田中角栄と道路建設

(以下はサイト『北山敏和の鉄道いまむかし』
「田中角栄と道路建設」という記事からの抜粋
2026年10月15日に作成)

🔵目次

国会議員になった田中角栄は道路建設に力を入れる

建設省の官僚と共にガソリン税をつくる

田中角栄は大蔵大臣になる

昭和40年の大不況、田中角栄は自民党の幹事長に

佐藤政権下の田中角栄

田中角栄は通産大臣になる

ニクソン・ショックと日米繊維協定の締結

中国の国連参加、沖縄返還

🔵国会議員になった田中角栄は道路建設に力を入れる

田中角栄が衆議院選挙に初当選を果たしたのは1947(昭和22)年12月。
この月にGHQ(連合国軍総司令部)によって内務省が廃止され、翌1948年7月に建設省が発足した。

田中角栄は当選すると毎日、自分で建設省をまわり、自分の名刺を配って歩いた。

自分と比較的年齢が近く実務にたけた課長クラスの官僚のところに顔を出し、「当選しました田中角栄です。どうぞよろしくお願いいたします」と挨拶してまわった。

時には地元の町村長の陳情に付き添って、一緒になって官僚に頭を下げた。

当時はまだ、特定の省庁と結びつく、いわゆる族議員と呼ばれる政治家は現れていなかった。

官僚に直接に接触を求める代議士は、当時はきわめて稀だった。
そのため若い官僚たちの間に田中の名前は、「変わったやつ」として浸透していったという。

田中角栄は、いったい何をめざして建設省に乗り込んでいったのだろうか。

その手がかりとなるカセットテープが、支待者の手許に残っていた。

1976年11月、角栄がロッキード事件で逮捕されてから4ヵ月後のことだが、地元・新潟県柏崎市での講演の中で角栄はこう語っている。

「私は新潟県の代議士になった時に、三国隨道(トンネル)というのが通っておらない(ために)、新潟県というのは独立国だなと思ったんですよ。

これでは新潟県はよくならん。窓をあけなきゃ鎖国経済だと思ったんです。

それで私は交通網で結ぼうと、立法したんです、立法を。」

三国山脈にトンネルをつくり、新潟県を交通網で結ぶ。
それが彼の当初の政治目標であった。

🔵建設省の官僚と共にガソリン税をつくる

田中が建設省に足を運び始めた1947年から48年ごろは、日本は終戦直後の混乱からようやく立ち直り、復興への道を歩み始めていた。

トラックの需要が急速に増え、1945年度に14万台だった日本の自動車の保有台数は、1950年度には36万台となった。

これに対して、道路の整備は遅々として進まなかった。

1949年度の時点で、国道と都道府県道を合わせた13万1923キロメートルのうち、舗装された道路はわずか2.1%だった。

この3年後でも、舗装率は2.7%にすぎない。

1948年から56年まで道路局企画課長を務めた佐藤寛政は、戦後復興が急がれるなか、なかなか進まない道路整備に焦りを感じていた。

ある時に佐藤は、補修課の課長補佐だった河北正治を伴って、全国の道路の視察に出かけた。
朝7時に日本橋を出発して東海道を進んだが、名古屋に到着したのは2日目の夜だった。
河北によれば、砂利道が続くため、名古屋に着いた時は全身ほこりだらけで、顔は真っ黒だったという。

視察を終えて帰京した佐藤は、道路の整備を進めるには画期的な財源が必要だと強く感じていた。
道路局の路政課長だった浅村廉も、同じ思いだった。

2人はGHQの資料を取り寄せて、アメリカの道路整備について研究を始めた。

その結果、アメリカではガソリン税を目的税にして道路財源に使い、それによって道路整備が促進されていると知った。

ガソリン税を道路整備にまわすことができれば、大蔵省の予算査定に関係なく、建設省の自由になる財源ができる。

しかし特定の目的のための税金、いわゆる「特定財源」は、それまで日本には一つもなかった。

大蔵省は、特定財源により税金の使い道が制約を受けることに、強く反対していた。

大蔵省の持つ予算配分の特権が侵されるからだ。

佐藤寛政は策を練った。目をつけたのは世論の喚起だ。

道路問題に関心の強い市町村長や、自動車関係の諸団体に働きかけ、1949年2月に『全国道路利用者会議』を設立した。
そして道路整備を進めるためには特定の財源が必要だという世論を盛り上げていった。

こうした活動が功を奏し、戦時中に廃止となっていた「揮発油税」が復活した。

しかし揮発油税は「特定財源」ではなく、使い道を特定しない「一般財源」になった。

悔しがる佐藤に対して、上司の道路局長・富樫凱一は言った。

「運動を盛り上げても、役所が提出する政府提案(法案)では、予算の編成権を盾に大蔵省が認めるはずがない」

これを受けて佐藤は、「政府提案がだめなら、議員提案(議員立法)にすればいい」と考えた。

当時はGHQの方針もあって、「議員立法」が奨励されていた。
そして佐藤の頭に浮かんだ代議士が、田中角栄だった。

このころ角栄は、衆議院建設委員会の理事を務め、道路予算に深くかかわるようになっていた。

角栄は、のちにガソリン税法と合わせて「道路三法」と呼ばれる、「道路法」(1952年6月に成立)を議員立法し、「道路整備特別措置法(有料追跡法)」(1952年5月に成立)にも関わっており、建設委員の中でも目立つ存在だった。

佐藤は田中を食事に誘い、こう特ちかけた。

「あなたを見込んでご相談があります。私たちは何とかして道路整備を早くしなければと思っているのですが、それにはまず財源を安定的に確保することが必要です。

それで、ガソリン税を道路整備にまわすという法案をですね……」

角栄は大乗り気で即座に答えた。「そりゃあいい。よし、俺がやってやる」

角栄が先頭に立って提案することになった『ガソリン税法』は、田中と建設官僚との親密な関係を決定づけることになった。

田中角栄の秘書(と愛人)を務めた佐藤昭子は、角栄の地元・新潟県柏崎市の出身で、1946年に角栄が初めて国政選挙に立候補した時に選挙を手伝ったことが縁となり、1952年から秘書となった。

角栄は、ガソリン税法の立法をめざすようになってからは、道路局の浅村路政・課長に指示して答弁のための資料を届けさせ、道路関係者を集めて連日、答弁の準備に没頭した。

角栄は私邸に、全国の五万分の一の地図を買いそろえていた。
自分の構想にのっとって道路や鉄道を地図に書き入れていくのが趣味であった。

1949年当時、新潟県内の国道の舗装率は4.1%で、全国平均の5分の1にすぎなかった。
冬の間、雪に閉ざされる集落では、人々が力を合わせて手掘りのトンネルを掘って道をつないでいた。

道路整備において新潟県のような日本海側は、常に後回しにされて金がまわってこない状態だった。

だから角栄たちは予算確保のためにガソリン税法を求めたのである。

1952(昭和27)年10月に発足した第4次・吉田茂内閣で、建設大臣に就任したのは佐藤栄作だった。

佐藤はガソリン税の目的税化に協力的だった。

だがガソリン税で産業道路の改良を重点的に行おうという佐藤の構想に、角栄は内心で反発を感じた。
「ガソリン税を道路整備の財源として確保しても、日本海側につぎ込めないのなら格差は縮まない」と。

国会で質問に立った角栄は持論を展開した。

「明治初年からの長い官僚政治では、都市集中、表日本集中の政治が行われました。裏日本、北海道等が、国費の恩典に浴さないことは私が言うまでもない事実です。

表日本中心の舗装に重点をおかれるのでは、私は異論があります。」

佐藤大臣は角栄のこの発言を受けて、「表日本偏重の道路政策をとる考え方は毛頭なく、まんべんのない方策をとる」と答弁した。

ガソリン税を道路整備の財源にまわそうという『ガソリン税法』(正式名称は「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」)は1952年12月23日、田中を含めた衆参両院議員26人の連名で、議員提案の形で提出された。

角栄らは「目的税」という批判を避けるため、「税収入額に相当する金額を充てる」という表現を使った。

しかしこの法案には、大蔵省などの根強い抵抗があった。

当時に道路局の路政課長だった浅村廉と、浅村の下で働いていた尾之内由紀夫、そして田中角栄の三人が、この時から30年余りたった1983年に行った座談会。
角栄はここで、当時を振り返ってこう語っている。

「道路整備費のために政府は当該年度の揮発油税収相当額を計上しなければならないということに、鉄道、運輸の関係者はみんな反対だった。公聴会に出ても全部が反対。

法制局と大蔵省が、『これは憲法違反だ。外交権と予算の編成権は行政府の専権である。だからガソリン税を目的税とすることは全く憲法違反である』と言った。」
(『道路』1984年2月号)

角栄の証言にあるように、建設・大蔵の合同委員会では、反対意見が続出した。

「自動車だけがガソリンを使うわけではなく、航空機用ガソリンや農業機械用もあるのに、全部を自動車が負担しているような顔をして道路に持っていくのはどういうわけか」

「道路が必要なら、国が堂々と予算をつければいいことで、ガソリン税を目的税的にするのは財政の大綱を乱すものではないか」

田中角栄は、ほとんど一人で答弁に立ち続けた。

当時の建設省道路局長・富樫凱一は言う。
「田中はよく勉強してた。
反対派の委員に追及されると『一人当たり道路費に出している額はインドが39円……』なんて話を出して煙に巻いた。
あんな資料どこから探してきたのか、今でもわからんね。」

佐藤寛政は、「田中が根回しして、建設委員会の意思統一を図ってくれたことがいちばん大きかった」と振り返る。

🔵

昭和36年(1961年)7月18日に、田中角栄は自民党の政調会長になった。

翌37年の7月18日に、大蔵大臣に就任した。44歳で史上最年少の就任だった。

この時に角栄は、「これまでの表日本中心だった投資を、裏日本中心に改める」と発言した。

大蔵官僚は他の省庁の者と違い、取りつきにくく、打ちとけない。特殊な人々である。

だが角栄は、次官、局長よりも課長や課長補佐と親しくし、何かあると祝儀をあげて仲良くなった。

昭和37年8月、角栄が大蔵大臣になった直後に、「産業投資特別会計法」が可決された。

これはガリオア・エロアの対米債務問題の法で、対米債務は19億ドルだった。

ガリオア・エロアとは、日本が米軍に占領された時代に米国政府から受けた援助金のことである。
これを米国は、日本の債務だと主張し、返せと言ってきていた。

(日本と同様に支援を受けた)西ドイツは支払ってなくて、大蔵省は「贈与であるから返さなくていい」と主張していた。

田中角栄・大臣は、この援助で助けられたのだから返すが、時間をかけて返すと決定した。

昭和39年に開かれる東京オリンピックのため、準備金として4年で1兆円(30億ドル)の投資を日本政府は行った。

IMFの年次総会を初めて日本で昭和39年に開いた。
無理と言われていたのを、角栄が押しきって成功した。

昭和39~40年に、角栄は地元・新潟県の水害のある土地を農民たちから買い上げ、その後に提防を作って水害のない優良な土地にし、上がった地価で大儲けした。

角栄が大物になるにつれ、秘書の山田は公共事業を地元の各町村へ割りあてるシステムを作り上げた。

陳情の数は減り、利権のパイプラインが自動的に作動するようになった。

角栄は、「積雪寒冷地冬季交通確保に関する法律」を立法し、国費の補助で除雪を行えるようにした。

他にも「北海道耐寒住宅法」も立法・成立させた。

雪国の人々は、除雪に追われ10ヵ月しか働けない。
その一方で、雪は水や電力となり、大都市を支えている。

雪国の建物は耐用年数が半分以下だが、固定資産税率は都市よりも高い。

昭和38年3月26日に、降雪による災害を激甚災害に指定した。
これにより高率の国家補助をうけられるようになった。

この頃から角栄は、地元だけでなく全国の開発の遅れている地域で人気が広がった。

🔵昭和40年の大不況、田中角栄は自民党の幹事長に

昭和40年は、大不況の年になった。
証券バブルがはじけたのが一因である。

昭40年上期に、山一証券は株の下落で営業収入が落ち、負債が600億円になった。

山一は、四大証券のうち最も古風で、大神社長と山瀬部長は「兜町の教祖」と呼ばれ、売り方に対し強気に買い向かって仕手戦に勝つという、強引な方針で成果を上げていた。

この方針を昭和37年以降の株価反落でも変えず、大赤字になったのだ。

昭和40年5月21日に、山一証券の大赤字が新聞に出て、投信の解約が殺到した。

5月29日に、田中角栄・大蔵大臣は日銀の特別融資で解決した。

昭和40年6月3日に、田中角栄は自民党の幹事長に選ばれた。

当時は佐藤栄作・内閣だが、幹事長は自民党総裁(首相)の党務を代行する人で、党の公認を与える権限を持っている。
各派閥が推薦する候補者を拒否する権限も持っている。

角栄は、地元・新潟県の公共事業は、親しい業者を頂点に置いて、中小・零細を従えるピラミッド型に組織立てた。

分かったの角さんと言われ、陳情の途中で分かったと切り上げることで、多くの陳情者と接した。
だがちゃんと内容は理解していた。

ちなみにライバルだった福田赳夫は逆で、一人一人に丁寧に聞いた。
そのため多人数には接することはできなかった。

🔵佐藤政権下の田中角栄

田中角栄は佐藤内閣の大蔵大臣の時に、大蔵省から国有地の土地(虎ノ門の土地)を11億円で親しくしている政商の小佐野賢治に払い下げた。

小佐野はそれをすぐに転売し、1年で17億7千万円も儲けた。

角栄は、地元の公共事業の用地買収に介入し、カネ儲けしていた。

また越山会は、若者の就職の斡旋をし、会員を増やした。
1万人以上も就職の斡旋をした。

角栄は昭和44年3月19日に、再び自民党の幹事長に任命された。

幹事長は全国の陳情を聞くため、全国に人脈ができる。

角栄は、官僚の留学の世話もした。
官僚は留学経験があると出世が早いので、これに感謝した。

自民党の岸信介と福田赳夫は仲が良く、角栄を失脚させようと協力していた。

この時代は大学紛争(大学での学生運動)が盛んで、昭和41年の早稲田大学の授業料値上げ反対のストがその始まりだった。

昭和43年1月に、東大医学部の自治会がインターン(無給研修医)制度の改革案を教授会に提出した。

これが大きな紛争に発展し、6月に学生数十人が安田講堂を占拠した。
機動隊が出動して学生を排除した。

この武力排除に怒り、東大の全学部がストに突入した。
さらに全学共闘会議が生まれた。

昭和44年には165の大学で学生ストが始まり、高校にも波及した。

この状況を受けて、「大学運営臨時措置法・案」が国会に提出された。

この法律は、粉争の起きている大学は6ヵ月間は一時休校でき、9カ月以上も粉争が続いた場合は文部大臣が閉校にできる。
閉校から3ヵ月たっても紛争続いていたら、廃校にできるというもの。

この法案は与党内(自民党内)にも慎重論が多く、野党や大学関係者が反対する中、角栄はほとんど一人でこれを採決(昭和44年8月)に持ちこんだ。

角栄はカネ集めが上手く、所属する自民党・佐藤派の資金の3分の1を調達していると言われていた。

この時代は、反米運動・反米思想、自主独立運動が盛り上がっていた。

この圧力により、昭和44年11月に佐藤栄作・首相は渡米してニクソン大統領と会談したさい、沖縄の核抜き、本土なみの返還を要求した。

これを米国政府は受け入れ、昭和47年に沖縄返還が実現する事になった。

昭和44年12月27日に衆議院選挙が行われ、自民党は大勝した。
幹事長の角栄は株を上げた。

この選挙では、梶山静六、小沢一郎、羽田孜らが初当選した。

角栄は、上越新幹線と関越高速道路の実現を悲願にしていた。

佐藤栄作・首相は、福田赳夫や保利と組んで、力をつけた田中角栄と川島正次郎を失脚させようとした。

田中角栄は反主流派の前尾、中曽根、三木を仲間にして、佐藤陣営と対抗した。

ちなみに岸、佐藤、福田は、台湾支持で、反中国の立場だった。

角栄が発案した「自動車新税」は、自動車業界の猛反対にあったが、道路、鉄道業界に後押しされて可決となった

角栄はこの税収を、「新幹線を全国に引くのに使う」と主張した。

角栄と川島は、佐藤に自民党総裁(首相)を続けてもらって、福田を首相にしないよう努力した。
福田は高齢で、もう後がない状況だった。

昭和45年10月29日に、自民党の総裁選が行われ、佐藤が353票、三木が111票で佐藤が四選を果たした。

同年11月9日に、川島正次郎は急死した。

🔵田中角栄は通産大臣になる

昭和46年6月27日に参議院選挙が行われ、自民党は改選前の64議席を下回る63となった。

これを受けて幹事長の田中角栄は自ら辞任した。

この頃になると、佐藤栄作の長期政権は飽きられ、国民の支持率がどんどん下がっていた。

昭和46年7月5日の内閣改造で通産大臣に任命された。

当時は、昭和44年7月の交渉以来、日米の繊維交渉は暗礁にのり上げていた。

米国は繊維について、対米輸出の自主規制を求めてきたが、日本は拒否していた。

繊維業界はニクソン・米国大統領の大票田だった。

角栄の前に、大平、宮沢喜一が通産大臣をしたが、この問題を解決できなかった。

当時、参院は自民党の重宗雄三・議長が10年近く議長を務め、完全に牛耳っていた。

そして重宗は、佐藤首相と強く結びついていた。

佐藤と重宗は、福田を次の首相にしようとしていた。

しかし参院改革の声が高まり、昭和46年7月16日に重宗は議長選への出馬を断念。
翌日に角栄に近い河野謙三(河野一郎の弟)が選出された。

🔵ニクソン・ショックと日米繊維協定の締結

昭和46年7月14日に、米国のヘンリー・キッシンジャー大統領特別補佐官が北京へ行って交渉し、 ニクソン大統領の北京訪問や、毛沢東・主席、周恩来・首相との会談を決定した。

この件は、日本へ事前通知がなかった。
それまで米国と中国は長く敵対していたから、日本も大きな衝撃をうけ、ニクソン・ショックと呼ばれた。

同年8月15日に、日本で第二次ニクソン・ショックが起きた。

ニクソン政権は、日本製品に対して10%の課徴金をかけると発表したのだ。
これも日本に通知がなかった。(※発表の10分前に通知された)

当時、日本の繊維業は年20%増で輸出が伸びていた。

それを佐藤政権(田中角栄・通産大臣)が主導して、化合繊維は年5%増、毛繊維は1%増に3年間おさえ、その補償として2000億円の大予算を組むことにした。

この法案が通って、日本政府は補償金を業者に支払うことになった。
その際、休止した機械は廃棄させた。

(※完全な敗北である。情けない。)

同年10月15日に、『日米繊維協定』が結ばれた。

🔵中国の国連参加、沖縄返還

昭和46年(1971年)10月26日に、国連総会でアルバニアを中心とした決議が行われ、中国の国連参加と安保理事国入りが、賛成76、反対35、棄権17、欠3で可決した。

これを受けて、佐藤内閣は台湾支持を撤回し、中国政府と国交を開くため交渉したが、失敗に終わった。

同年11月24日に、自民党、公明党、民社党の賛成で『沖縄返還協定』が国会で可決した。

社会党と共産党は、米軍基地の全面撤廃がないため、これに反対票を入れた。

田中角栄は、窮地には強く、繁栄時には弱い人だった。
得意技は再建だった。

昭和47年(1972年)2月2日、佐藤首相は「台湾は中国の領土である」と発言したが、彼がそれまで言っていた事と全く反対のため、大問題になった。


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