(『日本はなぜ、戦争ができる国になったのか』矢部宏治著から抜粋)
1950年9月8日に、アメリカのトルーマン大統領は、対日平和条約(講和条約)に向けての10項目の基本方針を承認した。
この方針の中には、「(日米の)2ヵ国協定の条文は、国務省と国防省が共同で作成する」というものがある。
協定の条文は本来、国務省(外務省)が作る。
1951年の日米交渉の中で、アメリカ大使館のフィン書記長は「この協定(日米の安保条約)は平和条約(講和条約)と違い、国務省はすべて国防省の言う事を聞かなければならない」と苦しい実情を述べている。
この異常さは、軍部を説得する上で必要だったのだろう。
(アメリカ軍部は平和条約に反対の立場だった)
一方、日本政府は平和条約のための日米交渉が始まる4ヵ月前(1950年10月11日)に、安保条約の条文を作っている。
第1条
アメリカは国連のために、軍備を持たない日本の安全を確保する責任をもつ
第2条
国連が、日本に対する侵略行為が存在すると決定した時、アメリカはその侵略を排除するために、ただちにいっさいの措置をとる
日本は憲法の許すいっさいの援助と協力を行う
第3条
前条の目的のために米軍が日本に常駐することに、両国は同意する
第4条
在日米軍の経費は、アメリカの負担とする
ひょっとすると、今でもかなりの日本人が在日米軍についてこのイメージを持っているかもしれない。
これこそ正に「米軍=国連軍」というマッカーサー型の構想である。
残念ながら、このモデルはすでにアメリカ政府で失われていた。
アメリカ外交を牛耳ったジョン・フォスター・ダレスは、「アメリカがいかなる義務の負わずに、日本に米軍が駐留する権利を獲得すること」を目指していた事が、彼のメモから分かる。
日米の交渉が始まり、アメリカ側の安保条約の原案(マグルーダー原案)が示されると、日本の外務官僚たちはアメリカの意図をかなり正確に認識した。
外務省・条約局の者たちは、「駐留軍の特権があらわに表示されており、一読不快の念を禁じ得なかった」「むき出しの旧来の軍事同盟である」と批判している。
しかし、アメリカ側の提案どおりに決着した。
日米の安保条約は、1951年9月8日にサンフランシスコのオペラハウスで平和条約を結んだ後に、郊外の陸軍基地に日米代表が移動して、そこで調印した。
「安保条約は、平和条約を結んで独立を回復した日本が、その後に自らの意思で結ぶ」というフィクションを、ダレスは設定していた。
この安保条約は、日本国民はもちろん、吉田首相以外は代表団メンバーさえ知らされていなかった。
知らされたのは調印式の前日(9月7日)の夜11時で、だから代表団6人のうち2人は調印式への出席を拒否した。
つまり安保条約は、巨大な密約だったのである。
しかもこの条約にサインした後、吉田茂はさらにもう1つ密約を交わした。
それが『吉田・アチソン交換公文』、別名「国連の行動に対する日本の協力に関する交換公文」である。
当時に外務省の条約局長だった西村熊雄が書いた『平和条約の締結に関する調書』によれば、『吉田・アチソン交換公文』の始まりはアメリカ側が井口貞夫・外務次官を呼び出して、次のように告げた事だった。
「平和条約の成立後も、国連軍(米軍)が日本で行ってきた、国連軍の通過や物資の買いつけを、日本が認めて、朝鮮戦争で行動中(戦争中)の国連軍を支持する趣旨の、文書を追加したい」
西村は書いている。
「51年2月9日、わがほうは(その追加文書に)同意した。
占領下で日本が提供しつつある国連への協力は継続すべきで
あり、継続するには法的根拠を与える必要があったからである」
追加文書の核心部分は次のものだった。
「平和条約が発効した時に、もしまだ国連が朝鮮で軍事行動していた場合、日本は国連が国連軍を以前と同じ方法で軍事支援するのを可能にする」
重要なポイントは、文中に出てくる「国連」も「国連軍」も、実体は米軍だということだ。
(※当時はソ連は国連をボイコットしており、中国はまだ加盟していない)
「領土内の通過」や「物資の買いつけ」は、朝鮮戦争における米軍の兵站活動を意味している。
私たち日本人は忘れているが、当時の米軍占領下にあった日本は、戦争中の米軍に対し強力な兵站活動(後方支援)を行っていた。
官民一体となってフル回転で行っていた。
それを平和条約の締結後も継続しろというのだから、日本の独立をなんだと思っているのかと思う内容である。
しかし、この「国連軍への協力の要求」は、さらにエスカレートしていった。
1951年4月11日に、トルーマン大統領は最高司令官のマッカーサーを解任した。
マッカーサーの権力と一体化して政権を運営してきた、吉田茂・首相の受けた衝撃は大きかった。
GHQの政治顧問だったシーボルトは、「吉田は目に見えるほど動揺していた」と書いている。
マッカーサー解任を知ったダレスは、すぐにホワイトハウスでトルーマン大統領と面会し、東京へ向かった。
ダレスはアメリカ軍部が強く要求していた「追加文書の条文の変更」を、この機会に実現させようと考えたのだ。
ダレスは日本政府との交渉の初日(4月18日)の朝、スタッフ・ミーティングで「付属文書にわずかな変更をしたいと、吉田に知らせる」と述べた。
そして吉田らとの会議ではまず、イギリスが主張している厳しい対日平和条約案を話題にして、脅しをかけた。
その後にさりげなく「2月9日に合意した追加文書にわずかな修正を加えたい」と切り出した。
アメリカ側が修正を求めたのは、2ヵ所だった。
① 文中の「国連軍」を、「国連加盟国の軍隊」に変える
② 文中の「朝鮮」という地域の限定をなくす
これを行うと(上記した追加文書の核心部分は)、「平和条約が発効した時に、もしまだ国連が軍事行動していた場合、日本は国連が国連加盟国の軍隊を以前と同じ方法で軍事支援するのを可能にする」になる。
この変更によって、『吉田・アチソン交換公文』というモンスターが誕生することになった。
この変更が、朝鮮以外の場所でも戦争する米軍を、国連決議と関係なく日本は支援することに繋がってしまった。
ダレスがこの変更を提案した時、「修正する理由は、朝鮮以外に戦争が拡大することを想定しておいたほうがいいからだ。日本に反対されると困るのだが」と言った。
これに対し「日本側からオー・ノーという発言があって、全員が笑い出した」と西村熊雄の『平和条約の締結に関する調書』には書かれている。
残念ながら日本の外務官僚たちは(吉田首相も)、ダレスの提案が不平等条約に繋がると理解していなかった。
実務担当者だけで行われた3日後(1951年4月21日)の日米会議では、ジョンソン国防次官補がこう切り出した。
「現在の安保条約案の第3条は、米軍の駐留は日本の防衛だけを
目的とすると書かれている。
この表現だと、(米軍の占領下に残される)沖縄が攻撃
された時、在日米軍は軍事行動をとれないという誤解を生む
心配がある。
だから、米軍の駐留は日本の安全に貢献することを目的と
する、に修正したい。」
このときのことを西村は、こう書いている。
「熟慮の結果、支障ないと判断して同意した。
この点は、翌22日に目黒官邸で吉田総理に報告し、
追認を得た。」
しかしこの変更で、在日米軍の日本防衛の義務は曖昧になった。
1951年6月になると、ロンドンで米英による対日平和条約の最終協議が行われ、14日には最終案が確定した。
それから1ヵ月半後に、一部が変更された安保条約案が、日本側に一方的に交付された。
変更されていたのは5ヵ所で、大きなものは第1条の2ヵ所だった。
大きな変更の1つ目は、「日本はアメリカに、米軍が日本に駐屯する権利を与える」という部分を、「日本に(米軍を)配備する権利を与える」に変えたことだ。
配備になると、軍隊が単に駐留するのではなく、そこから出撃して戦争することが可能になる。
2つ目は、「極東条項の追加」と呼ばれる有名な変更で、「米軍の駐留は日本の安全に貢献することを目的とする」という部分が、こう変わった。
「駐留米軍は、極東における国際平和の安全の維持ならびに、日本の安全に貢献するために使用することができる」
「極東」という言葉が入ることで、在日米軍の行動範囲に日本という縛りがなくなった。
さらに「使用することができる」へ変更する事で、米軍の日本防衛義務が消滅した。
「使用できる」というのは、「しなくても構わない」ということである。
日米が最初に合意した条文では「駐留米軍は日本の防衛だけを目的とする」と書いてあったのを考えると、完全な詐欺に遭ったと言っていい。
ここで、『吉田・アチソン交換公文』の解説に入る。
これは吉田茂とディーン・アチソンが(1951年9月8日に)署名して交換した公文である。
冒頭で、日本が平和条約の発効と同時に、「国連のいかなる行動についても、あらゆる援助を与える」義務を受諾した(平和条約・第5条)ことが確認されている。
重要なポイントは、この時点では日本はまだ国連に加盟していない事だ。
日本が国連に加盟したのは1956年である。
つまり、国連憲章にもとづく権利や保護を受けられない段階で、非現実的な義務だけを負わされている。
これはダレスの得意とした法的トリックで、相手国を法的保護のない宙ぶらりんな立場に置き、好き勝手なことをやってしまう。
交換公文の第2節では、「日本はこれまで最高司令官(マッカーサー)の承認を得て、自発的に国連軍(米軍)を援助してきた」という完全な虚偽が述べられている。
実際には、日本はアメリカに占領されていて、GHQの指示に従っていたにすぎない。
その象徴的な行動が、在日米軍基地を守るための警察予備隊の創設であった。
それなのに「日本は援助を自発的に与えてきた」ことになっており、「今後も同じ事を続けるだけだから大した問題ではない」という論理構成になっている。
最大のトリックは第3節にあり、日本が国連憲章に基づいて援助する義務を負う相手とは、「極東で国連の行動に従事する国連加盟国の軍隊」でさえない事が分かる。
「極東で国連の行動に従事する国連加盟国の軍隊」を軍事支援する国連加盟国、に対してだと書いてある。
ここでのトリックは、「支援される国連加盟国の軍隊」も「支援する国連加盟国」の軍隊も、どちらも米軍だということだ。
ダレスがなぜインチキな論法をするかといえば、国連軍の名の下に日本に戦争支援の義務を負わせながら、国連からの拘束をうけずに米軍が戦争を行うためであった。
この吉田・アチソン交換公文によって、在日米軍の自由な軍事行動に、日本が支援・便宜をはかることになってしまった。
インチキな概念操作をして、「国連と関係のある軍事行動をする軍隊(米軍)」を「軍事支援する国(アメリカ)」への援助を、日本はするという間接的なイメージにし、憲法問題を回避しているのである。