タイトル寺田克也(マンガ家、イラストレーター)の話

(以下は『週刊文春 2024年11月21日号』から抜粋)

(※寺田克也氏の絵・イラストが好きなので、彼の話を取り上げることにした。
なお彼のマンガを読んだことは無い。)

俺はマンガ家ですが、あまり描いてなくて、イラストの仕事が多いです。

今はイラストの個展とか展示がメイン。
グループ展も入れると年に5回くらい展示があり、その都度10~30点は新作を描くから、けっこう忙しい。

故郷は岡山県玉野市で、造船の町でした。
三井造船の製作所があり、父を含めて町の人はそこに勤めていました。

いしいひさいち、一条ゆかりというマンガ家の出身地でもありますが、今はさびれてます。

俺は三井造船の社宅で生まれ、 3歳の時に父が新築した一軒家に移りました。
4歳上の姉と、3歳上の兄がいます。

小学3年生の時に絵画教室に入ったけど、描いた絵を先生が直すのが嫌で辞めました。

その頃にはもう、「自分の絵はこうだ」っていう譲れないものがあった。

学校では「絵の上手い寺田」で通ってました。

マンガ、小説、特にSFにハマり、小学5年の時に石ノ森章太郎の『マンガ家入門』を読んで、ペンやインクなどの道具を買い揃えました。
でも絵は描けても、マンガのストーリーが作れなかった。

中学3年の時に、アメリカのSFコミック誌『ヘビー・メタル」を見て、フランスのマンガ家「メビウス」の作品を目にしました。

絵の上手さや線の美しさもさることながら、明確なストーリーがないのにマンガとして成立していて、大きな影響を受けました。

今、俺が展示会用に描いてる絵は、ある意味でコレなんですよ。
つまりストーリーのないマンガの1コマ。

高校卒業後は上京して、杉並区にある阿佐ヶ谷美術専門学校に入りました。

絵の仕事の流れを知るには学校に入るのが早道、とアドバイスされたんです。

ちょうどイラスト・ブームで、空山基(はじめ)や横山明の絵がポスターや広告に起用されていた。

学生たちはのんびりした良い人ばかりで、付き合いやすかった。

先生から声をかけられて、バイトでイラストを描くことになった。
これが初めてお金をもらった絵の仕事です。

卒業後は、レコードのジャケットのイラスト、雑誌にのせるマンガやコラム、特撮映画のキャラデザイン、ファミコンソフトのキャラなどのビジュアルと、様々な仕事をしました。

俺は「自分にはまだ早いから...」なんて思わずに、もらえる仕事はほぼ全て受けてました。

でも業界内のつながりで仕事をもらってるだけで、「寺田克也に」という依頼ではなかった。

そういう依頼は30歳をすぎてからで、バーチャファイター2のキャラデザインをして、やっと認知されたと思った。

俺は木造の家が好きで、古民家が理想の家なんです。

木が好きで、古い家が好き。今の家は30年近く借りて住んでます。

2022年に30歳年下の女性と結婚しました。

ライブ・ドローイングのイベントで彼女にMCを頼んで以来、何度も一緒に仕事をして結ばれました。
彼女はライターを今はしてます。

家事の分担は、オレが料理、掃除、洗濯で、妻は後ろで応援してます。

(2025年5月9日に作成)


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