(以下は『池波正太郎のフィルム人生』から抜粋
この本は昭和51年、57~58年に池波が語ったものを収録している)
🔵池波正太郎の若き日
僕が小学生のころ、家の筋向かいの油屋の主人が、雪の日に小僧さんを路上に引きずり出し、電柱に縛りつけて棍棒で叩き殴った。
僕はそれを見て、「そんなことするの、やめろ!!」と叫んだ。
油屋の主人は僕の家にどなり込んできて、祖母や母が大いに困った。
油屋の主人は「小僧を一人前にするため折檻している」と言ったが、私の目にはそう映らなかった。
日常で大男の主人が、痩せた小僧さんをどのように扱っているか見ていたからだ。
昔の日本には、子供が失敗するとたちまち体罰を加える父親が、どこにでもいた。
今の子供が見たらびっくりするだろう。
僕は小学校を卒業したら、株屋の世界に入って、大変に贅沢な生活をした。
でも実家には一文も入れなかった。
僕の弟は、小学校6年ぐらいから勤労動員で、放課後は郵便配達をさせられた。
戦争中で人手が足りなかったからだ。
戦争中に家が焼けて、煙草屋の2階に間借りして、僕、母、弟で暮らすことになった。
でも戦争が終わったら疎開先から家主が帰ってきて、2階を空けてくれと言われた。
それで僕は台東区役所の防疫課に就職して、その事務所で暮らすことにした。
母は勤めていた女学校を辞めて、ビルの管理人になった。
弟は、国鉄の自動車部門のほうに就職し、寮に入った。
ところが弟は、寮で酒をおぼえて母に金をせびるようになった。
さらにジャズのトランペット吹きになりたいと言う。
僕はジャズよりも役者のほうがつぶしがきくと思い、弟を新国劇に入れた。
そのころの新国劇は、何年か居れば青年部に入って、ちゃんと月給が出る。だから入れたんだ。
でも弟は今度はバクチを覚えて、借金ばかり増えた。それを母が支払った。
僕は弟に役者をやめさせようと思ったが、なかなか難しいので、東映に預けた。大友柳太朗のところへ。
それで弟は随分、映画に出ました。
でも弟は顔が小さいから、役者には不向きだった。役者は背丈よりも顔の大きさだ。
それで足を洗わせた。
戦後の僕は、ふとしたことから劇作家になった。
それから10年、主として新国劇のために脚本を書き、演出をした。
少年の頃からあこがれだった劇団の、大好きだった辰巳柳太郎・島田正吾の両スターの舞台を手がけることになるとは思いもよらなかった。
その10年間は、いささか遅い僕の青春であった。熱気にあふれた日々だった。
🔵映画「阿部一族」の評論
前進座を使った映画ながら、熊谷久虎・監督の「阿部一族」は、山中貞雄が監督の「人情紙風船」とは対照的だ。
武骨きわまる演出である。
「阿部一族」は、森鴎外の書いた小説で、実話を元にした、殉死の問題を取り上げた作品だ。
主人公の阿部弥一右衛門は、殿様が死ぬ前に「私を殉死させて下さい」 と願うが、殿様は「死んではいかん」と命じて死ぬ。
それで弥一右衛門が勤務を続けていると、同僚たちが「なぜ死なないのか、あれだけ殿に可愛がられていたのに。卑怯者め。」と侮辱する。
阿部一族はバカにされることになり、弥一右衛門の長男の権兵衛は、亡くなった殿様の一周忌の法事で、いきなり自分のもとどりを切って位牌の前に供える。
これは鬱屈した思いがたまっていたからだ。
だが大変に非礼な行いで、その場で捕まり、処刑された。
ここまで来で、阿部一族は意地を守るために殿様の軍勢を相手に戦うしかなくなった。
それで一族で屋敷に立てこもるわけだ。
一族は斬り合いになる前に、小さい子供は親が殺して、女たちは自害する。
当時は住む場所が決まっているし、逃げ暮らすなんてできない。
妻子が生き残れば、謀反人の家族ということで処罰される。だから子供まで殺すわけだ。
「阿部一族」は、封建時代の日本の在り方がよく表現されている。
大東亜戦争に負けて降伏した時も、女や子供はいざとなったら死ぬつもりで毒薬を持って山中に逃げたりした。
米軍が日本に上陸してきたら何をされるか分からないということで。
🔵映画「残菊物語」の評論
「残菊物語」は、溝口健二が監督で、主演は花柳章太郎で企画が出発した。
脚本は依田義賢で、溝口が思うような脚本ができた。
この映画で溝口が描きたかったのは、花柳が演じる菊之助じゃない。
お徳なんだよ。自分の執念で愛人を立派な男にする、お徳を描きたかったわけ。
それで溝口は、お徳を演ずる女優として北見礼子を呼んだ。
ところが撮影に入ってみると、北見だと思うように行かず、役から降ろしてしまった。
そのとき花柳が、「森赫子を使ったらどうでしょう」と推薦した。
花柳と森は同じ新派でしょっちゅう共演しているし、「森はまだ若いけど自分も指導する」と言ったから溝口も納得した。それで森が呼ばれたわけだ。
菊之助は19~20歳、お徳は23~24歳の設定で、お徳のほうが年上だ。
それを花柳よりいくつも下の森がやるのだから、大変だったらしい。
この時に花柳と森は恋愛関係になっちゃった。
「残菊物語」は話の最後で、菊之助の舞台が大好評となり、歓声に包まれて楽屋に戻ってくる。
それを陰で見ていたお徳は、自分はもう身を引く覚悟があって引き返してくる。
それが満足感に満ちたうっとりした表情なんだ。
あれがお徳にとっては、最高の女の喜びなんだ。
自分の好きな男を一人前にしたという感情で、愛人の感覚ではなく、年上なだけに母性愛だよ一種の。
お徳は病み伏すが、見守るのは按摩の娘だけ。
そして気付くとお徳は冷たくなっていて、そこでカメラを絞っちゃう。その演出がすごいんだよ。
お涙頂載の人情話から画然と一線をしいているわけだ。
「残菊物語」のもう一つのすばらしさは、明治15~16年頃の東京の風俗を再現したセットだ。忠実な考証で作っている。
五代目・菊五郎の家の内部も、時代考証に沿っているが、大したものだね、女中が10人ぐらいいる。
菊之助が勘当されて家を飛び出すシーンでは、カットを入れてないね。
勘当する父(五代目)は見せないで、声だけにして、菊之助が外に走り出るところも見せない。
あれを全部撮影して表現すると、うるさくなる、画面が。
落着いて客に見せなきゃと思ったら、うるさくできないんだ。
演出が行き届いていれば、音だけでも分かるし、最後に障子が開いているから菊之助が外へ出たと分かるわけだ。
🔵映画「元禄忠臣蔵・前篇」の評論
映画の「元禄忠臣蔵・前篇」は、昭和16年12月の封切りだった。
この年の12月8日、僕は家に朝帰りしたんだよ。
そしたら祖母がぶうぶう文句を言った。それで「うるせえ!」って家を飛び出して、朝食をどっかで食って家に帰った。
寝ようと思って2階へ上がってラジオをつけたら、ハワイ攻撃のニュースだ。
日米開戦だって。
僕は1階に駆け降りて、「おばあさん!アメリカと戦争が始まった」と言ったら、祖母は「また、戦争(いくさ)かえ」と、これだけだよ。
平気なんだよ、日清、日露の戦争も知っているから。
僕は興奮したんだ。嬉しいとか万歳ではなく、「いよいよ俺も兵隊にとられて、生きて帰れない」と思ったんだ。
そういう時代だったから、戦争に行くのが嫌とは思わなかったが、若者として大変に興奮して「死ぬかも」と思った。
それで寝られなくなり、東京駅近くのレストランでカキフライ、ビール2本、カレーライスを食べた。
開戦当日だから覚えているんだよ。
それから銀座へ出て、この「元禄忠臣蔵」を見たんだ。
この映画は溝口健二が監督で、大石内蔵助の勤王精神を描いている。
これは真山青果の原作が、忠臣蔵を勤王的に書いているわけ。
真山さんの舞台劇をそのまま映画にした感じ。
資料を調べても、大石内蔵助が朝廷の反応を非常に気にしていたのは確かなんだよ。
なぜ気にしたかというと、朝廷の反応次第では逆賊になってしまうからだ。大義名分を気にしているわけ。
溝口監督は完璧主義者だから、時代考証は完璧で、正確にセットを作っている。
だから昔の日本人の生活ぶりがはっきり出ている。
この映画の内蔵助は決して威張らない。本当の内蔵助はこういう人だったと思うんだ。歌舞伎に出てくる威張った、力みかえった内蔵助ではなくてね。
映画を見終えて家に帰ってから、「戦争にもし行ったら、今の体ではもたない」と思ったわけ。
出征して病死になったらたまらないと思ったのが、この日だよ。
僕は株屋を仕事にしていたが、兜町から出征する奴は、みんな戦病死なんだ。
僕の従兄(いとこ)も株屋で、行ったとたんに病気になり、戦後に病死した。
株屋の軟弱な暮らしから兵舎に入ると、精神的に参っちゃうわけ。
だから僕は国民勤労訓練所に3ヵ月入った。そこで体をきたえようと思ったわけ。
そこから戻って間もなく、飛行機工場に徴用された。
いきなり兵隊に入ったら、たまったもんじゃない。
従兄が入隊して面会に行った時、泣きそうな顔で出てきたもの。
本当に嫌な時代だった。
出征の前に1年ほど、国の徴用令を受けて、航空機の精密部品をつくる会社の工員となった。
初めて物作りをしたが、自分の無器用さを思い知らされた。
(2025年9月29日に作成)