タイトル1945年にOSSが行った日本との和平交渉(マーティン・キグリーの証言)

(『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』徳本栄一郎著から抜粋)

私は2009年に、コネチカット州の州都ハートフォードにある、マーティン・キグリーの自宅を訪ねた。

彼に取材するためである。

マーティン・キグリーは、1917年生まれで、第二次大戦中はOSS(アメリカの諜報機関)の工作員をし、アイルランドとイタリアで活動した。

第二次大戦の末期に彼は、ウィリアム・ドノバンOSS長官の命令で、ローマ教皇庁を舞台に日本との和平交渉をした。

コードネーム「ハート」、工作員番号「623」を与えられ、民間人のカバー(身分偽装)でローマに潜入し、バチカンの日本公使館と接触しようとした。

マーティン・キグリーは、1942年11月下旬から、メリーランド州ボルティモアにあるOSSの工作員養成機関「エリアE」で3週間の訓練を受けた。

彼がOSSに採用されたのは、父が映画関係の出版社を経営しており、各国の上流階級や映画会社幹部と親交があったからだ。

エリアEでの訓練は、任地でのカバー(身分偽装)の確立方法、尾行の見分け方、暗号の作成、金庫破り、ピストルの操作、爆弾の扱い方、などだった。

そこでの訓練を終えると、ワシントン近郊のエリアRTU-11、通称「ザ・ファーム」の訓練所に送られた。

2週間の上級コースは、主に暗号通信システムの操作の訓練だった。

マーティンは訓練を終えると、最初の任地としてアイルランドに派遣された。

そこでは映画協会の代表を演じつつ、首都ダブリンで情報収集してワシントンに送った。

第二次大戦中、アイルランドは中立国だった。

1944年の初めにマーティンは帰国を命じられ、OSSのイタリア課に配属されると、しばらくはイタリア語の習得に励んだ。

ウィリアム・ドノバンは、1883年生まれで、大学卒業後は弁護士になり、企業の顧問弁護士として活動した。

そして第二次世界大戦が始まると、ルーズベルト政権からOSS長官に任命された。

1944年の晩秋にマーティン・キグリーは、ウィリアム・ドノバン長官の呼び出しを受けた。

OSS本部に行くと、ウィリアムは「次はローマに行ってくれ。現地では前と同じカバーを使ってくれ。そして東京(日本政府)と和平の交渉をし、日本の降伏案を話し合うのだ。」と言った。

要するに任務は、「バチカンの人脈を使って、日本の降伏条件を探れ」だった。

OSSのSI(秘密情報部)のイタリア課長であるアール・ブレナンから、マーティンに機密メモが届いたのは、1944年12月4日だった。

その内容は、「イタリアに行き、ヴィンセント・スカンポリーノの許へ出頭せよ」だった。

マーティンは、アメリカ映画協会のローマ代表の肩書で、イタリア入りした。

マーティン・キグリーと同様に若くしてOSSに入り、ナチス占領下のフランスで活動したジェフリー・ジョーンズにも取材した。

ジェフリーは1919年生まれで、家族と共に子供時代をフランスですごし、プリンストン大学を出た後にアメリカ陸軍に入った。

その後、OSSのSO(特殊作戦部)に配属された。

SOは、敵地での破壊工作など、軍事的な作戦が多かった。

ジェフリー・ジョーンズは、1944年8月に南フランスにパラシュートで降下し、フランス人の労働者になりすまして、レジスタンスに合流した。

そしてドイツ軍の後方で、情報工作を行った。

ジェフリーは言う。

「OSSのドノバン長官は、世界を旅行する人間をOSSに採用していた。当時のアメリカでは、それは金持ちや外交官やビジネスマンに限られた。」

OSSは、裕福なエリートを積極的に採用した。

後に大学教授や作家になった者も多く、映画監督のジョン・フォードや、デザイナーのジョン・ワイツ、ハーバード大学教授のウィリアム・ランガーなどもOSSで働いた。

話をマーティン・キグリーに戻すが、彼は1945年5月26日に、ローマ教皇庁の外交官であるエジッジョ・ヴァニョッツイに会った。

前月の28日にムッソリーニが処刑され、2日後にヒトラーも自殺して、5月8日にドイツが降伏していた。

マーティンはエジッジョに、OSSの工作員だと告げ、「日本の降伏を実現する対話の仲介役になってもらえませんか」と話した。

エジッジョの顔は少し青ざめた。
時の教皇ピウス12世は「交戦国には関わるな」と厳命し、バチカンは中立を採っていたからだ。

マーティンは、「聖職者は戦争の終結に尽くす義務があるのではないですか」と訴えた。

エジッジョは、「もし私が同意したら、どんな役割を行えばいいのですか」と応じた。

「この話を富沢・神父に取り次いで下さい。あなた方は同じ司祭館に住み、一緒に食事をすることもある。誰にも怪しまれずに話ができる。そして日本側のどんな反応でも私に伝えて下さい。ワシントンに報告します。」

当時のバチカンの日本使節館は、原田健・公使、金山政英・書記官、渡辺真治・電信官の3人が駐在し、富沢孝彦・神父が顧問をしていた。

マーティン・キグリーは、日本使節館を調べて、45年1月20日にOSS本部に次の打電をしている。

「重要なのは、書記官とその妻、公使の妻も、カトリックという事実だ。バチカンにいる日本代表は、本国の政策を詳しく知らされておらず、日本軍部が外交使節を道具として使う慣習に沿っている。」

マーティンはエジッジョに念を押した。

「富沢と話す時は、OSSの名前は出さないで下さい。ワシントンに強力な繋がりを持つ、アメリカ人のビジネスマンだと言って下さい。日本から戦争終結のメッセージがあれば、秘密裏にアメリカ政府の最上層部に伝えると言って下さい。」

私は2007年7月にローマを訪れ、「バチカン機密文書館」へ行った。

そこには裕仁(昭和天皇)がローマ教皇ピウス12世に宛てた書簡があった。

日付は1939年6月7日で、ピウス12世の即位を祝うものだ。
有田八郎・外相の署名もある。

他にも、1922年6月9日付のピウス11世への即位祝いの書簡もあった。
こちらは嘉仁(大正天皇)と裕仁(摂政)の連名である。

1942年3月中旬に、バチカン市国はアメリカ政府に書簡を送り、「日本の外交使節を受け入れる」と伝えた。

(※この時はすでに日米戦争が始まっている)

この年の初めには、バチカンと日本の国交樹立の噂が流れ出していた。

当時の日本は、フィリピン、シンガポール、ビルマなどを次々と攻略していた。

アメリカのルーズベルト大統領は、日本とバチカンの接近に強い不快感を示した。

ルーズベルト大統領の親友で、ニューヨーク大司教であるフランシス・スペルマンは、後に枢機卿に出世し「アメリカの法皇」と呼ばれた。

フランシス・スペルマンは、第二次大戦中はルーズベルトの密使として活動し、欧州や中東を歴訪して、ピウス12世やイギリス首相にメッセージを伝えた。

1943年5月19日の『木戸幸一・日記』には、「ドイツ外相のリッベントロップは最近、フランシス・スペルマンに秘密裡に会見せりとの話」とある。

フランシスの長年の友人の1人が、OSS長官のウィリアム・ドノバンだった。

フランシスもウィリアムも、アイルランド系の家に生まれ、カトリック系の大学で学んでいる。

なお、マーティン・キグリーの父はマルタ騎士団のメンバーだったが、フランシス・スペルマンはマルタ騎士団の有力メンバーだった。

父が入団したのは1941年1月だが、父とフランシスには面識があった。

マーティンがローマに向かう時、フランシスは現地の聖職者への紹介状を書いている。

1942年7月23日付で、OSSのニューヨーク支局長のアレン・ダレスが、駐米ベルギー大使に送った書簡には、こうある。

「フェリックス・モーリオン神父は、ある部門の指揮者として戦争の有用な情報を提供し、我々が入手した文書の調査も行っています。彼の交代は困難と考えます。」

フェリックス・モーリオンは、ベルギー人だが、ナチスから逃れてアメリカに亡命していた。

当時は、一定年齢のベルギー人男性は、亡命政府のあるイギリスで軍務に服する規則があった。

アレン・ダレスは、この規則の適用からフェリックスを除外するよう求めたのだ。

1944年7月に、教皇ピウス12世とドノバンOSS長官は、秘密会談をしている。

その前月に連合軍はローマに入城し、その直後にドノバンはピウス12世から最高殊勲章「ゴールデン・ミリシャ」をもらっていた。

話をマーティン・キグリーに再び戻す。

マーティンがバチカンに入った後に、「自分はOSSの工作員だ」と告白して協力を求めた者には、イエスズ会の総長補佐のビンセント・マコーミック神父と、米国コロンブス騎士会のローマ代表であるピエトロ・ガレアッツイがいた。

マーティンは言う。
「私はバチカンよりも、カトリックの組織に接触した。カトリック組織の本部はローマにあるが、そこには世界中の情報が入ってくる。私の最も強力な情報源はイエスズ会だった。」

マーティンが頼りにしたピエトロ・ガレアッツイは、バチカン市国の運営委員長をつとめ、第二次大戦中はピウス12世のメッセージを携えて渡米し、ルーズベルト大統領に届けていた。

バチカンの日本使節館にいた金山政英・書記官は、後年に著書『誰も書かなかったバチカン』でこう回想している。

「(アメリカ側から打診された)和平案を本国に打電するか否かで、使節館の中で議論が数日にわたって行われた。

まかり間違えば、出先の外交官がアメリカのスパイに踊らされて、敗北主義に陥ったと思われかねない。

そうなれば、私たちは国賊扱いだ。」

結局、日本使節館は1945年6月3日に、本国に打電した。

しかし外務省から何の返事もなかった。
受信の確認すらない。

そこで使節館は、詳しい和平案をアメリカ側から得ようとした。

マーティン・キグリーがエジッジョ・ヴァニョッツイに和平の仲介を頼んで2週間経つと、マーティンはエジッジョに呼び出された。

エジッジョは、こう言った。
「あなたの話は富沢神父に伝え、日本公使館はそれを東京に打電したが、返事は来ていません。ただし、あなたから更に詳しい情報が欲しいと言ってきました。」

マーティンは仕方なく、自己裁量で次の3つを降伏条件として挙げた。

①アメリカ軍による日本占領

②アメリカへの永久的な領土割譲は無い

③日本国民が決定しない限り、天皇の地位は変更しない

この条件を見て、エジッジョは訊いた。
「囁かれている無条件降伏の要求は、見直されるのですね」

「その通りです。
無条件降伏は、本質的にプロパガンダ用語です。
歴史を見ると、降伏には常に何らかの条件が伴っています。」

この条件を、日本使節館は6月12日に東京に打電した。

しかし何の返事もなく、受信確認もなかった。

これには日本使節館も当惑した。

金山政英は『誰も書かなかったバチカン』に、こう書いている。

「1週間たっても、10日たっても、日本からは何の返事も来なかった。

日米開戦に先立つ1941年12月に、野村吉三郎・駐米大使らが『ハル・ノート』への回答を一日千秋の思いで待ち続けた気持ちが、その時の私にはよく分かった。

和平案は、なぜ黙殺されたのだろうか。」

マーティン・キグリーは、私の取材でこう語った。

「日本政府からの返事は無かった。

あの時、日本政府には2回、和平交渉の機会があった。
2回目は降伏条件も示唆した。

バチカンからの電報は、外務省に残っているはずだ。」

実際に、1通目の電報は『極秘電報・第五十三号』として、2通目は『極秘電報・第五十九号』として、外務省は保管している。

私はマーティンに訊いた。
「あなたの和平工作が成功していたら、広島と長崎への原爆投下は無かったと思いますか」

「原爆は落されなかったと思う。
その場合、他国は原爆の開発をせずに、核兵器の無い世界が現実の可能性としてあったはずだ。」

「あなたが示した降伏条件は、現実になりましたね」

「その通り。天皇の維持で、連合国の日本統治は極めて順調に行った」

1955年になってから、パトリック・オコナーというアイルランド人の神父が、日本の外務省に上記した和平案について「事実なのか」と問い合わせた。

外務省は「事実無根」と回答した。(1955年3月22日の外務省書簡)

彼らは、歴史を闇に葬るつもりなのか。

あの時、日本政府が和平交渉に応じたとしても、和平が実現したかは分からない。

というのも、マーティン・キグリーは経緯を逐一OSSの本部に報告したが、沈黙したままで次の指示が来なかったからだ。

この和平工作は、タイミングが遅すぎた。

当時の日本政府は、ソ連を和平の仲介役に決定していた。

(2021年9月11&14日に作成)


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