敗戦後の軍政面の大まかな流れ③ 鳩山政権の自主独立路線
(2019.4.8.)

(『日米同盟はいかに作られたか』吉次公介著から抜粋)

1954年11月に、いったん自由党に復党していた鳩山一郎の一派が、再び自由党から離れた。

そして改進党と一緒になり、日本民主党が作られた。

総裁は鳩山一郎、幹事長は岸信介という布陣である。

日本民主党が結党にあたって掲げたのは、自主外交の展開、憲法改正、自衛軍の創設と米軍の漸次撤退、安保条約の双務的なものへの改正であった。

日本民主党は、ひと月も経たぬうちに政権の座を手に入れる。

54年12月に造船疑獄事件などで吉田内閣が総辞職し、第二党の日本民主党に政権が回ってきたのである。

鳩山は、首相指名時に「早期に解散を行う」と左右社会党と合意していたため、すぐに解散・総選挙に打って出た。

55年2月に行われた総選挙では、吉田政治に飽いていた国民の間で「鳩山ブーム」が起き、日本民主党は185議席で第一党に躍進した。

ただし単独過半数には届かず、少数与党内閣として困難な政権運営となっていく。

鳩山政権は、ソ連との国交回復や、国連への加盟を目指す、自主外交を展開した。

再軍備に関しては、55年3月に「防衛六ヵ年計画」を作成したが、60年度までに陸上自衛隊を18万人にして、在日米軍の地上部隊は完全撤退させることを計画した。

この時期、20万人もの米軍が日本に駐留しており、各地で問題を起こしていた。

元駐米大使の安川壮が証言しているように、「対米自主」を掲げて日ソの国交回復に邁進する鳩山政権に、アメリカ政府は不安感を抱いていた。

1955年8月に、重光葵・外相は訪米して、日米安保条約の生みの親というべきジョン・フォスター・ダレス国務長官と会談した。

重光の目的は安保改定の打診で、こう告げた。

「安保条約の前文に表明された米国の期待に応ずるよう努力してきた。

 日本の防衛力増強に伴い、米軍を日本から逐次撤退させたい。

 今や日本は、NATOやSEATOの国の軍備を凌駕する軍事力を有している。
 それを鑑み、現在の一方的な安保条約に代わる双互的な新条約を締結したい。」

だがダレスは、「安保改定は時期尚早である。防衛力をさらに増強し、自由諸国との協力に貢献しうるようになった時に行うべきだ。」と反駁した。

食い下がる重光に対して、ダレスは「日本は未だ相互防衛の能力がない」と言い放ち、「自衛力が完備して憲法改正すれば安保改定が可能になる」と言った。

重光は粘り続けて、「我々は平等を欲する」とダレスと激論を交わしたのであった。

実のところダレスは、重光が提案する新条約によって在日米軍基地の使用が制限される事を恐れていた。

さらに日本国憲法が自衛隊の海外派遣を禁じていることを重く見ており、日本と相互防衛条約を結ぶなど論外であった。

この重光=ダレス会談に関して特筆すべきは、裕仁(昭和天皇)の動きである。

重光は当初、在日米軍の全面撤退を提案しようとしていた。
だがそれに裕仁が反対したのである。

重光は訪米に出る3日前(8月20日)に裕仁に内奏したが、こう言われた。

「日米協力は反共のため必要だ。駐屯軍の撤退は不可だ。」

ダレスとの会談で重光が米軍の全面撤退に触れなかったのは、裕仁の意向もあるだろう。

裕仁は、重光訪米後も日米関係の安定に動いている。

56年2月17日には、ワシントンへの赴任を控えた谷正之・駐米大使に対し、
「アメリカの軍事的・経済的な援助が、戦後日本に重要な役割を果たしてきたことに深く感謝し、援助が継続されることを希望する」とのメッセージを伝えるよう命じた。

ワシントンに到着した谷は、ダレスらと会談してこのメッセージを伝えた。

ダレスは、メッセージをアイゼンハワー大統領に伝える事を確約した上で、
「天皇が果たしている目立たない、しかし重要な役割」に触れ、「良好な日米関係に天皇の影響力は重要である」と応じた。

アイゼンハワー政権は、1955年4月に決定したNSC5516/1で、「日本に対しては、政治・経済の安定を阻害してまで軍事力を増強するよう圧力をかけるのは避ける」との方針を定めた。

その理由は、内灘事件や第五福竜丸事件により、日本で中立主義と反米感情が拡がっていて、無理難題を突きつけると中立に向かう可能性があったからだ。

ちょうどこの時期は、55年7月に米ソの首脳会談が10年ぶりに開催されるなど、世界に「雪解け」ムードが広がっていた。

だがアメリカ政府は、雪解けが日本再軍備のペースを鈍らせることを危惧し、鳩山政権に圧力をかけ続けた。

この時期は、日本の政界では保守勢力が分裂していた。

ダレスは重光との会談で、「保守合同を急ぐべきである」と示唆した。

ダレスに言われるまでもなく、社会党に勝つには保守合同すなわち自由党と日本民主党の合併が不可欠だった。

反目してきた自由党と日本民主党の合併は平坦な道のりではなかった。

だが55年10月に左右統一を果たした社会党に対抗すべく、11月に合併が実現した。
こうして自由民主党(自民党)が誕生した。

かくして日本の政治は、親米の自民党と、非武装中立の社会党が対峙する、「55年体制」の時代を迎えた。

自民党になって鳩山政権の基盤が強化されてからも、再軍備のペースは加速しなかった。

保守合同後も、アメリカが軍備増強を求め、日本がしぶしぶ応じるという構図に変化はなかった。

〇村本のコメント

『日米同盟はいかに作られたか』では全く言及されていないのですが、アメリカが同盟国などに軍備増強を求めるのは、「自国の兵器を売りたいから」という理由があります。

アメリカは世界最大の兵器輸出国で、兵器が主要な輸出品の1つです。

現在の安倍政権も、過去の自民党政権たちも、対米黒字の解消策としてアメリカ政府から兵器購入を要請され、受け入れてきました。

この兵器購入に絡んで、汚職も行われてきた。それが自民党の利権の1つなのです。


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