日米政府の密約① 基地権の密約①
(2019.3.10~11.)

(『日本はなぜ、戦争ができる国になったのか』矢部宏治著から抜粋)

日米政府の「基地権の密約」は、最重要文書のほとんどを発掘したのは「密約研究の父」である新原昭治である。

彼は、日米の密約の背後に「基地権」が存在するのに早くから気付き、『在日米軍の持つ基地権が、現在でも占領期とほとんど変わってない事』を証明した。

新原の代表的な発掘文書は、次のものだ。

①在日米軍基地に関する極秘報告書  ②基地権密約文書、砂川裁判の関連文書

①の発掘で、1952年の日本の独立後も、占領期と同じに米軍の基地権が維持されたと分かった。

②の発掘で、1960年の安保改定後も、基地権が維持された事が分かった。

「在日米軍基地に関する極秘報告書」は、1957年2月14日に、東京のアメリカ大使館からワシントンの国務省に送られた報告書である。

当時、再選されたばかりのアイゼンハワー大統領は、世界中にある米軍基地について、大規模な実態調査を行っていた。
(この調査は、「ナッシュ報告書=世界の米軍基地に関する極秘報告書」にまとめられた)

「在日米軍基地に関する極秘報告書」に書かれた内容は、正に驚くべきものだ。

以下に、内容を一文ごとに分けて説明する。

① 日本国内における米軍の驚くべき特徴は、物理的な大きさに
  加えて、基地権の範囲の広さにある

日本が独立してから5年も経った1957年でも、日本国内には巨大な米軍基地が数多くあり、さらに法的権利が広く与えられていた。

② 安保条約の第3条に基づく行政協定は、アメリカが占領中に
  持っていた権利を保護している

日米行政協定は1952年2月に結ばれ、安保条約とセットになったもので、現在の「地位協定」に相当する。

③ 安保条約の下では、日本政府とのいかなる相談もなしに、
  極東の平和のためという理由で米軍を使える

旧安保条約の第1条や、新安保条約の第6条+密約により、在日米軍はどんな軍事行動も行えると定められている。

問題なのは、日本人の判断が関われない事だ。

シビアな日米交渉で、よくアメリカ側が「この方針は米軍の上層部が決定したので、日本政府が承認するかは問題ではない」と発言するのは、これがあるからである。

④ こうした基地の在り方は、もしも在日米軍が戦争に巻き込ま
  れたら、日本からの報復を引き起こす原因となるであろう

アメリカの公文書を読むと、外交官たちはこの心配をよくしている。

⑤ 行政協定の下では、新基地の条件を決める権利も、現存する
  基地を維持する権利も、米軍の判断に委ねられている

辺野古の新基地問題も、普天間基地などの危険性も、これが根底にある。

これは、米軍基地への反対運動に意味がないという事ではない。
反対運動で米軍の要求をくい止めながら、法改正していく必要がある。

⑥ 米軍基地についての日米政府の基本合意に加え、地域の
  主権を侵害する多くの補足的な取り決めがある

在日米軍が自由に行動すれば、当然ながら住民に被害を与える。
その事実を隠蔽し、合法に見せかけるために結ばれたのが、行政協定や地位協定である。

そして問題が(事件が)発生した時に密室で処理するためにつくられたのが、日米合同委員会である。

米軍ヘリが墜落したり、米兵が日本人を射殺したりすると、日米合同委員会が密談し、米軍に有利なように日本の法律を解釈し、合法化してしまう。

⑦ 非常に多くのアメリカ諜報機関の職員が、何も妨げもなく
  日本中で活動している

アメリカ政府の調査報告にこう書かれているのだから、諜報機関員が米軍基地を通って日本に入国しているのは確実だ。

⑧ 米軍人とその装備、家族なども、地元当局への事前連絡さえ
  なしに、日本に自由に出入りするのが正式に許されている

在日米軍基地の取り決めでは、自由な出入りを保障する条項が必ず入っている。

⑨ 日本国内で大規模な演習をし、軍用機が飛び回るなど、
  軍事活動が日常的に行われている
  それらは行政協定によって確立した基地権にもとづいている

どんな軍事活動をするかは、すべて米軍が決められる事になっている。

アメリカ本国では訓練が中止になったオスプレイが、日本ではどんどん配備されるのも、法的権利が確立されているからなのだ。

この報告書はまとめとして、「このような基地の在り方に対し、日本人は驚くほどわずかな抵抗しかせず、黙って受け入れてきた。だが終了させようという動きもある。だから重大な岐路にさしかかっている。」としている。

この報告が、3年後の安保改定を生む要因ともなった。

以上のように、新原昭治が発見した「1957年の極秘報告書」によって、日本が1952年に平和条約を結んで独立した後も、軍事占領が継続していた事が証明された。

次に「基地権の密約文書」である。

これは新原が2008年4月にアメリカ国立公文書館で見つけた。

1959年12月3日に、藤山・外務大臣とマッカーサー駐日大使によって合意された文書で、同じ文面で60年1月6日に両者がサインする事になったものだ。

この密約文書の最も重要な部分は、次のところである。

「在日米軍の基地権は、1960年1月19日に調印される協定(日米地位協定)の第3条1項の改定された文言の下で、(それまでの)日米行政協定と変わる事なく続く」

つまり在日米軍の基地権について、1960年の安保改定ではいっさい手をつけない事が密約されていたのだ。

戦後史を研究している末浪靖司は、著書『機密解禁文書にみる日米同盟』の中で、極秘電報をいくつも発掘している。

その電報を見ると、岸信介・首相と藤山愛一郎・外相は安保改定について、「裏でどんな密約を交わしてもよい、オモテの見かけが改善されればよい」との立場をとっていた。

話は1959年4月にさかのぼる。

その頃、帝国ホテルの一室で、岸の右腕だった藤山は、アメリカと秘密交渉を繰り返していた。

マッカーサー駐日大使から、ワシントンへ何度も電報が送られている。

「藤山は言いました。

 日本政府は、行政協定を実質的に変更するよりも、見かけの
 改善を望んでいると。

 その場合、圧倒的な特権が米軍に与えられ、実質的な改定には
 ならないでしょう。」

(1959年4月13日の電報)

「私は行政協定の実質的な変更を避けるよう、岸と藤山に圧力を
 かけ続けてきました。

 岸と藤山は我々の見解を理解しています。」

(1959年4月29日の電報)

岸首相が行った安保改定は、「条約期限の設定(10年)」や「内乱条項の削除」という改正もあったが、『基地権』については全てを継続させた。

つまり、国民が強く批判していて、岸は変えると約束していたのに、米軍の特権を密約によって続けたのである。

重要なのは、1960年の安保改定は『見かけだけだった』という事だ。

基地権の密約文書には、「日米地位協定の第3条1項」という文言がある。

これは非常に重要な条文だが、1952年に結んだ行政協定の第3条1項と内容が一緒である。
「アメリカは在日米軍基地の中で、何でもできる権力を持つ」とある。

さらに、行政協定の第3条1項の後半部分では、米軍が基地の外でも自由に動ける権利が書いてある。

「米軍基地の出入りの便利を図るため、隣接したり近傍の土地や海や空について、日米合同委員会の協議の上で法令の範囲内で必要な措置をとる」とある。

この条文があるから、横田、座間、厚木、横須賀といった首都圏の米軍基地は自由な出入り権を持ち、首都圏の上空全体を米軍が管理する(横田空域のこと)もできるのだ。

「日米合同委員会で協議する」と書いてあるが、これは『国民に見せられない問題については、アメリカ側の言う通りに密室で決める』という意味だ。

つまり、問題処理のために日本の法律を改定するか、法律の解釈を変えて対処するということだ。

もともと日米合同委員会は、そのために作られた闇の組織である。

1960年の安保改定は見かけだけのものなので、52年の旧安保条約と行政協定まで遡って条文を見たほうが、本質が分かる。

在日米軍の基地権の本質は、旧安保条約の第1条を見れば分かる。

「米軍を、日本国内およびその附近に配備する権利を、日本は許与する」とある。

重要なのは「配備する」と書いてあることで、単に駐留するだけではなく、そこから出撃するのを前提にしている。

しかも配備できる場所は「日本国内およびその附近」で、日本中どこでもいいと決めてある。

「その附近」とあるのは、米軍が日本国境を越えて自由に移動できることを意味している。

この内容は、1960年の安保改定でも全て受け継がれた。

重要なのは、『条文があるからといって米軍が何でも出来るわけではない』という事だ。

こうした取り決めは、(国民に隠した密約も使った上で)あくまで政治家のごく少数が合意しただけである。

だから、実際の場では不可能なのだ。

国務次官として沖縄返還交渉を担当したアレクシス・ジョンソンも、こう述べている。

「アメリカが条約上で自由を持っていても、相手国の国民がそれに敵意を持てば、条約上の権利を行使できない」

だからデモや集会や裁判は、非常に重要である。

けれども、それだけでは日米政府の取り決めを無効にはできない。

集会や裁判をしたり、選挙で良い人を当選させたり、国連で国際社会に訴えたりと、あらゆる手を使う必要がある。

日米政府が正式に交わした条約などの取り決めと、現実に起きている事(米兵の犯罪が見過ごされるなど)に落差がある場合、密約がある可能性が高い。

正式な条約や協定に入れなかった取り決めを、議事録や往復書簡(交換公文)のかたちにして、そこに日米の代表が署名して決める事がある。

岸政権による1960年の安保改定では、目玉として『事前協議制度』が宣伝された。

これは、在日米軍が装備の重要な変更をする時や、基地から他国を攻撃する時には、日本政府と事前に協議するという取り決めである。

しかし、「討議記録」と呼ばれる1959年6月の往復書簡のかたちをとった文書で、日米政府は密約していた。

そこでは、「重要な変更とは、核兵器の持ち込みや核兵器の基地建設を意味する。事前協議は、それ以外の変更や、米軍機の飛来、米軍艦の進入についての現在の手続きに影響を与えない。」と決めている。

マグルーダー原案(1950年10月にアメリカ国防省がつくった旧安保条約の原案)の第2項「作戦権限」には、次の条項がある。

① 日本全土が、米軍のための潜在的基地と見なされる
  (全土基地方式)

② 米軍司令官は、日本政府への通告後、軍の配備で無制限の
  権限を持つ(日本国土の完全自由使用)

③ 軍の配備の重大な変更(核兵器の配備など)は、日本政府
  との協議なしには行わないが、戦争の危険がある場合は
  その例外とする
  (事前協議制度の設定と、緊急時の完全自由行動)

この条項は、今もなお「日米地位協定+日米合同委員会+基地権の密約」という密約構造で現実となっている。

そして③は、日米政府の「核の密約」や「事前協議の密約」に繋がっている。


日記 2019年1~3月 目次に戻る