教育勅語の危険性を学ぶ②
(2017.5.7.)

前回の日記では、日本が朝鮮を植民地支配していた時期に、朝鮮でどのような教育が行われたかを学びました。

そうして教育勅語の本質も、ある程度まで見えたと思います。

今回は、戦前の日本で教育勅語はどのように使われたのかを学びます。

教育勅語が現役バリバリの時、何が起きていたのか。

(以下は、しんぶん赤旗日曜版2017年4月16日号から抜粋)

教育勅語は、1890年(明治23年)に天皇の言葉として公布された。

丸浜昭(歴史教育者協議会)

「教育勅語が出た背景には、自由民権運動などで広がった、人権などの西洋思想に対する警戒があった。」

教育勅語には12の徳目が並ぶが、本質は12番目の「いったん緩急あれば義勇公に奉じ」にある。

この部分について、1891年に出た教育勅語の解説書『勅語衍義』では、こう説明している。

「国民たるものは、徴兵の発令に従いて己れの義務を尽くすを要す。

真正の男子にありては、国家のために死するより愉快なることなかるべきなり。」

勅語は12の徳目について、「以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」と結んでいる。

これについて『勅語衍義』は、「服従は臣民の美徳なり」と説明している。

教育勅語を子供に分からせるために重視されたのが、「修身」という科目だった。

小学校の修身の授業で、忠義を教えることについて、教師用の指導書にはこうある。

「天皇陛下のために一身を捧げて尽くすように心掛けさせるのを本課の目的とする」

浅井房子さん(87歳)

「教育勅語を、当時は全部覚えていた。

小学校では、元日や紀元節、天長節(昭和天皇の誕生日)や明治節(明治天皇の誕生日)に式典があり、校長先生が教育勅語を厳粛に読み上げ、生徒は直立不動で頭を下げて聞いた。」

明治天皇は1899年に、「教育勅語を唱歌にせよ」と命じた。

克忠克孝の歌は、「忠義と孝行は1つなり、尽くせ国の親なる君(天皇)のため」と歌われる。
結局は、天皇への忠誠心を植え付けている。

教育勅語は、戦後の1948年に衆参両院で、排除・失効の決議がされた。

その決議にはこうある。

「民主平和国家として教育の革新をはかっているのに、過去の文書の教育勅語が今なお指導原理のごとく誤解されている。

教育勅語の理念は明らかに基本的人権を損なっていて、国際信義に対しても疑念を残すから、排除を宣言する。」

ところが安倍晋三・内閣は先日に、「教育勅語を教材とすることを否定しない」との答弁書を閣議決定した。

そこで日本共産党は国会で、「憲法に違反しないで教育勅語を肯定的に教えることがあり得るのか」と質問した。

松野文科相は「政府が教材に教育勅語を推奨していることは全くない」と答弁し、教材として使う例は戦前の歴史を批判的に学ぶ場合しか挙げられなかった。

(※抜粋はここまで)

おまけとして、私の祖母(村本慶子)の証言も書きます。

いま93歳ですが、まだしっかりしていて記憶もはっきりしています。

ただし話したがりの人ではないので、証言の量は多くないです。

祖母

「私が通っていた小学校では、元旦などに教育勅語を聞かされた。

その時は、校庭の片隅にある教育勅語(の紙)をしまってある所(奉安殿)から、正装をした校長が運び出して読み上げ、生徒と教師は頭を下げて聞かされた。

内容は、最初の「朕オモフニ」と最後の「御名御璽」しか憶えていない。

当時は暗記していたかもしれないが、意味は分からなかった。

本心では教師も迷惑だったのではないか。

元旦の時は、校庭で教育勅語を聞かされた後、紅白まんじゅうをもらって解散したと思う。」

彼女は、気質的に「忠良の臣民」ではなかったです。

「男は戦争にいくから、女に生まれて本当に良かったと思っていた」とか、「敗戦の時、皇居にいって泣き崩れる人達がいたが、ああいう感覚は理解できなかった」と語りますからね。

祖母は子供の頃から数学が得意で、戦後になってから中学校で数学の教師を長くした人ですが、こんな事も話します。

「そろばんが必修科目の1つで、生徒の能力を上げる目的で小学校ではお昼休みに校内放送で問題が読み上げられ、それを生徒はそろばんを使って解いた。

私はいつも1番で、暗算も得意だった。」

昔は電卓もコンピュータも無かったから、そろばんの得意な人は重宝されたんですよねー。

文章を手書きで書くことも多かったから、書道の達人も重宝されました。

今だとコンピュータの得意な人に、代替してますね。

戦前・戦中と現在はすべてが大きく変わり、民主化が進められているのに、教育勅語を復活させる必要性は全くありません。

戦前のほうが良かったというのは、幻想ですよ。

まあ、自然環境が豊かで外に遊び場がたくさんあったとか、貧しい人々に連帯感や支え合いの精神があったとかは、昔のほうが優れていた点です。

そういう昔の本当の良さは、安倍晋三ら自称保守派はちっとも見直さないんだよなあ。

だから東京オリンピックを名目に自然環境を破壊して再開発し、東京一極集中をさらにひどくしているし、人々の連帯を高める労働組合を敵視しています。

東京オリンピックは、共謀罪の法案を成立させるために使われた時点で、汚れきってしまいました。
完全に政治利用されています。

なぜスポーツ界はそれに怒らないのか。

日本のスポーツ選手は政治に関心を寄せず、発言も自粛している感じが強いです。
でもそれじゃあ「スポーツで立派な人間を育てる」のも「スポーツで平和や差別撤廃に貢献する」のも出来ません。

スポーツ界は教育を重視しているけど、現状を見ると真の教育とは遠いですね。


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