(『しんぶん赤旗日曜版2023年3月19日号』から抜粋)
細田正晴さん(80歳)の話。
「私の実家はコメ農家でしたが、戦争中は新米は供出米として、全て持っていかれました。
だから通常は、麦、アワ、キビ、サツマイモを食べてました。」
(以下は『しんぶん赤旗日曜版2022年9月4日号』から抜粋)
依田篤三さん(94歳)の話。
「私が中学校に入学した年に、太平洋戦争が始まった。
ほどなく一般教科の授業は削られて、軍事教練や体育、勤労奉仕の活動が増えた。
そして生徒たちの心は、次第にがさつになっていった。
その一方では、私の住む町に、都市から工場が移転してきて、そこで働く工員の振る舞いを真似る生徒も多くなった。
やがて生徒たちは、工場へ通年動員になった。
不良の生徒は、休日に街でいきがっていたところ、ヤクザの工員に囲まれて力で脅され、逃げてくることもあった。
戦争はこのように、若者の精神に大きな影響を与えることも、見落としてはならない。」
(以下は『しんぶん赤旗日曜版 2016年8月7日号』から抜粋)
1945年8月6日は広島原爆の投下日である。
その日、関千枝子さん(84歳)が通っていた県立広島第二高等女学校の同級生たち39人は、爆心地から南1.1kmで建物疎開の作業をしていた。
関さんは下痢で学校を休み、自宅で寝ていた。
爆心地から3kmの自宅にいたため無事だった関さんは、翌日に学校に行った。
教室に入ると、焼けただれた人々が並んで寝かされていた。
その1人に声をかけられたが、同級生だと分かった。
関さんは後年に同級生たちの最後の姿を取材し、1985年に本にまとめた。
その中では、顔が原型のないほど焼けた自分の子供を見て「これは私の子供ではありません」 と叫んだ同級生の母親の話や、全身を焼かれながら生徒を背負い病院にたどり着き息絶えた担任の先生の話もつづっている。
建物疎開の作業をしていた同級生39人のうち、38人が原爆投下から2週間以内に亡くなっていた。
建物疎開の取材の中で、動員された人数に比べて死者数が少ないと分かった。
その理由の1つが、「死者に朝鮮人が含まれていないこと」だと分かった。
関さんは言う。
「国は、遺族年金や恩給を支給しないために、外国人を戦死者から除外した。
建物疎開をしていて亡くなった子は5846人とされるが、実際は6000人を超えると思う。」