「なぜ日本は変われないのか」の勉強①
官憲主義と全体主義の違い
(2020.7.8~9.)

前回の日記に続いて、私の近況報告②を書こうと思っていたのですが、予定変更しました。

勉強したノートの整理作業のため、先に、山本七平さんの著作『なぜ日本は変われないのか』の抜粋紹介を行うことにします。

今年の1月21~22日の日記では、松本清張を取り上げましたが、その時に「山本七平は凄い作家だ」とも書いて、『なぜ日本は変われないのか』をこのウェブサイトで取り上げると予告しました。

実行する時がきました。

『なぜ日本は変われないのか』は、1975~76年の論文をまとめたものです。

当時の状況を基準に書かれてますが、半世紀近く経っているのに、全く古びてない。

私は、山本七平は戦後最高の日本作家の1人だと思います。

なお、『なぜ日本は変われないのか』の内容のうち、「日本史の勉強」のページに入れたほうが良いなと思った「天皇機関説の排撃」を論じた部分は、すでに日本史の勉強→日中戦争の所に載せています。

(※以下は『なぜ日本は変われないのか』の抜粋になります)

正統と異端という分類は、その区分に人々が何も不審を感じなくなった時に、対象を見えなくさせ、一切の探究を不可能にさせる。

従ってこの分類を行うと、そこに学問はない。

キリスト教史は、非常に長い間、正当と異端の分類に固執し、不毛の議論を重ねてきた。

その間の多くの著書が、「学問」に属するものでなかった事は、言うまでもない。

1911年にH・ジョルダンという学者が、キリスト教史について、正統・異端・正典・外典・偽典という枠を取り払い、著作者による区分も行わずに、各作品の内容だけで分類をした。

この行き方をした時に初めて、学問としての聖書学もキリスト教学も確立し、西欧は自らの精神史を客体視できたのであった。

今の日本に要請されているのは、同じ作業ではないか。

現在の日本人を呪縛している区分である、右翼・左翼、民主主義・全体主義、戦前・戦後、共産主義・新左翼などは、正統と異端の区分である。

そこから出て、新しい観点から分類し、それを出発点にできないか。

そもそも「民主主義」に対立する、「全体主義」「独裁制」「非民主的」は同一概念だろうか。

異端の烙印を押されている「全体主義」などを、詳しく見る(解析する)必要があるだろう。

政治学者のR・ゲイルは、人々が「全体主義」と規定する状態は、「官憲主義」と「全体主義」に分けられ、この2つは両極端を成すと説いている。

現在は、この2つを一括して「民主主義」と対置するため、逆にその実態が見えなくなっていると彼は言う。

R・ゲイルによれば、「官憲主義」とは『統治集団に属さない国民は、すべて非政治化されるべき』とする主義である。

従って、政治に関係なき限り、すべての自由は保障される。
言論・表現・信教・職業選択といった自由は保障され、財産権も保障される。

ただし国民は、政治には関わらずに、特定の集団に委任しなければならない。

「全体主義」は、これと全く逆になる。

『すべての人間は政治的存在である』とされ、「私は政治に関係ない」と言うことは許されない。

だから評論や小説や芸術作品、服装や言葉使いまでも、政治的な判断の対象となる。

それは、究極的には国民全体を1つの政治思想で統括するものだ。

以上の両極端を、全体主義とか独裁制という言葉で一括してしまうと、官憲主義と全体主義が「統制の程度の差」と誤解されてしまう。

確かに双方とも統制はあるが、重要なのは方向性である。

ここを理解しないと、「韓国の朴正煕・政権は独裁だ独裁だと言うけれども、中国よりは自由がある」といった言い方になる。

朴政権は官憲主義であって、「国民が非政治化している限り、言論は自由」という立場だ。

文化大革命の下にある中国は、官憲主義を全体主義で追放しようとする世界である。

そこは、すべてが政治的な対象とされる世界であって、文学作品が非政治的であればあるほど(単なる娯楽作品なほど)断罪される。

劉少奇は、江青(毛沢東の妻)らから「文学・音楽・演劇などを極力、非政治化しようとした」と非難を浴びた。

全体主義下では、音楽家が「どんな政権ができようと音楽活動に専念していればよい」と考えるのは、罰せられるのである。

以上を整理すれば、官憲主義は「非政治的な音楽なら問題にされない」世界であり、全体主義は「非政治的な音楽はそれゆえに断罪される」世界である。

全体主義は、「非政治性」という「逃げ道」を一切ふさいで、1つ1つを検討し断罪していく形になる。

これは、「国民の総政治化」とも表現できる。

なお、第二次大戦で敗戦した後の日本は、一貫して「官憲主義=国民の非政治化」の方向であり、それが一種の思想的な空白を生み、対極から(反対派から)「全体主義=国民の総政治化」を招来していると思う。

中国の文革派(文化大革命の賛成派)が攻撃した、「資本主義の道を歩む一握りの実権派(劉少奇派)」と何か。

劉少奇が本当に資本主義を目指したと信じている者は、知的レベルの低い人々だけであろう。

しかし、劉少奇も毛沢東も同様の全体主義者で、文革は単なる権力闘争と見るのも、誤りである。

つまり、劉少奇の路線は官憲主義・非政治化路線であり、毛沢東の路線は全体主義・総政治化路線なのだ。

そして劉路線は、きわめて中国で伝統的なものである。

中国では、士大夫(知識階級や官職者)が政治を担い、他は非政治化されてきた。

だから、これに対抗するには、文化の革命が要請されるのだ。

官憲主義でいま安定しているのが、台湾である。

台湾では、中国大陸から来た外省人(蒋介石ら)が統治集団を形成し、台湾人は非政治化され、非政治的な面における自由は保障されている。

これを見た場合、統治集団を「一握りの実権派」と規定した文革派は、正しい規定をしたと言える。

「一握りの実権派」という言葉の内容は、R・ゲイルのいう「官憲主義者」とほぼ一致する。

実は、中国における毛沢東路線と劉少奇路線の闘争と極めて類似したものが、戦前の日本でも起きていた。

それは「天皇機関説の論争」を通じた闘争である。

この闘争は、最終的には天皇機関説の代表的な論者だった美濃部達吉の著作『憲法撮要』が発禁処分となって結着した。

しかしこの著作は、それまで長い間、日本の統治集団の基礎となったもので、天皇制の教科書みたいな存在だったのである。

天皇機関説を批判した軍人らは、社会が公認していた書を批判したのだから、公認した機関への政治闘争をしたのだ。

戦後はこの点が歪曲されて、まるで政府が言論の自由を弾圧したように一般に記されているが、事実ではない。

なにしろ美濃部達吉は、典型的な天皇制・権力機構の知的エリートで、勅選の貴族院議員であり、華族に準ずるような地位に居た人である。

従って、「批判された」からといって、彼を民主主義者であったと定義づけるのは、劉少奇を「自由主義者で資本主義を目指した」と定義するぐらいに滑稽な事である。

要するに天皇機関説の闘争は、両者とも天皇制の絶対護持なのであって、共産主義絶対で同一の毛路線と劉路線の闘争と差はない。

そして文化大革命と同じく、天皇機関説の闘争も教育機関とそれを代表する知的エリート群への攻撃として始まった。

ここで、私の戦前・戦中の体験を振り返ってみたい。

日本では戦前・戦中にストライキは禁止されていたと、今の若い人たちは思っているが、そうではなかった。

1932年3月20日、満州国の建国宣言の20日後にも、地下鉄のストが起きている。

4月にはトーキー映画に反対する活弁楽団のストもあった。

私の小学校への往復時も、通学の電車で「中将湯」という婦人薬の製造会社の長期ストを毎日のように見た時期があった。

そのストの風景は、赤旗の林立、鉢巻き、労働歌の合唱と、戦後と少しも変わらなかった。

他にも印刷工、特に植字工などのストは珍しくなかったという。

従って、日本にストが存在しなかった期間は、おそらく1935~45年までの10年間にすぎない。

戦後になって、「戦前にはストは許されなかった」と信じられるようになったのは、官憲主義と全体主義を混同しているからだろう。

官憲主義は、非政治化した純経済的なストには干渉しないのが当然なのだ。

むしろ非政治的なストが発生すれば、政府が糾弾されるのが官憲主義の社会である。

これと同じように、戦前の教育がすべて軍国主義と国家主義的な全体主義であったと考えるのも、誤りである。

私が受けた教育は、1933年ごろまでは官憲主義の教育で、その目的は非政治的な人間を養成することであった。

この傾向は年と共に強くなっていったが、1933年ごろに一挙に「文化大革命のような逆転」が行われたと思える。

考えてみれば、明治政府は典型的な官憲主義だった。

西南戦争で反対派(西郷隆盛ら)を倒して、藩の非軍事化を達成すると、軍隊の非政治化が計られた。

軍人勅諭に記されている事は、要約すれば「軍隊は非政治化すべし」である。

非政治化は国民に対しても進められ、明治憲法の言論や思想の自由の保障は、要約すれば「政治に関連なき限り、言論・信教・思想・表現の自由は保障する」である。

教育勅語も、言外にあるものは「義務教育では一切、政治教育をしてはならない」であろう。

政治的な部分は、「一旦緩急あれば義勇公に奉し」だが、これは「非政治化した日本軍の忠実な一員であれ」ということだ。

さらにいえば、戦前の国民を律していた道徳律は、徳川政権期に完成したものであり、戦後になると「封建的」と糾弾されたものだ。

その徳川期の規範は、もちろん人々を非政治化するものだ。

文部省に思想局が設置され、政治思想の教育と義務教育が関係づけられたのは、1934年である。

思想局が設置された頃、私のような小学校の上級生にもはっきりと分かる、教育の転機があった。(官憲主義から全体主義への大転換があった)

それまでの修身は、明らかに「国民の非政治化・伝統的な道徳教育」が目標で、端的に言えば「ノンポリシー、職務専念型」の養成が目的であった。

従って、今では不思議に思われるかもしれないが、「日露戦争を知らずに研究に没頭していた学者」や「銃声に動揺する生徒を抑えて勉強に専念させた福沢諭吉」は、修身の材料だったのである。

後の「時局の傍観は許されない」という教育と全く対立するが、当時を考えると為政者の意図があったのだ。

1928年の赤旗の刊行、翌年の日本プロレタリア美術家・映画・作家同盟の創立、30年の日本教育労働組合(非合法)の結成など、共産主義が攻勢をかけていた時期だった。

33年には長野県で「赤化教員事件」(検挙者138人、65校におよぶ)があって、それが教育界には思想にタッチさせないという姿勢にしたのだろう。

当時、登下校の心得として、両親から(学校からの通達があったのだろう)「知らない人からビラを配ってくれと頼まれても絶対に配るな、すぐに交番に届けなさい」と厳しく注意された事があった。

非政治化の教育はますます徹底して、政治的なものに一切触れさせない所まで来たのだ。

(※当時は日本共産党は非合法にされており、自分たちでビラを配ると逮捕されるので、
 子供に配らせようとする試みもあったのでしょう)

共産主義の台頭は、かえって官憲主義による国民の非政治化を押し進めた。

それが後に、軍部を焦らせた「時局への無関心」「時局の傍観者」を生み出す素地となったわけだ。

このような「官憲主義・国民の非政治化」の世界に、独裁者が登場し得るだろうか。

答えはもちろん「否」である。

ムッソリーニもヒトラーも、その登場には「政治的な言論の自由」を必要とし、その言論に対応し得る高度に政治化した民衆を必要とした。

両者は共に、民衆の支持と投票で国会に登場し、政権を獲った。

合法的に世論の支持で出現したのであって、非合法の武力で政権を奪取したのではない。

従って、「政治的な無関心が全体主義を生む」という戦後の定説は、事実ではない。

本当に人々が政治に無関心ならば、ムッソリーニの天才的な文筆にも、ヒトラーの魔術的な演説にも関心が行かないはずだ。

ムッソリーニにもヒトラーにも、情熱的な党員がいた。

国民が昭和はじめの日本の如くに非政治化し、政治家がどう演説しても運動員が情熱的に運動しても関心を示さない状態ならば、いかにムッソリーニでもヒトラーでも手が出せない。

その後の日本の全体主義化は、「議会を舞台にして」行われたものではない。

つまり、日本の全体主義と西欧の全体主義は、あくまで別種である。

通常、「ファシズムは議会を無力化した」と非難されるが、ムッソリーニの場合もヒトラーの場合も、議会は彼らの登場前から無力化していた。

ここで、塩野七生の記すムッソリーニ登場前のイタリアの情況を紹介する。

「ジャーナリストのレオ・ロンガネージは、次のような母の言葉を書いている。

 『ムッソリーニになったら、自由はなくなるだろうよ。だけど郵便はちゃんと
  届くし、汽車も遅れないし、役所は親切になるし、その辺の店の店員までが
  ごまかさない様になったんだから。』」

ムッソリーニの登場までは、すべてが混乱しきっていたのだ。

塩野七生は次々とイタリアの混乱を記しているが、それは日本では無縁であった。
汽車の運行は世界一正確で、郵便も必ず届いた。

要するに日本社会は、「自由を犠牲にしてでも、この混乱を秩序立ててほしい」と人々が考えている状態ではなかった。

むしろ日本はその逆で、秩序はきわめて整っていたが、自由は厳格に制限されたいた。

だから、当時の日本にムッソリーニが登場する余地はない。

ところが当時、日本ではムッソリーニの人気は圧倒的で、「最も尊敬する人物」の第1位であった。

マスコミにおける高評価は、文化大革命の時の毛沢東に匹敵する。

2人は共に社会主義者で、文筆家でもある。

日本のマスコミが歪曲して報じたムッソリーニと毛沢東の像は、非常によく似た面がある。

当時の日本人は、ムッソリーニを「政治の混乱を官憲主義で収拾した大政治家」と見た。

「国王のために、強力な官憲主義の政府によって、混乱を終わらせて秩序を打ち立てた人」と高評価したのだ。

ムッソリーニの伝記が日本の少年誌などに載ったが、それらを調べると同一類型化されている。

「社会主義者として成長したが、その誤りに気付き悟って、愛国正義団(これが当時の
 ファシストの訳語)を組織し、30万人の黒シャツ隊を率いてローマに進軍した。

 政府は迎え撃とうとしたが国王の拒否にあい、狼狽した政府はムッソリーニに譲った。

 こうして無血のローマ入城と新政府の樹立をみた。」

なにやら「官軍の江戸入城」の様だが、これが当時の日本人によるムッソリーニ像である。

こうしたムッソリーニの評伝を見ると、いくつかの特徴がある。

第1に、彼が社会主義者でないと規定されている。

第2に、政党の党首で国会に議席を持っていた事に触れていない。

第3に、政権奪取が投票ではなく軍事力に依ったとしている。

第4に、その行為は一種の「勤皇」であり、君側の奸が一掃されたとしている。

第5に、彼によって秩序は回復され、大ローマ帝国の再建が始まったと描いている。

これは現実のムッソリーニ像ではなく、彼に仮託された「期待される新しい指導者像」であった。

東条英機の脳裏には、どこかにこれらの記述があったと思われる。

いわゆる革新派のムッソリーニに対する最大の評価は、「議会の機能を停止したこと」であった。


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