宇喜多秀家と小早川秀秋(以下は『週刊文春 2025年10月23日号』本郷和人の記事から抜粋
2026年4月17日に作成)
🔵宇喜多秀家
宇喜多秀家は、豊臣秀吉の養女・豪姫を妻とし、豊臣一門の扱いを受けた人である。。
豪姫は前田利家の娘でもあり、利家も秀家の後ろ盾になっていた。
この血縁のため、宇喜多秀家は27歳の若さで備前57万石の大名として、豊臣政権の五大老の1人に選ばれた。
秀家の父・宇喜多直家は、備前国の戦国大名だったが、織田信長に服属した人。
直家が1581年に病死すると、秀吉が信長に取り次いで、10歳の秀家が宇喜多家を継いだ。
10歳の子供には国の統治はできないので、宇喜多家は集団指導体制となった。
豊臣秀吉が1598年(慶長3年)に亡くなり、翌年に入って前田利家も亡くなった。
すると慶長4年の末から翌年正月にかけて、宇喜多家では重臣の暗殺未遂事件が起きた。
重臣の浮田左京亮、戸川達安、岡家利、花房秀成らが、同じく重臣の中村家正を殺そうと企てたのである。
浮田は、宇喜多忠家(直家の弟)の子である。
戸川らは、直家時代からの家臣だ。
これに対し中村は、元は前田家の者で、豪姫のこし入れに伴って宇喜多家に来た人である。
中村は秀家の側近になっていた。
中村は逃げのびて助かり、秀家は戸川らを処分しようとしたが、上手くいかなかった。
秀吉と利家という強力な後ろ盾を失った年若い秀家は、家中をまとめられなかった。
この宇喜多家の騒動に対し、大老の徳川家康は榊原康政と大谷吉継を調停役として派遣した。
家康本人も調停に入った結果、戸川、岡、花房は宇喜多家を去って、家康の家臣となった。
浮田も、宇喜多軍として家康の会津征伐に加わると、そのまま関ヶ原の戦いでは東軍として戦った。
浮田は関ヶ原の戦いの後に、名を坂崎直盛と改めて、3万石の大名となった。
つまり家康は、宇喜多家の内紛につけこんで、重臣たちを引き抜いたのだ。
騒動により中村も宇喜多家から去ったので、宇喜多家はガタガタの状態で関ヶ原の戦いをむかえた。
さらに徳川家康は、スパイを宇喜多家に送り込んでいた。
そのスパイは、大谷吉継の家臣だった正木左兵衛という男で、宇喜多秀家から2万石を与えられて関ヶ原の戦いの時も宇喜多軍にいた。
この男は本名は本多政重といい、家康の参謀として有名な本多正信の次男である。
本多政重は徳川家を出奔し、様々な大名家を渡り歩いた。
仕官したのは大谷家、宇喜多家、前田家、上杉家と、徳川家にとって工作対象となる家ばかりで、スパイだったのは間違いないだろう。
以上を見れば、家康による宇喜多家弱体化の工作は大成功したといえる。
🔵小早川秀秋
小早川秀秋は、豊臣秀吉の正妻ねねの兄の子で、秀吉の養子となった人である。
元は羽柴秀俊という名で、豊臣家の期待の星として10歳で10万石の領主となり、11歳で権中納言の官位に昇った、お坊ちゃんである。
だが彼は、秀吉の子・秀頼が生まれると、立場が危うくなった。
この時、黒田官兵衛が、毛利家の当主である毛利輝元の養子に秀秋をすればどうかと提案した。
毛利家の重臣である小早川隆景は、毛利家の後継ぎによそ者の秀秋を迎えたくなかったので、「私(小早川家)の養子にください」と申し出た。
秀秋を養子にしたことで、小早川隆景は豊臣家と深くつながり、五大老の1人にもなれた。
ちなみに、隆景はすでに秀包(毛利元就の九男)を養子にしていたのだが、秀秋が来るので秀包は小早川家を出ることになり、毛利の別家を立てることになった。
(彼は別家の当主となり、毛利秀包になった)
小早川隆景が隠居すると、秀秋が筑前国の35万石を相続した。
秀秋は朝鮮出兵では、慶長2年2月から3年1月まで朝鮮で戦ったが、その評価は悪くて帰国後に越前国・12万石に減封となった。
この減封の時に、秀吉は小早川家の家老をする山口宗永を自らの直臣にし、他の重臣も石田三成に引き抜かれた。
この仕打ちにまだ10代の秀秋はふてくされたようで、転封先の越前に行かずに畿内にとどまった。