショックが起きる
昭和48年(1973年)の10月6日に、中東のイスラエルとエジプト・シリア軍が戦闘を開始した。(第四次・中東戦争)
同月17日にOAPEC(アラブ石油輸出国機構)は、イスラエルに友好な国に対する石油輸出の制限を決定した。
アメリカ、オランダには全面禁輸とした。
OAPECは、さらに原油価格を70%値上げした。このため石油ショック(石油危機)が起きた。
当時の日本は、エネルギー源の77%が石油で、石油の80%を中東に頼っていた。
11月16日の閣議で石油緊急対策要綱を決定した。
これはマイカー自粛、企業の電力消費10%減などを求める内容。
11月14日に、米政府の特使としてキッシンジャーが来日。
日本がアラブ寄りの外交をしないよう要請してきた。
田中首相は、「アメリカが石油を供給してくれるなら、そうする」とキッシンジャーに答えたが、この要求を拒否された。
11月22日に日本政府は、アラブ支持を表明。新中東政策を発表した。
その内容を次のものであった。
①武力による占領に反対する
②1967年戦争の全占領地からイスラエルは撤退する
③同地域の全ての国々の安全を保障する
④パレスチナ人の正当な権利を承認し尊重する
11月23日に蔵相の愛知揆一が急死。
田中首相は後任に福田赳夫を指名。
福田から「日本列島改造を見送るなら就任する」と言われ、田中は承諾した。
昭和49年1月1日、地価の上昇率が年間32.4%となり史上最高に。
1月の卸売物価は前年比35%高となった。
田中政権のエネルギー自立戦略に対し、米政府の首脳や石油メジャー会社は強く反発した。
福田蔵相は、昭和49年度予算を19%増に抑え、例年だと30%増だった公共事業費を0.7%減に、財投も23%増にとどめた。
これにより、新幹線や高速道路は建設が遅れた。
昭和49年の春闘では、物価の高騰を理由に30%増のベースアップを要求し、各企業は受け入れた。
同年7月7日の参院選で、自民党は敗北し、過半数割れになった。8人減で62人になった。
7月12日に三木副総理が辞任した。
三木は辞任理由について、「自民党の金権体質を改善するため」と発表。
7月16日に福田蔵相も辞任した。
角福対立の調整をしていた保利茂・行政官理庁長官も、責任を取って辞任した。
田中首相は、蔵相に大平外相を持ってきた。
この頃、田中首相は体調を大きく崩した。
🔵田中角栄の金権体質が追及される。田中は首相を辞任する
昭和49年10月9日に、文藝春秋11月号が発売された。
ここに、立花隆の書いた『田中角栄研究・その金脈と人脈』と、児玉隆也の書いた『淋しき越山会の女王(※田中角栄の秘書をする佐藤昭子のこと)』が掲載されていた。
この記事は、田中角栄の金銭スキャンダルを書いていた。
角栄は、『淋しき越山会の女王』の方だけでも掲載を中止してくれと働きかけていたが、だめだった。
だが田中首相は、法律を熟知していたため、自分は立件されないと確信していた。
自民党の福田派は、田中の噂をどんどん流し始め、このスキャンダルをエスカレートさせた。
10月22日に、外国人記者クラブの会見で金権政治への質問が相次ぎ、田中首相はしどろもどろになった。
これを各紙が大きく報じ、 スキャンダルが全国規模に知れ渡ってしまった。
当時の日本では、金権政治は必要悪であるとの認識が主流だったが、外国人記者が大きく取り上げて、それに日本人記者が同調した。
この追及は、米国政府が画策する田中降ろしが背後にあった。
11月11日に田中首相は内閣改造を行い、田中派、大平派、中曽根派という自民党主流派の幹部で固めた。
11月26日に田中首相は退陣表明をした。2年4ヵ月の政権だった。
田中家では、娘の真紀子を中心に角栄に怒って、大混乱だった。
この時代までは、検察や国税局が動かない限り、政治家の金銭スキャンダルをメディアは取り上げなかった。
角栄は法律違反を全くしていなかったため、立件されないと自信を持っていたが、国民が倫理感のなさを感じて角栄を支持しなくなった。
これは新しい現象で、現在に続く現象である。