(以下は、ハーバービジネス・オンライン
『草の根保守の蠢動』から抜粋)
1995年に村山内閣が国会提出し成立させた、『戦後50年の決議』。
1994年に発足した村山内閣(自社さの連立政権)は、発足直後に「日米安保への反対」「日の丸と君が代への反対」「自衛隊は違憲」との社会党の党是を放棄し、すべてを容認する路線変更をした。
当然ながら、護憲派の団体は強く反発した。
そんな中で、社会党が自民党と合意したのが、「あの戦争は侵略戦争であった」と認める『戦後50年の決議』の採択だった。
この決議には、自民党内から反発が出た。
これを後押ししたのが、椛島有三が率いる「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」だった。
彼らは決議反対の署名を集め、決議反対の議員連盟も結成させた。
この署名運動では、1年足らずで500万筆を集めるのに成功し、95年3月に国会に請願した。
かねてから椛島らと親しい村上正邦は、参院自民党の幹事長になり、「参院の法王」と呼ばれるまでに出世していた。
村上の政治力の源泉は、「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」の集票力だった。
当然ながら村上は、決議反対の急先鋒となった。
魚住昭の著書『証言 村上正邦』を読むと、95年6月6日の緊迫した情勢が分かる。
当時の自民党は、加藤紘一や野中広務が中心となり、「侵略戦争だった」との見解を受け入れる形で、文案の作成を進めていた。
この日、日本青年協議会のメンバーは、椛島有三と中川八洋を筆頭に50人ほどが参院自民党の幹事長室に詰めかけた。
村上正邦が文案を持ち帰ると、椛島らが「これでは駄目だ」と突き返し、村上は部屋を出て加藤らに文案修正を求める。
そんな作業が、深夜まで繰り返された。
加藤紘一は口頭で、侵略戦争を「世界史全体でくり広げられたものと曖昧にする」と約束した。
これで椛島らは納得したが、発表された文章は口頭で約束したものと違っていた。
この詐術を知った椛島や中川は、激怒した。
彼らは、「我々をペテンにかけた」と、村上のネクタイを掴んで怒鳴り散らした。
村上は椛島たちに、「衆院では可決させるが、参院では否決する」と約束し、彼らの怒りを鎮めた。
このような経緯で、『戦後50年の決議』は衆院可決・参院否決という異例の結末を迎えたのだ。
注目すべきは、『参院自民党の幹事長室を、日本青年協議会のメンバーが占拠し、村上正邦・参院幹事長を恫喝していたこと』だ。
その圧力の結果、「両院での全会一致」という日本の議会の慣習が、踏みにじられてしまった。
現在の安倍政権には、「首相補佐官」「秘書」「有識者会議のメンバー」の形で、日本青年協議会のメンバーが多数、存在している。
そしてそのメンバーは、20年前に自民党に圧力をかけたメンバーとほぼ顔ぶれが同じだ。
筆者はこのたび、村上の事務所を訪ねて、インタビューをした。
彼は、1995年6月6日の『戦後50年の決議』の文案を巡る攻防を、克明に記憶していた。
村上
「あの日、19時ころから会議が始まった。
主にやり合ったのは、加藤と野中。古賀さんと森喜朗もいた。
で、僕は「そんな謝罪はダメだ」「そんな文案じゃだめだ」と言い続けた。」
村上は、文案を参院の自民党・幹事長室にもち帰った。
そこに居たのは誰なのか。
村上 「椛島、大原だ。」
大原とは、国学院大学名誉教授の大原康男のことである。
彼は、日本青年協議会や日本会議でイデオローグ(理論的指導者)のような立場にいる。
村上
「あと、若い連中もたくさん居た。
日本青年協議会の若い連中が。 」
報道や文献で「謝罪決議に反対するために参院幹事長室につめかけていた人々」と書かれたのは、日本青年協議会のことなのだ。
村上は、この連中の突き上げをうけ、再び自民党役員と討議した。
だが、ペテンにかけられ明確な謝罪が文案に入った。
村上
「大原や椛島は真剣に怒っていた。
どうにも手がつけられないんで、『参院では可決させない』と約束して、その日は帰ってもらったんだ。」