私の弟には、U君という3歳の息子がいます。
私は、U君とよく遊びます。
U君はとにかく良い奴で、私は彼が大好きだし、彼も私を好いてくれています。
仲良しこよしなので、先日も近くの海岸に、石投げに行ってきました。
その時に感じた事を、書きたいと思います。
まず、U君と友情を育んできた、これまでの日々を説明いたします。
私の家は海に近くて、歩いて5分で海岸に行けます。
そこで、U君が2歳になって少し歩けるようになった時に、さっそく「海を見せてあげよう」と思い、一緒に海岸に行きました。
初めて海を見たU君は、海を怖がり、近づこうとしません。
彼が喜ぶだろうと思っていたので、意外でした。
私は、「ふむ。小さい子供は、海を怖がるのか。U君が海岸で遊べるようになるには、少し時間がかかるかもなあ」と思いました。
仕方がないので、海に流れ込む川が隣接して存在しているので、川岸に移動して、川への石投げを行います。
すると、U君も興味を示し、石を投げました。
距離は、50cmくらいです。
この時以来、U君は我が家に遊びに来る度に、「海に石投げをしに行こう」と言うようになりました。
彼にとっては、欠かせない行事になっているようで、雨が降っていても行こうとするほどです。
なぜか、海について怖がる事は、すっかりと克服したようです。
どういう経緯で克服したかは、まったく解析できません。U君にも分からないので、永遠に謎でしょう。
そうして、今までに4回ほど、一緒に石投げをしてきました。
U君は、身体の成長に合わせて、着実に距離を伸ばしています。
毎回ごとに距離を伸ばしてくる彼には、驚きを禁じえません。
さて、つい先日に、5回目のU君との石投げをしてきました。
彼がだいぶ言葉をしゃべれる様になったので、今回はかつてないほどのコミュニケーションを取れました。
そうしたところ、私はいくつか気づきを経験しました。
海岸に沿うように存在する川岸に着くと、さっそくU君は石投げを始めます。
今までは持てなかった10cm位の石を持ち、2mという最高記録を達成する彼を見て、「また成長しているぞ。何という奴だ。」と舌を巻きました。
U君は、「尚おんじ(尚立おじさんの意)、尚おんじも投げて」と、私にも投げるように促します。
私は石を持ち、25mくらいポーンと投げます。
石は、川の中ほどに、「ドボン!」と落ちます。
するとU君は、「尚おんじは、すごいねえ」と、喜びと尊敬心のこもった顔で、私を褒めたたえるのでした。
そうして、嬉しそうにまた石を投げるのです。
U君にとっては、25mの記録は、オリンピックの世界記録くらいに輝いて見えるのでしょう。
彼は心の底から、私の記録に憧れと敬意を持っており、それは彼の態度や表情からひしひしと伝わってきます。
この事を、「井の中の蛙だ」と見る人もいると思います。
しかし私は、「こんなにシンプルに物事に感動できるなんて、なんて素晴らしいのだろう」と、驚嘆します。
さらに、「あなたは、ありのままで素晴らしい存在なのだよ。 私は、あなたに感動しました」と言われている気がして、とっても癒されるのです。
『神との対話』では、「子供たちは、純粋な存在であり、神性に近い(自分の魂とあまり離れていない)」と説きます。
マスター・イエスも、2千年前に、「子供たちは、天国に入りやすい存在だ」と言って、子供の素晴らしさを褒め称えました。
私も、子供に接するたびに、その素晴らしさを痛いほど感じます。
私はU君や他の子達に、心からの尊敬を持っています。
U君は、自分で2~3個ほど石を投げると、必ず「尚おんじも、石を投げて」と言ってきます。
時には、「一緒に投げよう」と言ってきたりもします。
この要求に対して私は、「そうか、そうか」「分かった、分かった」「よし」となどと、返事をします。
すると、承諾してもらったのが嬉しいのでしょう、
U君は、「そうか、そうか」「分かった、分かった」と、すぐに同じ言葉を、相づちの様に復唱するのです。
その時のU君は、実に嬉しそうな顔をします。
私のセリフを復唱する彼を見て、「こうやって、子供は言葉を覚えたり、感情表現を覚えたりするのだな」と感じました。
U君は意識していませんが、彼は復唱する事で、私の言葉使いや人間性を学んでいるのです。
相手に影響を受けている自覚が無いだけに、より責任重大です。
彼の無邪気な復唱を聞きながら、「いつでも誠実・正直な応対をしなければ」と改めて思いました。
親の中には、「子供の言葉使いが悪い。叱っているのに、直らない」と言う人がいます。
こうした場合は、子供に丁寧な言葉で話すのが、一番の解決法だと思います。
なぜなら、子供はものすごく真似をする能力に長けているからです。
色んな親子を見ていると、言葉使いの悪い子供の場合、親も言葉使いが悪いものです。
子供の言葉使いを直そうとする親は、「何でお前は、そんな言葉を使うんだ!」とか言って叱るのですが、その叱っている言葉自体がNGなのに気づいていません。
昔の武家や上流階級は、小さな子供に対しても、丁寧な言葉を使っていました。
私は、小さな子供があまり丁寧な言葉を使うのはかえって気持ち悪いので、U君にしようとは思いませんが、
子供の言葉使いをきれいにしたいならば、とにかく丁寧な言葉で話しかければいいと思います。
さて、U君との話に戻ります。
石投げをした後は、一緒に海を眺めつつ、海岸を散歩しました。
海岸には、大きな石がゴロゴロしているエリアがあります。
そこでは、U君が歩くには危ないので、私はU君を後ろから抱きかかえて移動します。
抱きかかえるのが恒例になっているので、U君も心得たもので、大きな石のあるエリアにくると、両脇をパッと開いて、私が持ち上げるのを待ちます。
移動の途中で、U君は「お腹が痛い」と言いました。
私は(ウンチをしたくなったのか)と思ったのですが、そうではありません。
U君は、「(尚おんじの)腕が、お腹にグッと入った」と、少し不満そうな声で説明しました。
私は、後ろから彼のお腹とお尻の下に片腕ずつ回して抱えていたのですが、お腹に回した腕が、彼のみぞおちに入ったのでした。
U君の短いながらも的確で分かり易い説明に、驚嘆しました。
少し前までは、「腕」「入った」などの語彙を彼は持っていなかったので、(言葉の選択肢が増えてる…)と、よけいに驚きました。
彼の直感的で無駄のない説明に、(何という分かり易い説明なんだ。状況が一発で分かる。大人同士のやり取りにはこの分かり易さは無いぞ)と驚きました。
そして、(日本の政治も、このくらい飾り気がなければいいのに。そうすれば意思疎通がスムーズになり、政治の遅滞など生まれないだろう)と思いました。
U君の発言を聞いて、私は「おおっ、ごめん」と返事をし、急いでお腹に回した腕を緩めました。
U君は、私に抱えられて移動する間、大人しくしていますが非常にご機嫌で、ずっと「よしっ、よしっ」と、小さく呟いていました。
満足感で一杯なので、自然に納得の言葉が漏れるようです。
私は、彼の態度にやや意外さを覚え、(そんなに気持ちが良いものなのだろうか)と考えてみました。
彼の状況に立ってみると、小さい子にとって大人に抱えられるというのは、自分の身長の数倍の高さに移動する事です。
大人の人間にしてみると、7mくらいの巨人に持ち上げられるような感覚でしょう。
これは、気持ちいいです。間違いありません。
よくよく考えてみると、小さい子供じゃないと経験できない事も、たくさんあります。
U君は、海岸からの帰路に、大人には容易に見つけられない『地面に落ちているBB弾』を、次々と見つけていきました。
視点が低いからなのですが、すごく羨ましいですね。
子供の頃には、地面にいる蟻などの虫に簡単に気づきますが、大人になると気を付けて見ないとまったく目に入らなくなります。
「子供と大人を比べるならば、大人の方が優れているし、大人の方が幸せだ」と言う人がいます。
でも私は、自分の子供の頃の経験から照らしても、子供時代には大人には経験できないものを経験できるし、どちらも甲乙つけがたいと思います。
『神との対話』などの偉大な書物には、
「人生には、優劣や幸福度の差はない。
それぞれの状況や環境に、幸福は宿っている。
あなたが幸福になれるかは、あなたの生き方(在り方)しだいなのだ。」
と書いてあります。
これが真実だと思います。
U君は、大人の私が心を動かされないような、ちょっとした出来事で、ものすごく喜んでいます。
私は、「本当に凄い奴だ。悟りを開いた人みたいだ」と、しょっちゅう驚いています。