タイトル東條英機、日本陸軍、日本海軍について(司馬遼太郎)

(『春灯雑記』司馬遼太郎著から抜粋)

東條英機は、明治時代の小学校教員のように真面目で、篤実な小農のように働き者というだけの人だった。

彼が日本国を滅ぼしたことは、誰でも知っている。

しかし同時に、誰もそう思っていない。
「東條英機が日本をつぶすほどに偉かった」とは、昔も今も誰も思っていないのである。

ドイツの場合はヒトラー1人に罪をかぶせる事ができるが、英機にはヒトラーほどの思想も魅力も戦略もなかった。

その程度の人物が、あらゆる権能を握って日本を滅亡に向かわせたというのが、昭和史の悲惨さである。

英機は官僚にすぎなかったが、ある時期以後、首相と陸軍大臣と参謀総長を兼任し、独裁権を得た。

ヒトラーの場合はワイマール憲法を事実上停止することで革命を遂げたが、英機は一軍事官僚にすぎず、明治憲法下で内閣を組織し、憲法の手続きで戦争を遂行した。
すべて天皇の名においてやった。

当時、無数の小東條英機がいた。陸軍はその巣窟だったし、それに迎合する議会人や言論人や民間人がいた。

彼らは寄ってたかって憲法における統帥権を悪用したといっていい。

日本陸軍には、秀才信仰があった。

日露戦争の陸戦をなんとか切りしのげたのは、秀才のおかげだと、陸軍は組織をあげて信じていた。

日露戦争では、各軍の司令官や師団長は年寄りで正規の軍事教育を(西洋式の軍事教育を)受けなかった者が多く、その側に陸軍大学校を卒業した参謀を付け、結果として勝利した。

以後、陸軍は秀才主義を採り、少年を選抜して陸軍幼年学校に吸収し、さらに陸軍士官学校に入学させ、卒業の時の成績順をもって生涯の序列とした。
カーストの様なものだった。

さらにごく少数を受験で選抜して、陸軍大学校で参謀と将軍を養成した。

東條英機を成立させたのは、試験制度だったといえる。

英機は大戦争をやってのける器量を持っていたわけではなく、ただ履歴によって生まれた人物だった。

陸大を卒業後、数度の部隊勤務があったものの、ほぼ中央でのポストを経て、1937年に関東軍参謀長、38年に陸軍次官、40年に陸軍大臣になった。

彼はある時、こう言ったことがある。
「ヒトラーは兵卒あがりである。しかし自分は陸軍大将である(エリートである)。」

軍人社会は、一般社会と切り離された所で成り立っている。
英機は軍人社会の中で、成熟した知性も良識も哲学も養った様子はなかった。

東條英機が陸軍の要衝にいた時、日本は中国大陸で泥沼の戦争を始めた。

宣戦もせず「事変」とのみ名付け、膨大な戦費と兵員を中国大陸に送り続けた。

「あなたは、国家としてどんな利益を中国から引き出すつもりだったのですか」と、英機に訊いてみたいところである。

陸軍は中国と戦争をしながら、さらに関東軍が独走してソ連との間に戦争(ノモンハン事変)を起こしてしまった。

ソ連はこの戦争を重視し、当時もっとも有能とされるジューコフ将軍を起用した。
ついでながら、ジューコフは兵卒あがりである。

関東軍は事前にほとんどソ連軍を調べておらず、むしろ軽侮していて、死傷率が70%を超える惨憺たる敗北をした。

日本陸軍では関東軍が最強とされていて、世界一だという自負まであった。

敗北によって、装備がおそろしく旧式だと気付かされたが、何の手も打たず、さらなる対英米戦争に突入するのである。

ノモンハン戦争の時、私は旧制中学生だったが、新聞で敗北も実相も伝えられた事がなかった。
総じて煙のようなリアリズムの時代だった。

さらに私の体験を言うと、電柱に「ノモンハンの敗戦を公表せよ」というビラが貼られているのを見て、驚いた。

日本軍は昔から不敗であるという神話を聞かされていたが、少年の頭にもビラはまんざらデマではない気がした。

5年後に私は、ノモンハンで凄惨な敗北をした安岡戦車団の後裔の連隊に属することになり、敗因が物理的なもの(装甲の薄さや砲の弱さ、戦車の数の少なさ)だったと知った。

ついでに、中学生当時の記憶を述べておく。

当時、学校教練というものがあり、現役の少佐などが学校に配属された。

そのうちの古ぼけた准尉が、「よその国には自動小銃というものがあるが、(日本陸軍の持つ)1発ずつ撃つ銃のほうが良いんだ」と言った。

おそらく師団の講習でも受けに行って聞かされた内容だが、彼はこう説明した。

「いいか。射撃の要は心の落ち着きだ。1発ずつの操作があってこそ、それが可能である。自動小銃だと心の落ち着きがなく、弾がばらついて効果が無い。」

太平洋戦争の末期になると、陸軍の神学はさらに進み、竹槍による訓練が奨励されるようになった。

日本の海軍にも問題があった。

日本海軍には固有の戦法があって、仮想敵国の主力艦隊を日本近海で総力をあげて迎え撃ち、撃滅するというものだった。

待ち伏せして主力決戦をするという事である。

日本の海軍は広い太平洋で戦うようには出来ておらず、連合艦隊は1つきりのセットしかなかった。

日露戦争に勝ったあと、海軍を縮小してもよかったのだが、軍人の首切りになるため抵抗が多く、できなかった。

海軍にとって幸いだったのは、日露戦争の前後からアメリカがフィリピンの本格的な植民地支配を始めた事で、仮想敵をアメリカに替えた。

その後の海軍の想定は、フィリピンから来るアメリカ艦隊を待ち伏せして決戦するものとなった。

この基本戦略は、太平洋戦争の2年前でも維持されていた事は、海軍大学校に入った知人から聞いた。
兵棋演習において繰り返しシナリオが演じられたという。

(太平洋でひろく戦うことは想定していなかったのに)結局かれらは太平洋戦争をやった。

日本は石油を産出しないが、20世紀のある時期から軍艦も車両も石油で動くようになった。

このため戦争を続けるには、産油地である南方のボルネオその他を押さえる必要があった。

そうして膨大な兵力を南太平洋の島々に展開した。

この大作戦は、日本陸軍の伝統的用兵とも相反するものだった。

伝統的用兵とは、明治30年前後に陸軍参謀本部でつくられ、かつ日露戦争で成功したため、昭和になってもその型が習慣になっていた。

日本陸軍の型は、攻勢主義で、兵力を集中して短期決戦で敵の主力を撃滅するものだった。

日露戦争でのいくつかの大会戦が、その成功例になっていた。

さらにいうと、短期決戦であるためには、日露戦争におけるアメリカのように友好的な仲裁役になってくれる国を用意しておく必要があった。

ところが日本は満州帝国の樹立(1932年)や、中国で事変を起こし続けることで、国際的に孤立した。

そして日独防共協定(1936年)を結ぶにいたって、大量の敵国をつくった。

満州事変から日独伊三国同盟までの戦略は、すべて陸軍が主導したものだ。

日露戦争後、ロシア陸軍はそれを研究し、ソ連軍になってから「縦深陣地」という新奇なものを考案した。

それがソ連軍の型になり、ノモンハンでも使って日本軍を破った。

ソ連は日露戦争後に型を改良したが、日本は型を墨守し続けたのだ。

日本陸軍は、ノモンハンで型が役に立たないと知ったのに、反省せずに2年後に太平洋戦争に突入したのである。

こういう無思慮な集団のたばねとして、東條英機がいた。

「アメリカには、ゆらい戦術というものがありません。わが陸軍にはあります。」と、英機の子分の1人である軍務局長・陸軍少将の佐藤賢了が、国会で答弁したことがある。

1943年3月1日に、以下のように答弁した。

「米陸海軍は実戦的な訓練に乏しく、大兵団の運用がはなはだ拙劣である。
米陸軍の戦術はナポレオン戦術にあって、多くの欠陥をもつ。
政略と軍略の連繫が不十分きわまる。」

正常な人間の言うことではない。

明治時代のある時期までは、陸軍大学校には教科書がない事が誇りとされた。

それが、その後に教科書ができることで日露戦争の用兵が慣習化された。

太平洋戦争で終戦の時に陸軍大臣だった阿南惟幾は、あくまで抗戦を主張していたが、その理由の1つとして「わが陸軍はまだ主力決戦をやっていない」と言ったといわれている。

軍が壊滅してしまっているのに、学校で習ったこと(主力決戦)をまだやっていない、というのである。

東條英機は、陸海軍の実力さえ知らず、格別な軍事思想も持っていなかった。

持っていたのは、士官学校時代に学んだ、「弱気になるな」「必ず勝つと思え」「味方が苦しい時は敵も苦しいのだ」という素朴な戦争教訓だけだった。

第三次・近衛内閣が倒れた時、東條英機に大命が降下した(首相に任命された)。

明治憲法での首相の選任は、大命降下方式で、天皇が任命する。
その在りようは、元老が推薦をして天皇が承認するものだった。

当時は、内大臣という不思議な職があり、1885年以来、政府ではなく宮中に設けられてきた。

内大臣は宮中にあって天皇を輔弼し、下問に答え、内閣とのパイプ役になっていた。

西園寺公望が亡くなった1940年からは、内大臣の木戸幸一が天皇に首相候補者の推薦をしていた。
その幸一が、英機を推したのである。

東條英機は首相になると、全体主義の政策を進行させ、本来は陸軍のポリスである憲兵を政治警察のように使い、恐怖政治を布いた。

英機を首相に推した幸一は、英機を支持し続け、英機を批判する声や意見を裕仁(昭和天皇)に伝えなかった。

英機は、日本をナチス・ドイツに似た全体主義にしたかったのだが、(ドイツと違い)憲法が停止されているわけではないので、「臣道」という言葉をキーにして、国民を小さなビンに閉じ込めようとした。

この時代を「天皇制ファシズム」と言うのは、そのせいもあるだろう。

英機は渾身で臣道を実践しているつもりだったから、自分を批判したり否定する者は臣道にもとる者だった。

そして臣道にもとると判断した者に対しては、憲兵を使って脅すか、刑務所に入れるか、召集令状を発行して一兵として最前線に送った。

その一方で、彼は一種の暇人だった。

庶民の家のゴミ箱をつつくのが大好きで、それをして国民が無駄をしてないかを調べていた。

(2019年7月6日に作成)


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