(『サンデー毎日2019年2月3日号』保阪正康の記事から抜粋)
1938年12月にドイツの物理学者が、中性子をウラン235の原子核に当てると、巨大なエネルギーを生み出す事を発見した。
この研究結果は、軍事関係者も注目した。
日本海軍は1941年5月に、京都帝大の講師を招いて、「超爆裂性原子のウラン235に就いて」という講演を行った。
これが契機になり、海軍では京都帝大の荒勝文策・教授が「ウラン爆弾の可能性について」を研究することになった。
一方で陸軍は、航空技術研究所長の安田武雄が、1940年の春に関心を示した。
武雄は、大正時代にドイツ陸軍の兵器研究に赴いた人である。
武雄は理化学研究所の仁科芳雄と連絡をとり、原爆について話し合った。
武雄が上司の東條英機・航空本部長に相談したところ、英機は原爆製造の方向で予算をつけた。
その後、1941年12月に日本が真珠湾攻撃をして太平洋戦争が始まると、陸軍の原爆製造計画は停止された。
戦時下では、もっと具体的なものが優先されたのであった。
ところが戦況が悪化してくると、一発で形勢を逆転できる兵器が必要となった。
そこで陸軍は、理化学研究所の大河内正敏・所長に「原爆製造は可能か」と尋ねた。
答えは「製造可能だが、ウラン235をウラン原石から分離することが必要だ」であった。
陸軍はこの報告に飛びついたが、研究者の仁科芳雄の本心は「この戦争中には日本では作れないだろう」だった。
また陸軍の内部では、東京第二造兵廠の将校たちが、仁科研究室とは全く別に、原爆の研究を進めた。
つまり、研究の統一は取れていなかった。
陸軍の仁科芳雄のプロジェクトは「ニ号研究」と呼ばれ、海軍の荒勝文策のプロジェクトは「F号研究」と呼ばれていた。
1944年に、海軍の艦政本部・本部長の渋谷隆太郎・中将は、「原子爆弾は製造可能なのか。どの国も製造できないのか」と荒勝文策に尋ねた。
文策は「今の戦争には間に合わない、というのが結論です」と答えたが、隆太郎は「次の戦争に間に合うよう研究を続けてくれ」と頼んだ。
彼らは、仁科研究所が陸軍から製造を依頼されている事を知らなかった。
事実を整理していくと、こうなる。
陸軍は原爆製造に力点を置き、海軍は研究に力点を置いていた。
両者が共同研究する動きはなく、むしろ相手方に漏らさないようにしていた。
陸海軍がプロジェクトにどれだけの研究費をつぎ込んだのかは、今も分かっていない。
しかし、アメリカのマンハッタン計画と比較すると児戯に等しい。
1944年にサイパンが陥落すると、仁科研究所には陸軍の将校が来て、サーベルを抜いて脅すようになった。
原爆が完成しない事に対し、「天皇陛下への尊崇の念がない」とか「理論上では製造が可能なのだから明日にも造れ」と怒鳴った。
仁科芳雄らは内心では「非常識な連中め」と怒っていた。
軍人たちは、ウラン原石が必要だと聞いて朝鮮・台湾・東南アジアを視察し、濃縮ウランの提供をドイツに求めたりしている。
ニ号研究に携わった物理学者が、声を潜めてこう証言した。
「我々はウラン爆弾など出来るわけがないと思っていたが、アメリカかドイツなら製造するのではと考えていた。
戦後になって、日本があの爆弾をつくっていたらやはり激戦地で投下したろうと思い、慄然とした。
特に陸軍の指導者は、何をやるか分からない面があった。
海軍はすぐに造れとは言わなかったらしい。
少しは理性があったんだと思う。」
1945年5月、日本本土への米軍の爆撃は苛烈となり、仁科芳雄は陸軍航空本部に「ウラン爆弾は、この状態では無理だ」と通告した。
これは陸相レベルに伝えられ、計画は中止になった。
海軍の荒勝研究所の研究は、文書が発見されている。
その研究者には、湯川秀樹、坂田昌一、小林稔、清水栄、木村毅一ら、京都帝大の教授が名を連ねている。
仁科の研究チームにも、湯川秀樹や朝永振一郎が加わっていて、原子物理学者は陸海軍から雇われていたのが分かる。
海軍の文書ではF号研究について、「陸海軍技術運用委員会において統括する」とある。
さらに東京と京都が連携して研究交流するのも条件としていた。
しかし、陸軍と海軍の研究統一は成らなかった。
(2021年8月16日に作成)