数日前の報道ステーションでは、渡辺貞夫(ナベサダ)さんのバンドが取り上げられていました。
被災したネパールの人々を慰問するためのチャリティ・コンサートをし、それをテレビ局が取材したのだった。
それを見ていて一番驚いたのは、バンド・メンバーの中に「養父貴」の名があったこと。
「えっ!!」と目を疑った私は、録画したのを見ていたから、巻き戻してナベサダの後ろでギターを弾いている男(一瞬しか映らない)を確認したところ、だいぶ印象は変わっていたが、確かに彼だった。
バンド・メンバーとして養父貴の名前が画面に表示された時、日本人のほぼ全てが何も感じなかったと思う。
なんで私がびっくりしたかと言うと、『彼がギターの師匠の1人』だからです。
私は今世において、3人のギタリストに師事をしました。
CDやLPや映像を通してなら沢山のギタリストから学びましたが、直接に教わったのは3人だけです。
そのうちの1人が養父さんなのです。
彼は、私が習っていた時期にはスタジオ・ミュージシャンをしていて、世間にはほとんど出ていなかった。
素晴らしいギタリストだから、もっと表舞台に出るべきだと思ったし、彼にそう言った事もあった。
「ライブでもっと演って下さいよ」と。
あれから時間が経ち、日本のジャズ界にも疎くなっているけど、まさか日本トップ・クラスのジャズバンドに参加していたとは。
養父さんは凄いギタリストだけど、有名バンドで活躍したとかの実績は(少なくとも私が習っていた時期には)なかった。
そんな人を抜擢したナベサダを見て、「やはり良いセンスをしている、日本ジャズ界をリードしてきただけのことはある」と感心しました。
ナベサダさんは、15~10年位前には「だいぶ身体が衰えてきているなあ」と感じさせる雰囲気だった。
表情や姿勢に活気がなく、「あと数年で亡くなるかも」とか思っていた。
ところが今回の放送では、音にも表情にも血気があり、背筋もピンと伸びていた。
演奏内容にとても満足しているようで、以前よりもリラックスした音を出しているし、何よりも楽しそう。
あの年齢だとサックスをちゃんと吹けるだけでも拍手できる。
海外に行って演奏するのだから、さらに凄い。
「このオヤジ、まだまだ生きそうじゃないか。以前よりも元気になっているし、若返った感じすらある。若干ながら妖怪になってきたな」と、さらに感心しました。
養父さんが脚光をあびる環境でプレイしているのを知り、とっても嬉しくなりました。
そこで今回は、彼との思い出を書き綴ろうと思います。
師事していた当時は「養父先生」と呼んでいましたが、私は元来だれかを「先生」と呼ぶのが好きでないし、彼も気さくな人柄でそんな敬称を求めないタイプなので、養父さんと普通に記述していくことにします。
私が養父さんにギターを習ったのは、8年くらい前のことです。
彼の自宅近くにある、彼が持っている小さな録音スタジオにて、6回ほどレッスンを受けました。
1レッスンごとに1ヵ月~1ヵ月半くらいの間隔を空けたので、トータルで1年間くらいお世話になりました。
なぜ彼に習おうと思ったかというと、彼が書いた『ギターで覚える音楽理論』という本が非常に充実し、かつ分かり易い内容だったからです。
当時の私は音楽理論を勉強していて、全部で20冊ほどの本を読みましたが、一番分かり易く頭に入ってきたのは(得心がいったのは)この本でした。
音楽理論の本を色々と読んでいくと、著者がどれ位の力量があるかが感じ取れるようになる。
専門用語を羅列していても、「この人はあまり理論を理解していないな」と思える薄い内容の本もある。
養父さんの本は、難しい言葉を使わず、平易な表現に留意しているのだが、どれもが的確・適切な解説で、他の本の5冊分の内容があった。
ノートにとって勉強していくうちに、「この人は只者ではない」と痛感した。
『ギターで覚える音楽理論』を、2ヵ月くらいかけて他の本と照らし合わせたりしつつ学び終えた。
その時に、いくつか疑問点が残った。
普通だったら「他の本で疑問を解消できるだろう」と考えて気にしないが、著者の博識と誠実な記述に感銘を受けていたから、「著者に問うてみたい」と思った。
すっかり養父貴という人物に感服したので、もう1つの著作『ギタリストのための全知識』も購入し、それも1ヵ月くらいかけて心に響く箇所をノートにとりつつ勉強しました。
この本も、素晴らしい内容だった。
パッと見た感じだと他の教則本と同じに見えるけど、要所をガチッと押さえているんですよ。
2冊の勉強を終えた時点で、「この著者はすごい奴に間違いないぞ。1度会って教えを受けたい」と深く思いました。
都合の良いことに、著書の最後のページには、彼のウェブサイトのアドレスが出ていた。
私はそこに行き、メールで「あなたの本を買ったが素晴らしい内容だ。勉強を終えたがいくつか聞きたい事がある。プロ・ミュージシャンになるためのアドヴァイスも受けたい。」と伝えました。
返事が来るかどうか分からなかったが、1週間くらいしたら丁寧な文章で返事がきた。
「喜んで教える。どんな事が聞きたいのか、少し具体的に教えてほしい。あなたの家からだと私の家はすごく遠い。それでも良ければ来て。」との内容だった。
で数回メール交換をし、とりあえず1回レッスンを受けることにしました。
彼の住んでいる場所は忘れましたが、私の住む小田原からだと片道3時間の距離でした。
私はすでに菅野義孝さんからジャズ・ギターを2年ほど習っていて、菅野さんの家も片道3時間だったので、慣れていたらしく苦痛はなかったです。
ちなみに、菅野さんんも素晴らしいギタリストです。養父さんとはタイプもスタイルも違いますけど。
さて、レッスン当日。
目的の駅に到着し、教わったとおりに駅から歩いて5分ほど進むと、そこには1階建てで貸倉庫みたいな部屋が連なる、全く洒落っ気のない殺風景な建物があった。
メールに「着いたら電話をくれ」とあったので、電話すると建物の1つのドアから養父さんが出てきた。
著書のプロフィール写真では細面だったが、実際に会うとけっこうふっくらした顔と体形をしていた。
私は彼の自宅でレッスンをすると思っていたが、そこは自宅ではなく、彼の個人スタジオであった。
中に入ると、10畳くらいの長方形の1部屋があり、奥にはパソコン机と録音用のアンプ等があり、少し手前に業務用スピーカーがスタンドを使用して設置されていた。
ギターは2~3本しか置いてなかった。そのうちの1本はアコギだった。
そこは完全なる密室で、窓は1つもなく、閉ざされた空間だった。
彼の話によると、しっかりした防音がされているとの事。
トイレや台所もなくて、トイレは同じ建物にあるが部屋から出て行かねばならず、共同トイレらしかった。
私の印象では、彼の録音スタジオは「秘密基地」だった。
仕事場なのだが、どこか遊び場の匂いもあった。
そこにあるアイテムの全てがギターを弾くことに直結するもので、普通の人の目線だと遊びの要素はないのだが、ギター弾きだとワクワクするものがある。
「とても面白そうな場所を作り上げている、まことに羨ましい」と思いましたねえ。
空調は完全に効いており、快適にすごせた。
彼は几帳面な性格で、加湿器を室内に置いていた。
「快適に過ごすためには徹底的にこだわる」という空気が、彼からも部屋からも感じ取れた。
私がそれまで接してきたジャズ系のミュージシャン達は、その多くがいい加減なタイプ(性格)だった。
養父さんはスタジオ・ミュージシャンだからか、細かい部分までこだわる(きっちりする)人でした。
私が感心したのは、ギターの弦やピックを専用のプラスチック・ケースに細かく仕分けして入れており、入れ方もピチッときれいだったこと。
シールド(コード類)も、かっちりと均等に巻かれていて、巻きに乱れがなかった。
私も含めてジャズ系のギタリストの多くは、乱雑に収納しがち。
譜面もボロボロになるような扱いが多い。
養父さんのスタイルは、カルチャー・ショックでした。
以後、私の収納の仕方はけっこう改善しましたよ。
まだレッスンに入ってないのに、結構な分量になってきたな。
記事を2回に分ける事になりそうだ。
えー、話をレッスン内容に進めますが、第1回目はあまりギターは弾かず、会話が中心でした。
音楽理論で疑問のある所を訊いたり、スタジオ・ミュージシャンはどんな感じで仕事をするのか聞いたりしました。
私は養父さんがどんなギター・スタイルかを知らず、どの位の技量かも知りませんでした。
で、彼が最も得意としているスタイルを見せてもらった。
それはファンク系のリズム・ギターで、ジェイムズ・ブラウンのバンドが出すような「切れのある、多様なリズム・パターンを駆使したもの」でした。
私は色んな音楽を聴くし、JBの音楽も大好きなので、「おおっ、こっち系か」と思いながら彼のプレイを見た。
で、「すっげえ上手いよ!」と驚愕した。
その後に何度もレッスンを受ける中で確信するようになったが、養父貴は『日本で屈指のカッティング技術を持っている』と思う。
切れ味がすばらしく、滑らかに弾けて、リズムに乱れが無く安定感が抜群で、黒人的なしなり感も出せる。
正直、私が生で聴いた日本人ギタリストの中では、ナンバー・ワンのリズム感だった。
当時の私はバッキングの向上に取り組んでいて、ピックを持つ右手の振り方や、ピックの握り方や、どの位の柔らかさのピックを使うかで、すっごい悩んでいました。
だからそういう辺りを、養父さんに質問しました。
すると彼は誠実に答えてくれたので、カッティング技術についてレッスンを受ける事にしたのです。
そうして、この後に5回ほど通って、ファンク系のカッティング技術を学びました。
私としては、彼の右手の動きを盗みたかった。
だから、右手の動かし方をずっと観察し続けたが、だんだんと「これは真似できないな」と思うようになりました。
動きが異常なレベルで滑らかで、あまりに普通の(私を含めた)ギタリスト達と違うので、「スムーズに動きすぎる、気持ち悪い」とまで感じましたね。
見れば見るほど、「この男はギター界のサラブレッドじゃないだろうか、凄すぎるぞ」と感じ、若干引いてしまうほどだった。
どう見てもえらく高いレベルにあるし、黒人みたいなバネのあるリズムで弾ける日本人はそもそも希少だし、ここまで弾ける日本人を1人も知らなかったので、「こういうギター・スタイルでは日本で一番なんじゃないですか?」と1度言ってみた。
すると、「そのように評価してくれる人も少数ながら居る」との返事だった。
普通だと、「日本一じゃないですか?」と聞かれたら、「そんな事ないよー」とか「まだまだです」とか答える人が多い。
養父さんはそうじゃなかった。
彼はプライドの高い男で、頭が良いし、謙虚さを備えているが、自分を低く見積もる事はしなかった。
私はそういう姿勢に共感し、「大した奴だ」と感心しましたよ。
養父さんは音楽学校で先生もしているので、ファンキーなリズム・ギターを学ぶにあたっては学校で用いている教材(タブ譜)が使われた。
彼が自ら書いた譜面で、よく使われるが弾くのは難しいフレーズを6パータン位あげてある。
それを、彼が作った練習用のバック・ミュージックに合わせて弾く。
養父さんはパソコンにも熟達していて、練習譜面やそれ用のサウンド・トラックを自作していた。
ちなみに彼はマック派で、「使い始めがマックだったので、慣れているので変える気になれない」と言ってました。
私は渡された譜面と練習用バック・ミュージックの入ったCDを持ち帰り、練習して次のレッスンでそれを見せる。
この作業の繰り返し。
譜面を渡す際には、彼が模範演奏をしてくれる。
私はレッスンを受ける時にはMDレコーダーを持っていって、回しっぱなしにしていた。
これは、最初に師事した菅野さんが「レッスンは録音しなくちゃだめ。録音してそれを家に帰ってから聴いて復習するんだ」と教えてくれて、それ以来ずっとそうしていた。
養父さんは初めて模範演奏をする時に、「このニュアンスで弾けるように努力して。録音してあるからいつでも確認できるでしょ」と言った。
私は自宅でそのニュアンスに近づくように練習するわけだが、彼の演奏が圧倒的にスムーズなので、真似しようと弾いていて自己嫌悪に陥ることがしばしばだった。
いま冷静に振り返ると、日本一と言えるほどの技量なのだから、真似できなくても仕方ないな。
あの時は必死だったからそうは思えなかったが。
彼が模範演奏をする時は、師匠として失敗するわけにはいかない場面だし、私が食い入るように彼の手元を見ているしで、独特の緊迫感がスタジオ内に満ちる。
だからだと思うが、たまにミス・トーンを出すんですよ。
そうすると演奏が終わった後に、平静を装っているが、少し気まずそうな申し訳なさそうな表情をする。
あれが可愛かったな。
私としては演奏のニュアンスとかリズム感を聴いているから、ミスしたかどうかはどうでもよかった。
彼のスタジオにアコギもあったから、何回目かのレッスンで「アコギでも仕事をしているんですか?」と訊いた。
すると「俺はアコギの専門じゃないけど、たまに仕事がある。アコギにはアコギのスペシャリストがいるんだけどね」との返事。
じゃあと少し弾いてもらったら、かなりの実力だった。
開放弦を活かしたお洒落なコードを使うんですよ。
私はアコギは弾いてなかったが、自宅に1本あるので、「アコギも少し教えてもらっていいですか?」と言ってみた。
OKが出たので、さっそく今弾いたお洒落なコードを教わった。
そうしてそのコード・ワークを家で練習するようになったが、聴くたびに「かっこいいなー、このヴォイシング」と思った。
アコギも奥が深いよねー。
開放弦をたくさん使うと、本当に美しい音で鳴り、弾いていてうっとりしてしまう。
養父さんとの交流(レッスン)は、まだまだエピソードがあります。
長文になったので、今回はここまでにします。
書き始めたら、思い出がどんどん湧いてきた。
もしかすると全3回の記事になるかもしれません。
エッセイのページに書いた方が良かったかな。
これは日記じゃないね。