関ヶ原の戦い 全体の流れ(以下は『功名が辻』司馬遼太郎著から抜粋
2004年6月頃にノートにとったこと
2026年6月3日に作成)
🔵豊臣秀吉の死後、天下を奪うため動く徳川家康
徳川家康は豊臣秀吉が亡くなると、伊達家、福島家、蜂須賀家と縁戚関係を結んだ。
これは豊臣政権のルールに違反していた。
豊臣政権の三人の中老が家康を詰問しに行ったが、家康は服従せず開き直った。
石田三成を武断派と呼ばれる大名たちが襲い、三成は家康の所に逃げこんだ。
三成は謹慎処分となり、領地の佐和山に戻った。
大老の徳川家康は、豊臣政権の実力者として政治を主導し、諸大名に「国元に帰って政治を見た方がいい」と助言。
多くの大名が帰国した。
家康のみが残り、大坂城へ入った。
その際、北政所は自分のいた西の丸を家康に譲った。
上杉景勝は帰国後、兵を募って新たに城を建設し始めた。
家康は景勝に「なぜそんな事をするのか」と詰問し、「上京しろ」と命じた。
景勝は上京したら殺されると思い、これを断わった。
家康は上杉家に謀反の疑いありとして、上杉討伐を諸大名に命じ、自身も江戸へ帰国した。
この際、近江において島左近が家康軍(三千人ほど?)を襲うとの噂があり、家康は道を変えて急いで通った。
東海道に領地を持つ大名たちは、豊臣秀吉に恩義のある大名ばかりだったが、皆が帰国する家康を迎えて勧待した。
家康が江戸に帰着すると、家康派の諸大名が兵を率いて集まってきた。
そこに「石田三成の挙兵」の報せが入った。
軍議が開かれたが、福島正則が「三成を討つのが正義だ。私は徳川殿につく」と主張したことで、皆もこれに同調した。
さらに山内一豊が「私の城を徳川殿に全て貸し出します」と述べ、他の東海道の大名もこれに追随した。
福島正則、山内一豊らは、先鋒として出陣し、清州城に入った。
しかし家康は江戸を動かなかった。
この時点では、庶民は豊臣秀頼(石田三成)の方が勝つと見ていた。
清洲城には3万4千の兵が集まった。
大名としては、福島正則、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興、藤堂高虎、田中吉政、生駒一正、蜂須賀豊雄、山内一豊、浅野幸長、堀尾忠氏、有馬豊氏、一柳直盛、戸川達安、京極高知、寺沢広高の面々である。
この軍監として、徳川家の重臣である本多忠勝と井伊直政もいた。
1600年8月19日。
徳川家康の使者が清州城に来て、「まず一戦しろ」と命じた。
激情型の福島正則は意外にもこれに怒らず、命令に従って攻める事に決定した。
正則らは、守備兵の少ない近隣の岐阜城などを攻め落とした。
なお黒田長政軍は5400人、田中吉政軍は3千人、藤堂高虎軍は2500人であった。
家康は江戸に残っている間、外交(裏交渉)を行った。
毛利輝元に対しては、黒田長政に命じて毛利家の重臣・吉川広家と交渉させ、石田方に味方せぬとの確約を得た。
九州にいる加藤清正に対しては、戦勝後に肥後と筑後を与えると約束し、小西行長、島津家らと戦わせた。
仙台の伊達政宗と越後の堀直寄らには、上杉家の牽制を命じた。
家康は8月27日に岐阜城が落ちたと聞くと、江戸から出陣した。3万2千の兵力である。
家康は9月13日に岐阜城に入った。
翌14日には、大垣城に対して布陣している徳川方(東軍)の軍に加わった。
西軍の石田三成、宇喜多秀家、島津、小西、大谷は大垣城に入っていたが、上杉討伐に 行っていると思っていた家康が現れたため非常に驚いた。
東軍は軍議を開き、大垣城はそのままにして、大坂城に攻めのぼる事を決めた。
これは家康の策だった。
大垣城にいる将たちは、大坂城を攻められては困るため、関ヶ原に布陣して東軍をむかえ討つことにし、その日の夜ひそかに大垣城を出た。
そして布陣した。
東軍は夜襲の準備をしておらず、追撃できなかった。
🔵関ヶ原の合戦
東軍は、主力は徳川軍、福島軍らで、浅野と池田は後方の垂井で守備を担当した。
山内と有馬は、大垣城と関ヶ原の中間にある、南宮山の敵軍に備えた。
西軍は南宮山に、吉川広家・毛利秀元の1.6万、安国寺恵瓊の1800、長束正家の1500、長會我部盛親の6600がいた。
かなりの軍勢だが、吉川広家が東軍に内応して動かなかったので、他の三人も動けないまま終わった。
関ヶ原の合戦は、福島隊が宇喜多隊に攻めて開戦した。
これは宇喜多隊が優勢で、福島隊は4~5丁も潰走した。
石田隊は、田中、生駒、金森、竹中重門の隊と戦闘。
石田隊が優勢で3丁ばかり押し込んだ。
島津隊に細川、稲葉、井伊らが攻めかけて戦闘に。
石田隊は徳川隊に攻めかけて一進一退。
山内隊は、対面している南宮山の敵軍が動かないため、家康に連絡して関ヶ原に向った。有馬隊も同行。計2000の兵力。
大谷隊とは藤堂と京極が戦い、一進一退。
徳川隊は西へ移動し、石田隊とぶつかって3~4丁も潰走したが、中軍で食いとめた。これは15分位の間の出来事。
西軍の小早川秀秋隊1.5万が裏切り、近くにいた朽木、脇坂、赤座、小川も一緒になって大谷隊へ攻めかかった。
その後1時間ほど戦いは続いたが、午後1時には西軍は敗走した。