タイトル関ヶ原前の前田利長の土下座外交

(以下は『週刊文春 2025年10月16日号』本郷和人の記事から抜粋
2026年4月13日に作成)

豊臣秀吉が死んで、徳川家康が天下取りを目指した時、家康が最初に打倒対象として狙いを定めたのが前田利長(前田家)だった。

前田利長は、前田利家の嫡男で、利家が病死したので前田家を継ぎ、五大老の1人になったばかりだった。

秀吉は死ぬ前に、前田利家に息子・秀頼の後見役を任せた。
だから利家は亡くなる前、「3年間は(領国の)加賀に帰らずに、秀頼様をお守りしろ」と利長に遺言した。

だが利長は、「いったん加賀に戻ってはどうか」と家康にすすめられると、1599年8月に加賀に戻ってしまった。

この帰国直後に、突如として利長に対して「家康暗殺を計画している」との疑惑が持ち上がったのである。

この疑惑は、七将襲撃事件で石田三成が失脚してから半年後の1599年9月に、五奉行の1人である増田長盛が徳川家康に報告したことで生まれた。

増田は「前田利長たちがあなたの暗殺を企てています」と家康に伝えたのである。

増田によると、この暗殺計画を立てたのは、前田利長、五奉行の1人である浅野長政、利長の親類で2.4万石の大名である秀頼側近の土方雄久、同じく秀頼側近の大野治長である。

この時、五大老の1人である上杉景勝も領国に帰っており、五大老のうち3人しか畿内に残っていなかった。

増田から報告を受けた家康は、10月2日に浅野長政を隠居させて蟄居を命じた。
同時に大野と土方は流罪にした。

翌3日には「前田利長を討伐する」との号令を発した。

徳川家康が討伐令を出したと知った前田家は、戦うか降伏するかで家中が2分した。
激論の末、最終的に利長は腹心の横山長知を使者にして弁解に努める道を選んだ。

そして利長は、母親のまつを人質として江戸に送るなど、家康に臣従する道をとった。

前田家の屈服は、家康の天下取りを大いに助ける形となった。

前田利長は、家康暗殺計画の疑いをかけられた時、3つのことを家康に申し出た。

①母親のまつと、家臣の子供たちを、人質として江戸に差し出す

②徳川秀忠(家康の後継ぎ)の娘である珠姫を、自分の後継者である前田利常の妻にむかえる

③自分は早く隠居して、利常に家督を譲る

上の従属3ヵ条を利長が申請した時、利常は9歳、珠姫は3歳だった。

利長には男子がないので、異母弟の利常を後継者に決めたのである。

1605年に利常は13歳で前田家の当主となり、利長は隠居した。

この土下座外交で前田家は百万石の大々名となったとも言える。

利長の動きを振り返ると、父の遺言に背いて加賀に帰国した時点で、秀頼の後見役を捨てて家康に従う道を選んだといえる。

そして帰国直後に家康暗殺計画の疑いをかけられるや、利長は土下座外交を始めた。

不思議なのは、家康暗殺計画の参加者とされた者たちが、その後に不遇になっていないことだ。

浅野長政は隠居して、息子・幸長に家督をゆずったが、関ヶ原の戦いは親子で家康方で参戦した。
そして関ヶ原後には、浅野家は所領が倍近くまで加増された。

土方雄久は改易され流罪になったが、関ヶ原の戦いの前に家康から召し出され、戦後は2万石を与えられた。
土方家は幕末まで大名として存続している。

大野治長も流罪になったが、関ヶ原では家康方につき、福島正則の軍に入っている。関ヶ原後は家康の命令で大坂城に使者として赴き、そのまま秀頼の側近に復帰した。

筆者は、家康暗殺計画は浅野長政らと家康が行った「狂言」と考えている。

浅野家は豊臣家と縁が深かったのだが、豊臣家から離れようとし、暗殺計画に巻き込まれた形で家康の下に入ったのではないか。

前田家では関ヶ原後の1602年に、横山長知が古参の重臣・太田長知を殺害する事件が起きた。
この暗殺は、利長の命令による上意討ちだった。

殺された太田長知は、利家の正室まつの姉の子で、太田党という一団を率いるほど前田家中の実力者だった。

これに対し横山は、利長の最側近である。

太田は利家派(親豊臣派)、横山は利長派(親徳川派)と、分けることも出来る。

まつは、これまでは親徳川派と見られがちで、前田家を守るために自ら江戸に赴いたと考えられてきた。

しかし殺された太田はまつの甥だし、まつは利家派のシンボルであった。

見方を改める必要があるのではないか。

利長の弟・利政は、利長のとった徳川家臣従に不満で、関ヶ原の戦いでは兄と行動を共にせず、家康に所領を没収された。
その後、まつは何度も家康に利政の復権を求めている。

まつは利政に共感していたとも見える。

まつが人質として江戸に送られたのは、前田家中の利家派を弱めるための、利長派の策略だったのではないか。

まつは、秀吉およびねね(秀吉の妻)と家族ぐるみで付き合った人である。
当然ながら豊臣家に親近感があったはずだ。


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