タイトル日米開戦の決断の内幕

(『サンデー毎日2019年1月27日号』保阪正康の記事から抜粋)

1941年9月の終わりから10月にかけて、日本陸軍と海軍は「開戦か避戦か」でせめぎ合った。

9月6日の御前会議(昭和天皇を前にした会議)で、大本営は「もし10月上旬までに日米交渉が妥結しなければ、作戦行動に入る」と宣言した。

近衛文麿・首相は、このように時間を区切られる事に不快感を持っていた。

9月26日の大本営と政府の連絡会議で、大本営側(陸軍・参謀本部と海軍・軍令部)は「遅くとも10月15日までに政戦の転機を決するを要す」とした。

つまり、10月15日までに日米交渉の決着をつけろと言うのであった。

近衛文麿・首相は困惑し、内大臣の木戸幸一に「この日までに決着の自信はない」と相談している。

この大本営の要求に、海軍大臣の及川古志郎も頭を痛めた。
同じ海軍の軍令部が、陸軍の参謀本部や陸軍省と歩調を揃えているのも、古志郎には不満だったであろう。

近衛文麿は、及川古志郎を私邸に呼んで、どう対応するかを相談している。

東條英機・陸軍大臣の説く強硬論に、2人は呆れかえっていた。

古志郎は文麿に、こう告げた。

「避戦を口で言うだけでは陸軍を引っ張っていけない。
思い切って米国の案を鵜呑みにするくらいの覚悟を持って進んでいただきたい。
そうすれば海軍も附いていく。」

文麿は、「海軍は和戦の決定を首相に一任したと理解した」と書き残している。

10月に入ると、東條英機の発言はますます強硬になった。
アメリカに一切の妥協をするなという姿勢だ。

10月7日に英機と及川古志郎は会談したが、英機はこう述べた。

「和戦の決意について、陸海軍の一致を求めねばならぬ。

申すまでもなく、国策の中心は今は軍部にある。
もし陸海軍が割れたら亡国になる。」

東條英機の上の発言は、海軍は陸軍や大本営に従えを言わんばかりである。

古志郎は、「開戦しても勝てる自信がない。アメリカの態度は必ずしも悪意に満ちているわけでなない」と反論した。

海軍の内部では、「海軍大臣が辞職すれば内閣が崩壊して、戦争どころではなくなる」と、古志郎の辞職をすすめる声もあった。

しかし、こうした声は次第に薄れ、陸軍に押されていった。

10月12日に近衛文麿・首相は、五相会議を開いた。

五相とは、首相、陸相、海相、外相、企画院総裁のことで、文麿の他は、東條英機、及川古志郎、豊田貞次郎、鈴木貞一である。

この時のやり取りは、『杉山メモ』に記録されている。

近衛文麿の意見は、「アメリカは日本の提案を理解しているように思う。もう一度検討してみよう」だった。

東條英機の意見は、「日本は譲歩しているのに、アメリカに妥結する意思がない」だった。

及川古志郎の意見は、「期日も切迫しているが、決断は総理(首相)が為すものである。外交でやるならそれもよろしい」だった。

上の古志郎の意見は、事前に文麿に伝えられていた。

それを文麿は『失はれし政治』の中で明かしている。

古志郎が文麿に伝えていたのは、「海軍は日米交渉の決裂を欲しないが、表面に出して言うことは出来ない。和戦の決定は首相に一任すると述べるから、そのお含みで願いたい。」であった。

古志郎は、五相会議で予定通りの発言をしたから、文麿は「外交交渉を続ける」と明確に言えば良かったのである。

古志郎も、文麿に任せずに、「海軍は日米交渉をまだ続けたい」とはっきり言えば良かったのだ。

2人がそう言えば、東條英機も態度を変えただろう。

しかし2人は弱腰で、英機に押し切られてしまった。

(2021年8月15日に作成)


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