タイトル義太夫(女流、竹本駒之助の話)

(『週刊文春2023年11月9日号』から抜粋)

(※竹本駒之助さんは1935年生まれの女性である)

私は淡路島で育ちました。
当時の淡路島は、牛馬が荷車を曳いている場所で、交通の不便な所で。

お祭りでは、だんじり(山車)の1つずつに義太夫の歌がついていて、子供心に「かっこいいなあ」と思いました。

町では年に何度か、小屋で人形浄瑠璃が上演され、私はお弁当が楽しみで観に行ってました。

中学校に入ると、校長生生が義太夫のクラブを作ると言う。

でも誰も入らず、私だけが教わり始めたんです。

ところが浄瑠璃の好きな母が、「習うならちゃんとした師匠に習いなさい」と言う。
それでお師匠さんに習い始めました。

ある日、大阪から女流義太夫の方が公演で来たんです。

その前座に私が出たら、「この子は天才だ」と。

そのまま内弟子に入る話が決まってしまった。

話を聞いた校長先生は、「義太夫に行くなら、もう学校に来なくていい。それは東大に入るようなものだ。」 と言ってくれました。

こうして14歳で女流義太夫の竹本春駒に弟子入りし、竹本駒之助を名乗ることになりました。

春駒の家は大阪市にあり、そこに住み込みです。

終戦直後で貧しく、春駒は「水道の水はもったいないから、捨てる水をもらってきなさい」と言います。
私は毎日、お豆腐屋さんに水をもらいに行きました。
恥ずかしかった。豆腐も買わないのに。

60歳くらいの春駒と14歳の私の2人暮らしで、私はいつも「帰りたい」と泣いてました。

その後、10代目の豊竹若太夫(とよたけわかたゆう)さんに1年ほど習いました。

この師匠は目が不自由で、「耳に残しておきなさい」と言って聞かせてくれますが、私には全部が同じ節に聞こえて、分からなかった。

すると「師匠になる人を紹介する」と言って、越路太夫さんを紹介してくれたのです。

こうして18歳の時に、4代目の竹本越路太夫(こしじだゆう)に師事しました。

当時はまだ電話はなくて、「この日に稽古に来なさい」とハガキが来る。

非常に厳しい人で、稽古中は緊張しました。

越路師匠のお稽古は「口移し」で、師匠のお手本を聞いて、私が語ります。

越路師匠は人物によって語り方が違い、初めて義太夫の面白さ、すばらしさに気付きました。
この方に芸の真髄を教えていただきました。

私は、女流義太夫・三味線の鶴澤三生(つるざわさんしょう)の長男と、24歳の時に結婚しました。

(私の師匠の)春駒は、「春駒も一緒にもらう」というのを条件にしました。

相手はこれを聞いて怒ったそうです。
当たり前です、師匠のおばあさんまで付いて来るというのですから。

そもそも義太夫を仕事にしている人は、稽古もあるし、家を空けることも多い。
だから結婚をせずに、男性に世話してもらう人が少なくない時代でした。

結婚してからは、東京の湯島で私と主人、三生と春駒の4人暮らしになりました。

春駒は、芸の上では三生より格上だから、いつも威張ってました。
三生はこっそり「嫌なおばあさんだね」と言ってました。

この湯島の家は、2階の3部屋くらいを若者に貸していました。
義太夫だけでは食べていけず、家賃収入があったから続けていけたと思います。

私が38歳の時、一家は神奈川県の秦野に移住しました。
三生が喘息持ちで、空気の良い所に移ったのです。

近くにある東海大学は医学部を作る予定があり、学生寮を建てて運営すればと勧められました。

そこで「上田リビング」という学生寮を建てて、40人ほどの学生を預かることになりました。

私と主人は、寮の運営にかかりっきりとなりました。

私は寮母となり、義太夫を続けるのは難しいと思った時期もありました。
というのは寮だけではなく、三生に肺がんが見つかり、春駒には認知症が出たからです。

春駒は介護施設に入れて、三生は入院しました。

三生は週に2~3回は自宅に帰ってきましたが、「まだ生きているの。早く死にたい」といつも言ってました。

三生は81歳、春駒は97歳で亡くなりました。

私が人間国宝の認定を受けたのは、1999年でした。

これを機に、稽古量を増やすため「上田リビング」は閉鎖しました。

現在は泰野の自宅から、東京・千歳船橋の稽古場に通う毎日です。

いま夫は高齢者施設に入り、娘はマレーシアに移住しました。

息子夫婦は私の家の隣に住んでます。

私は65歳の時に胃がんで胃の3分の2をとり、歯も抜けてしまって、 きれいな発声は難しい。

網膜剥離もやって、字が見づらいです。

それでも稽古は続けています。

(2024年4月12日に作成)


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