敗戦後の軍政面の大まかな流れ②
アメリカの圧力で再軍備が進められる
(2019.4.6&8.)

(『日米同盟はいかに作られたか』吉次公介著から抜粋)

朝鮮戦争に中国が(北朝鮮側で)参戦すると、米軍の統合参謀本部(JCS)は、1951年2月に、現在4個師団の警察予備隊を10個師団に拡大する方針を打ち出した。

このJCSの提案は、5月にハリー・トルーマン大統領の承認を受けた。

51年9月に行われた対日の講和・安保条約の調印の直前、マシュー・リッジウェイ連合国最高司令官はアメリカ陸軍省に、「(日本の)片面講和は極東の緊張を高めるため、日本の安全保障について早急な行動をとる必要がある」と進言した。

マシューは9月26日には、「改憲を伴う警察予備隊の軍隊化は容易ではない」として、段階的な警察予備隊の拡張計画を立てた。

それは30万人の陸軍にするのを骨子とし、52年に15.6万人、それ以上の増員は状況を見て53年から着手するというものだった。

連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本側との交渉に備えて「警察予備隊の拡張計画」を作成した。

それは53年末までに30万人に増員するのを目指すものであった。

アメリカが早急な日本再軍備を望んだのは、在日米軍の削減を計画していたからでもあった。

1952年時点で26万人もの兵力が日本に駐留しており、財政負担となっていた。

アメリカ側は日本の政治情勢では改憲が難しいと理解し、憲法改定を求めずに、憲法問題を棚上げしたまま兵力を増やすよう求める事にした。

警察予備隊の増強についての日米協議は、52年1月5日の吉田茂・首相とマシュー・リッジウェイの会談から始まった。

1月22日に行われた、吉田茂の私的軍事顧問である辰巳栄一・元陸軍中将とドイル・ヒッキー参謀長の会談で、ドイルは「数年以内に10個師団、32.5万人を整備してくれ」と要求した。

辰巳栄一から報告を受けた吉田茂は、「日本の国力や経済状態に応じればいいのであり、32万人なんてとんでもない」と拒否した。

結局、52年1月23日に、池田勇人・蔵相は「52年度に11万人に増員する」と発表した。

GHQ/SCAPは吉田政権に圧力をかけ続け、吉田茂とリッジウェイの協議で「53年度に13万人」で妥協が成立した。

52年8月には保安庁が設置され、10月には陸上兵力の保安隊と海上兵力の警備隊が発足した。

警察予備隊も徐々に重火器を装備するようになった。

保安隊は、戦車や航空機を持ち、旧軍人を大量に採用した。

吉田茂は保安庁幹部を前に、「保安庁は新国軍建設の土台である」と訓示した。

アメリカは、保安庁が将来の防衛省の土台となること、要求されたら米軍を支援すること、できるだけ早く日本の陸上防衛の責任を完全に負えるようになること、を期待した。

1952年はアメリカ大統領選挙の年で、共和党のドワイト・アイゼンハワーが勝利した。

ドワイトは大統領に就任すると、新しい外交戦略「ニュー・ルック」を構築していった。

これは朝鮮戦争の戦費による財政赤字を圧縮しつつソ連への抑止力を維持するため、核兵器を増やしながら通常兵力を削減するものであった。

軍事費を減らすために海外展開している米軍の削減を考えたアイゼンハワー政権は、日本の再軍備を促す梃子としてMSA法に基づく対外軍事援助、即ち「MSA援助」を活用しようとした。

MSA法は、援助を受ける国が軍事的義務を果たすことを規定しており、日本が援助を受けるなら再軍備を加速させねばならなかった。

53年3月にアメリカの国務長官となったジョン・フォスター・ダレスは、MSA交渉を日本と行い戦力増員の秘密協定を結ぶ方針を決めた。

アメリカ政府は、18万人という目標に焦点を合わせることにした。

この頃日本では、吉田政権が「アメリカに従属している」と国民から批判されて、それまでの「対米追随」から方針転換し、「独立の完成を目指す」と言い始めていた。

内灘事件に象徴される在日米軍と住民の軋轢や、ビキニ環礁におけるアメリカの核実験で日本の漁船が被爆した第五福竜丸事件で、日本国民の反米感情が盛り上がっていた。

反米感情を鎮めつつ野党の攻撃をかわすために、吉田茂は「独立の完成」を掲げたと思われる。

茂は、防衛力の強化が独立の完成に繋がるとして、アメリカからのMSA援助を歓迎した。

(※アメリカから独立するために、アメリカから軍事援助を受けるというのは、どう考えてもおかしく、論理として破綻している)

MSA援助の日米交渉は、1953年7月から始まった。

交渉の一つの山場は、10月の池田勇人とロバートソンの会談である。

吉田の懐刀である池田勇人・自由党政調会長が訪米し、ウォルター・ロバートソン国務次官補と会談した。

アメリカ側は、「MSA援助額は日本の再軍備の規模によって決まる」との態度を貫き、「中間目標は18万人、最終目標は30万人の陸上部隊」を求めた。

これに対し池田勇人は、56年度末までに18万人にする「池田私案」を提示した。

この会談については、多くの研究者が30万人を求めるアメリカの要求を勇人がはねのけた成功例と解釈している。

だがアメリカ政府にとって大切だったのは速やかに18万人に増やす事だったのである。

だからむしろ、アメリカの要求を受け入れたと考えるべきだ。

MSA交渉は続いたが、アメリカ側は54年度に陸上部隊の3万人増員を強硬に主張した。

日本側は当初の予定から6千人を上乗せし、3万人増員に同意した。

この合意が得られた後、ようやくアメリカ側はMSA援助の内容に関する話し合いに応じた。

54年3月に、供与する兵器が決まり、相互防衛援助協定(MSA協定)が日米で調印された。

この頃になると、吉田政権は求心力を低下させていた。

吉田茂のワンマンぶりや対米追随への批判が高まり、53年3月の「バカヤロー解散」後には鳩山一郎が分党して「分派自由党」を名乗った。

鳩山一郎は、吉田政権の対米追随に不満を募らせ、憲法問題を棚上げにしたままなし崩しの再軍備を進めるのではなく、憲法を改正して軍隊を創設しようと考えていた。

もともと鳩山一郎は、1946年に日本自由党の総裁として総選挙に勝利したが、GHQ/SCAPによって公職追放の処分となり、首相になれなかった。

この時に彼は、自らの後継者として吉田茂を選んだ。

だから彼は、「自分が政界に復帰したら吉田が身を引くとの約束が成立している」と信じていた。

だが鳩山一郎の公職追放令が解除されてからも、吉田茂は首相に居座り続けた。

「吉田に裏切られた」との気持ちが、一郎を反吉田にした一因なのは間違いない。

さらに吉田政権に追い打ちをかけたのは、53年4月の総選挙で負けたことだった。

自由党は222から199に議席を減らし、少数与党として組閣したが、改進党との協力を模索する事になった。

A級戦犯として有罪判決を受けた重光葵・元外相が率い、再軍備に積極的な芦田均・元首相らを擁する改進党は、憲法改正・再軍備を政策の柱としていた。

53年9月27日に、吉田茂と重光葵の会談が開かれた。

ここで両者は、「駐留軍の漸減に即応する自衛力増強の計画を立てる」と同時に「保安庁法を改定して保安隊を自衛隊に改めること」で合意した。

かくして54年7月に、防衛庁と、陸海空の三軍体制をとった自衛隊が発足した。


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