「国連軍だと思っていた米軍が実は違った」という詐欺①
ダレスの暗躍、国連憲章の例外規定
(2019.3.16~17.)

(『日本はなぜ、戦争ができる国になったのか』矢部宏治著から抜粋)

現在の日本における大きなねじれは、「世界最大の軍事力を持ち、世界中に出撃して違法な先制攻撃を繰り返す在日米軍」と「軍事力を持たない事を定めた憲法9条2項」の矛盾から生じている。

いま問題になっている辺野古の新基地建設も、辺野古の岬のとなりには巨大な米軍の弾薬庫があって、米軍は過去の日米密約によってそこに核兵器を持ちこめると考えている。

もし核兵器が持ち込まれてそこから飛び立った爆撃機が他国を核攻撃したとしても、今の日本では(安倍・自公政権が)合憲と判断してしまうだろう。

2015年3月のことだが、私の本をテレビで取り上げてもらった時、ディレクターの方が打ち合わせでこう言った。

「その『大きなねじれの話』ですけど、結局、米軍は国連軍だと思っていたら、実は国連軍じゃなかったという話でいいですか」

その言葉を聞いて、本質を見事に表現しているのに唖然とした。

そうなのだ。
「米軍=国連軍」であれば、米軍が国連憲章に基づく国連軍であれば、その指揮下に入ることは日本国憲法と矛盾しない。

「国連軍だと思っていた米軍は、実は国連軍じゃなかった」というのは、マッカーサー・モデル(日本の非武装中立+国連軍モデル)の崩壊プロセスとも言える。

朝鮮戦争が始まる2日前(1950年6月23日)に、ダグラス・マッカーサーは「6・23メモ」という覚え書きで、こう提案している。

①日本全土が、米軍のための潜在的基地と見なされねばならない(全土基地方式)

②米軍の司令官は、軍の配備で無制限の自由を持つ(日本国土の完全自由使用)

③日本人の国民感情に悪影響を与えないよう、米軍の配備における重大な変更(核兵器の配備など)は日米の協議なしには行わない
しかし戦争の危険がある場合はその例外とする
(事前協議制度の設定と。緊急時の完全自由行動)

この内容は、4ヵ月後に書かれる「マグルーダー原案」(日米安保条約の国防省原案)の基地権条項と同じである。

「日本の本土には絶対に米軍基地を置かない」と言い続けていたマッカーサーに、どうしてこんな変節が起こってしまったのか。

実はマッカーサーは前年(1949年)から、方針を転換し始めていた。

アメリカ軍部から、日本の本土に米軍基地を置き続けるのが平和条約を結ぶ絶対条件だと、強く求められていたからだ。

さらに日本政府も、米軍駐留の継続で動いていた。

吉田茂・首相は1950年5月に、側近の池田勇人・大蔵大臣をアメリカに派遣して、極秘メッセージを伝えていた。

「できるだけ早く平和条約を結びたい。その場合、米軍を日本に駐留させる必要があるだろうが、もしアメリカ側が言い出しにくければ、日本側からオファーしてもいい。」

このメッセージはマッカーサーへの相談なしに行われたもので、マッカーサーは自分の孤立を思い知らされたはずだ。

しかし、占領終結後も米軍が駐留すれば、「占領の目的が達成されたら、ただちに占領軍は日本から撤退する」と書かれたポツダム宣言に違反する。

マッカーサーはポツダム宣言を根拠に日本を占領してきたから、どうやって米軍駐留を続けるか頭をひねっていた。

そんなマッカーサーに知恵を与えたのは、ジョン・フォスター・ダレスだった。

ジョン・フォスター・ダレスは、国連憲章の執筆者の1人で、国際法を熟知するウォール街きってのスゴ腕弁護士だった人だ。

ダレス自身の説明によれば、1950年6月22日にマッカーサーと会談し、「国連憲章の43条と106条を使えばよい」とアドヴァイスした。(6・30ダレス・メモ)

国連憲章43条は、国連軍を実現するために、各国に兵力や軍事援助や便益を提供するための「特別協定」を国連安保理と結ぶことを、定めている。

ダレスは「6・30メモ」(50年6月30日付のメモ)で、こう書いている。

「日本と平和条約を結んだ後も米軍が駐留するには、国際社会の
 平和と安全のために行うと説明するのが望ましい。

 日本が国連に加盟したら(※この時点では日本は加盟して
 いない)、国連憲章43条が定めるとおり、安保理と特別協定
 を結んで、軍事上の便益を提供することが可能になる。

 ところが現在、特別協定は1つも実現していない。

 その場合、安保理・5ヵ国には106条によって、『特別
 協定が効力を生じるまでの間に限り、国際平和と安全のために
 必要な行動を国連に代わって行うこと』が認められている。

 だから日本は安保理・5ヵ国の1つであるアメリカと協定を
 結び、アメリカに軍事基地を提供すればいい。

 国連軍が実現すれば、それらの基地は国連軍の基地となる。」

ダレスはこう説いて、マッカーサーを納得させた。

ダレスは、「国連軍ができるまでは、国連憲章の暫定条項(106条)を使って、日本と特別協定のようなもの(安保条約)を結び、米軍基地を提供させればいい」と言ったのだ。

正にこの時、『国連軍のようで国連軍ではない』という在日米軍のコンセプトが誕生した。

ダレスは、ソ連との協調は絶対に不可能だと考えていた。

大国は自らの国益だけを追求するから、アメリカとソ連の協調は不可能だと、彼は考えていた。

この価値観を持つため、1944年10月に国連憲章の原案(ダンバートン・オークス提案)が発表されると、その理想主義を修正しようとした。

国連憲章の条文を決定したサンフランシスコ会議に、ダレスはアメリカ代表団の首席顧問として参加し、重要な決定や修正に関わった。

国連憲章の中で条文内に「ただし、〇〇するまでは××とする」という暫定的な例外規定が入っているのは、次の5つがある。

① 51条(自衛権、集団的自衛権)

② 53条(地域的取り決め、強制措置、敵国条項)

③ 80条(+77条・82条・83条)(信託統治制度、戦略地区、敵国条項)

④ 106条(安全保障の過渡的規定、五大国の任務)

⑤ 107条(安全保障の過渡的規定、戦後処理、敵国条項)

この中でダレスが執筆者であることが分かっているのは51条だけだが、他の4つもソ連との協調は不可能だというダレス的な世界観で修正されている。

修正パターンはいずれも「国連が正しく機能するまでの間」に限っての例外規定で、本来の条項を弱めたり無効化するものだ。

たとえば51条は、国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合に、
「安保理が必要な措置をとるまでの間」にかぎって「加盟国は集団的自衛権を行使できる」。

つまり限定された時間だけ、国連の許可なく戦争できる。

こうした意図的な例外規定は、「法的なトリック」だが、そのトリックの種明かしはダレス自身が行っている。

ダレスはアメリカ議会で51条について、こう説明している。

「国連安保理は、拒否権を持つアメリカの同意がなければ何も
 行動できない。

 だから軍事行動を、安保理を通じて行うか、それとも安保理の
 決議で反対票を投じて独自の軍事同盟に基づいて行うかは、
 アメリカが国益に応じて自由に選択できるのです。」
 (1954年7月13日のダレス発言)

ダレスは51条を使って、反共主義の軍事同盟を世界中に張りめぐらせていった。

「個別国家の戦争は違法」とした国連憲章の理念は、ダレスによる例外条項で弱められてしまった。

もともと占領軍(在日米軍)の目的は、ポツダム宣言に基づいて日本の軍事力を破壊した上で民主国家にする事だった。

そして目的が達成されたら平和条約を結び、ただちに撤退する事になっていた。

だが「6・30メモ」のロジックで、占領終結後も国連軍のような米軍に基地を提供することになった。

1950年6月に朝鮮戦争が始まると、アメリカは国連に働きかけて「朝鮮国連軍」を結成した。
(※別ページに経緯を書いてますが、この国連軍は正規の手続きによらないもので、正当な国連軍ではありません)

朝鮮国連軍の司令官になったのは、マッカーサーだった。
50年7月8日にトルーマン大統領が任命した。

マッカーサーは、自分が目指した「正規の国連軍」と「日本の非武装中立」を完全に否定するダレスの世界観の下で、「非正規の国連軍」の指揮を任されたのである。

はっきりしているのは、この時マッカーサーは自分が採ってきた日本の占領政策を完全に覆したこと。

彼は司令官に任命された7月8日に、吉田茂・首相へ手紙を出し、『7.5万人の警察予備隊の創設』と、『8千人の海上保安庁の増員』を指示した。

これは、朝鮮へ出動した在日米軍の穴を埋める措置だった。

日本政府としては、まだ米軍の占領下だから「ノー」は言えなかった。

マッカーサーの手紙ひとつで、事実上の軍隊の創設(再軍備)が、突然に決定してしまった。

マッカーサーは、1950年1月の年頭の言葉において、「日本には憲法9条があるが、自衛権は当然認められている」との見解を述べていた。

さらに「6・23メモ」(上述している50年6月23日のマッカーサーの覚え書き)でも、こう書いている。

「戦争を放棄した日本は、侵略的な攻撃に対しては自衛権をもつ。その場合、日本は自国の防衛に関わる保安隊を支援するために、すべての持てる力を結集することになるだろう。」

「6・23メモ」は、書かれたのが朝鮮戦争が始まる2日前なのに、開戦後の日本の戦争協力を予言したような内容である。

不思議になって調べたところ、ジョン・アリソンのメモに添付された資料だと分かった。

マッカーサーの「6・14メモ」も、アリソンのメモに添付された資料だった。

アリソンは、国務省の北東アジア局長だった人物で、ダレスの右腕として活躍していた。

さらに調べると、マッカーサーとダレスは50年6月26日に東京で会談し、「日本が国連に加盟するまで、日米は協定を結んで米軍基地を置き続けること」で合意したと分かった。

つまり、これまで開戦2日前に起こったとされたマッカーサーの方針転換(6・23メモ)は、実は開戦翌日にダレスと相談して行われた可能性が高い。

なぜこんな細工をしたのか。

それは、朝鮮戦争が始まった後にマッカーサーが180度の方針転換をしたと分かると、「沖縄に強力な空軍を置いておけば、アジア沿岸の敵軍は確実に破壊できる。だから日本に軍事力は必要ない。」と言ってきた彼が完全な間違いだと認める事になるからだろう。

マッカーサーは、自分の間違いを認めることが絶対にできない性格だった。無数の証言がある。

そこでダレスは、開戦翌日の26日にマッカーサーとの合意の上で「6・23メモ」を作った。

ダレスはこの後、「6・23メモ」に書かれた「全土基地方式」と「日本の戦争協力」をマッカーサーの意向として軍部に示し、対日平和条約に反対していた軍部を説得していった。

その結果、8月22日には軍部(統合参謀本部)も納得し、9月8日に対日平和条約の方針がトルーマン大統領によって承認された。

ダレスは対日だけではなく、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、台湾、タイ、パキスタンなどとも軍事協定を結んでいった。

ダレスが構築していった冷戦構造を思うとき、朝鮮戦争を始めた金日成の行動の悪影響にため息が出る。


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