タイトル島左近(石田三成の重臣)

(以下は『別冊歴史読本 直江兼続と戦国30家の名宰相』加来耕三の記事から抜粋)

『常山紀談』や『古郷物語』によると、関ヶ原の合戦で黒田長政の軍は石田三成軍と激突したが、石田軍の先鋒にいる島左近に苦戦した。

石田軍は、前方を島左近が、中間を蒲生郷舎と舞兵庫(前野兵庫)が担当し、後方に三成が陣取っていた。

西軍は戦わない者が多かったので、島左近の隊は黒田軍だけでなく、加藤嘉明、田中吉政、細川忠興らの軍も相手にした。

石田軍の強さは西軍では群を抜いていたが、西軍の諸将が動かないので石田軍は潰滅した。

関ヶ原の合戦で、島左近の隊は善戦したが、菅六之助の率いる黒田軍の鉄砲隊に横合いから撃たれ、左近は大ケガを負った。

負傷後の左近については諸説あり、太田牛ーの書いた『関ヶ原軍記』では「行方不明」とある。

島左近は謎が多く、その諱も、清興、勝猛、昌仲、友之、清胤といくつも伝わっている。

確かなのは石田三成に仕える前に筒井順慶・定次の親子に仕えたことで、筒井家では松倉右近と共に「左近右近」と並び称された。

賤ヶ岳の合戦(羽柴秀吉と柴田勝家の戦争)の時、順慶が(柴田方の)織田信孝を攻めるのに左近も従軍した。
順慶は敗走して、左近も負傷した。

左近は筒井家に仕えた時期に兵法家として知られ、彼は中国の兵法書も学んでいたという。

筒井定次の代になると、筒井家を離れて羽柴秀長に仕えた。
秀長が死ぬと、その後継ぎの秀保に仕えたが、文禄の役で朝鮮でも戦った。

文禄4年に豊臣秀保が病死すると、石田三成が左近を召し抱えた。

このとき、三成は4万石の領地のうち破格の1.5万石を左近に与えて、仕官を納得させたとの話がある。

だがこれは嘘で、すでに三成は北近江に19.4万石の領地を持っていた。
『多聞院日記』では30万石とあるが、これは三成の父・正綱の持つ3万石と、兄・正澄の持つ1.5万石を足したものだろう。

左近の同僚の舞兵庫や蒲生郷舎は1.5万石の俸禄だったらしく、左近も同額だったと考えられる。

関ヶ原の合戦では、石田軍は足軽に至るまで死を賭して戦っている。

この土気の高さは、やはり三成への忠誠心だろう。

徳川家康に付いて東軍に入った大名たちは、家康が「自分に味方したら領地を与える」と約束し、今で言えばカネで誘った者たちだ。

これに対し三成とその家臣たちは、カネで動かない「正義派」と言える。
彼らは関ヶ原の合戦でも正々堂々と戦った。

豊臣秀吉が亡くなった後、石田三成が家康の暗殺を計画したとされるが、これは家康側が流した話だと筆者は疑っている。

筆者は、関ヶ原で戦うことを意図したのは家康ではなく、三成や左近だったと考える。

その最大の根拠は、高木清氏の調査で、合戦前に松尾山に新城が築かれたことが分かった事だ。

松尾山は関ヶ原の要にあり、三成はここを中心に守って持久戦する計画だったのではないか。

決戦の3日前に三成が増田長盛にあてた手紙には、「松尾の城に中国衆を入れるとの分別は、もっともなことです。敵陣は20日のうちに破ってみせます」とある。

三成としては、西軍の大将である毛利輝元の軍を松尾山城に入れて、西軍の圧倒的優位を示しつつ、徳川軍を孤立させる計画だったのではないか。

(2025年10月22日に作成)


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