(『葛飾北斎』永田生慈著から抜粋
2003年8月にノートにとり勉強)
葛飾北斎は1760年9月23日生まれ。
出生時の住所は下総国本所割下水(東京都墨田区亀沢1~4丁目)。
幼名は時太郎。のちに鉄蔵と改名
川村氏の子として生まれ、幕府御用鏡師の叔父・中島伊勢の養子になる。
だが中島伊勢の実子にその職をゆずり、川村家に戻る。
16~19歳頃は、版木彫りの仕事をしていた。
18歳(安永7年、1778年)の時、勝川春章(1726~92)に入門する。
勝川春章は、役者似顔絵で一世を風靡し、肉筆画も多い人。
安永8年に、勝川春朗の名で3枚の役者絵を発表する。
師・春章の名を二字もらっていて、破格の扱いだった。
(※春章は別号として旭朗井を名乗っていた)
1657年頃、上方から江戸に一枚絵と呼ばれた版画が進出した。
1765年頃、多色摺の版画として錦絵が完成し、一般に浸透する。
安永9年〜寛政6年まで勝川春朗として活動。
安永9年に、黄表紙の挿絵に進出。(このうち1つは自画作とされる)
天明元年(1781年) 、洒落本や咄本にも進出。
同2年、万里の落款で数点の美人図があり、春朗作らしいが確定していない。
天明5年(1785年)~同6年に、春朝を改めて群馬亭と改名。
勝川派から一時離脱?
天明7年~寛政4年(1792年)は、作品量が急増し、内容も武者絵、名所絵、宗教画など多彩になった。
黄表紙では山東京伝と組む。
寛政4年12月8日に、師匠の勝川春章が死去。
翌5年正月から叢と画姓を改名。勝川派から離脱する。
寛政6年に、俵屋宗理を襲名する。
俵屋は、琳派(りんぱ)と呼ばれる装飾画をする一門で、尾形光琳風の肉筆画や俳諧と関係が深く俳書に挿絵をしていた。
春朗が襲名してから、宗理派は肉筆では美人図などの風俗画や中国の伝説に基づくものが題材になった。
俳諧とは遠くなり、狂歌界に近づいた。
狂歌は天明年間から大流行していた。
寛政7年~同10年は、宗理の名で狂歌摺物、狂歌絵本、絵暦(えごよみ)を作る。
錦絵や黄表紙はほとんど作らず。勝川派への遠慮か。
この時期の肉筆画は、十数点が残っている。北斎宗理の落款が大半。
寛政10年秋までに、宗理号を門人の宗二に譲り、独立した。
北斎辰政と名乗る。すでに宗理時代から使っていた名である。
辰の字は、日蓮宗の信者だったので使った。
彼は妙見信仰を熱心にしていた。特に眼病平癒を祈る妙見法を。
寛政12年(1800年)~享和年間は、狂歌の仕事を多くし、錦絵を再び手がけ始める。
享和元年(1801年)に入ると、肉筆画が急増し、画狂人の号を使った。
文化年間(1804~18年)は、当時流行し始めていた読本の挿絵を多くし、狂歌の仕事 は減る。
肉筆画を多く描き、最晩年とならぶ多作期である。
錦絵も多作した。
葛飾北斎や、葛飾載斗の号を使う。載斗は文化7年から。
北斎は、文化初年に後の冨嶽三十六景につながる洋風表現をとり入れた風景画を作る。
また文化7年正月には、初の絵手本「己痴羣夢多字画尽」(おのがばかむらむだじえづくし)が出版される。
北斎の絵手本から図柄を採った職人の作品(櫛、煙草、印籠、陶磁器など)が、多数作られ、現在も残っている。
文化元年4月13日には、120畳の大きさの大達磨像を揮毫した。
文化5年8月に新宅を構えた。自宅を建てたのは生涯一度だけである。
しかし、なぜか翌年にはまた借家住まいに戻る。
『読本』は、普通は五巻(五冊)が一組の単位になっている。
読本は、滝沢馬琴と山東京伝の競争で盛り上がり、1813年に京伝が引退すると馬琴が王者になった。
『洒落本』は、話の場所を特定の遊里におき、一日の遊興を書く本。
1770年頃から江戸で流行した
1790年に老中・松平定信により禁止され、その後に復活するが衰退した。
『黄表紙』は、1775~1806年頃に刊行された、黄色の草双紙(くさぞうし)の総称。
1冊が五丁(10ページ)で、2、3冊で1セットになっている。
大人向けの知的な風刺を盛り込んだ本。
寛政の改革による弾圧で、狂歌界や洒落本、黄表紙が衰退し、読本が流行した。
北斎は、読本ではほとんど馬琴と組んだ。
北斎は、文化8年に馬琴と仲が悪くなり絶交した。
文化9年に関西へ旅行する。
名古屋にて文化11年正月出版の北斎漫画・初編の版下絵を書く。
『北斎漫画』は、毎年2冊ずつ刊行され、文政2年(1819年)に10編で終巻された。
後に続巻が出て全15巻になった。
北斎漫画は、西ヨーロッパに運ばれて注目されると、印象派に大きな影響を与えた。
文化9年に出版の『略画早指南』は、定規とコンパスを使って書くユニークな画で、森島中良の紅毛雑話(天明7年)からヒントを得ている。
文化10年4月25日に、亀毛蛇足の印を北明という女性の弟子に譲る。
以降は肉筆画が減る。
文化11年~文政7年は、絵手本を多作した。
文政3年(1820年)に、載斗の号を廃して、為一を使用し始める。
文政3~5年は、摺物を多作。
文政5年に、北斎の長女と門人だった柳川重信が離縁。
文政8~12年は、極端に作品が減少。孫の悪事が原因か。
文政11年6月5日に妻が死去。
文政6年頃から、娘の栄と共に川柳を投句。
弘化3年(1846) まで続く。卍などの号を使う。
文政13年(1830年)~天保4年(1833年)は、錦絵を多作。
富嶽三十六景、千絵の海、諸国滝廻りなどを発表している。
孫が放蕩し、その父である柳川重信が天保3年11月28日に死去と、大変な時期だった。
天保5年3月に、『富嶽百景・初編』が出る。
その跋文に有名な文句が書かれた。「己六才より~」との文である。
卍の号を画号としても使い始める。
天保5年の冬?~7年の秋は、何らかの事情で相州・浦賀に潜居している。
天保6年頃に『肉筆画帖』を出す。絵手本で着彩の10図である。
天保6、7年は、武者図の絵手本を出す。
天保6~9年に、最後の錦絵の揃物として、『百人一首宇波かゑとき』を出す。だが27枚で中止に。
天保10年(1839年)、79歳の時に、肉筆画に力をそそぎ始める。
これは死ぬまで続いた。
天保15年(1844年)は、信州の小布施村に逗留。
弘化5年(1848年)、88歳で最後の絵手本となる『画本彩色通』を出す。
これは具体的な技法を解説したもの。
嘉永2年(1849年)4月18日、浅草の長屋で89歳で死去した。
本間北曜は、北斎の弟子だが、後に勝海舟の塾で蘭学教授となり、薩摩の西洋学館の英学教授にもなった。
(2024年12月19日に作成)