「なぜ日本は変われないのか」の勉強②
日本政治は13~15年周期で「総政治化→非政治化」を繰り返している
(2020.7.10~11.)

(※以下は『なぜ日本は変われないのか』山本七平著からの抜粋です。

  この著作は、1975~76年の論文をまとめたものです。)

日本の現代の政治史を見ていて気付いたのは、こうである。

『国民の非政治化を目指す、官憲主義の統治集団で構成された、日本政府。

 これに対し、全体主義的な国民の総政治化をもって対抗する勢力が、野党となる。

 両者が一定のバランスをとっている状態を、人々は民主主義と呼ぶ。』

バランスのとれた状態では、政権の交代はなく、野党の攻勢に対しては与党は内閣の交代という形で対応する。

そして与党は、国民の非政治化を計って安定を目指し、その権力は次の総政治化の運動の盛り上がりまで継続する。

これが民主主義のあるべき姿だと多くの人が考えている事は、太田薫(総評の議長)が「弱い政府をつくって、皆がこれを批判している状態が最も望ましい」と言った事にも表れている。

別の表現で同じ言葉を口にした人は、実に多い。

ここで1960年の安保闘争を取り上げたい。

この政治運動は、もちろん安保条約の改定だけを取り上げたものではないが、条約改定の問題が「官憲主義の政府に全体主義の総政治化で対抗する」契機になった点では、明治時代から続く伝統的な事件といえる。

(※明治時代にも、不平等条約の改定をめぐって、論争や闘争があった)

「官憲主義の政府に全体主義の総政治化で対抗する」という政治運動は、いつも、その論拠を「国体の明徴」(天皇制であれ新憲法であれ)に置き、内容は一種の文化大革命である。

だがその結果は、岸信介(60年安保闘争の時の首相)らの失脚は招来しても、官憲主義政府の崩壊にはならない。

むしろ総政治化の全体主義は、政治的な自由を圧死させるため、結果として非政治化が進んでしまう。

この政治運動では、世論が賛成と反対に分かれて討論する形にならず、「世論(政治運動)についていく層(政治化層)」と、「世論についていけない層(非政治化層)」に分かれる。

運動の指導者は、討論で支持を得ることはせず、賛同しない者を糾弾する形になる。

これが戦時中の「時局の傍観者」とか、60年安保の「安保傍観は許されない」といった言葉を生んだ。

他方で、総政治化の全体主義が強力になりすぎると、人々はバランスが崩れたと感じて止めようとする。

これが、60年安保闘争での「新聞の敵前反転」(それまでは反安保の闘争を新聞は煽ってきたのに、行き過ぎはダメとの7社共同宣言を突然に発表した)を生んだ。

もちろん官憲主義と全体主義の両極端は、「愛憎」のごとき両極端であるがゆえに、一体化する事もある。

この結合は、戦前(戦中)は東条英機・内閣、戦後は田中角栄・内閣の時に起きている。

田中角栄・内閣の時は、短期間で外交問題に限定されたとはいえ、国会は反対意見のない翼賛議会となり、国民も批判なき角栄ブームを起こした。

ここには、太田薫の期待したバランスはない。

日本の「国民の非政治化」→「総政治化」→「非政治化」→「総政治化」という流れは、だいたい13~15年の周期で、循環していると思う。

総政治化は、極限に達するとそこで一転し、一気に暴落して非政治化の状態となる。

と同時に、次の総政治化へと進む目標はすでに胚胎しており、徐々に成長しつつ次の極限を目指していく。

この循環は、新聞の論説を見れば、誰の目にも明らかとなる。

1930年頃から、新しい総政治化の胎動があり、「時局の傍観は許されない」という形で政治的な関心が国民に強要された。

これが極点まで高まって、1945年の敗戦で一転し非政治化した。

次いで新しい総政治化が始まり、1960年の安保闘争で極点に達し、一気にまた非政治化して所得倍増の時代に入った。

同時にまた新しい総政治化への動きが始まり、ベトナム反戦、日中の国交回復(角栄ブーム)、公害に反対する市民運動で頂点に達し、石油ショック・三木内閣で一転して非政治化した。

この循環は、実は明治時代や大正時代にもあり、やはり13~15年の周期である。

なぜこのような循環が起きるのか。

とにかく底深い何かに基因している事は間違いない。

私はこの循環運動を、『歴史的意識(歴史的な現在)という視点がない世界ゆえの、擬似の歴史意識に基づく運動』と考えている。

私が言う歴史的意識とは、伝統的な民衆的な歴史に対する意識である。

これを培うものは、長い間、祭儀であり祝祭日であった。

そして日本における代表的な祝祭日には、面白いことに、歴史の一事件を素材にしたものが無いのである。

キリスト教やユダヤ教には、「歴史は一方向に進み、繰り返しはあり得ない」との考えがある。

だから自由を得た日や、独立を守った日が、祝祭日となるのである。

例えばユダヤ教の過越祭は、モーセに率いられた「出エジプト」を記念する祭りであり、2500年以上の伝統を持つと思われる。

それは、総計3時間ぐらいかかり、日本人には「くどい」と感じる祭りである。

子が父に質問する形式で進められるのだが、出エジプトのことに詳しくないと理解しづらいので、ここでは「もし彼らが8月15日の日本の降伏を、終戦祭りとして祝ったらどうなるのか」との設定で書いてみよう。

その日は、まず庭に出て、防空壕の入り口のような穴を掘る。

次いで板切れで屋根のようなものを作り、その中にイモの葉の雑炊の鍋を置く。

子供が驚いて父に訊く。

「どうして今日は、こんな所で食事をするのですか。
 それに、その穴は何ですか。」

父親が答える。

「その昔、われらの祖先はアメリカと戦って敗れた。
 しかし敗れることで呪縛が解かれ、自由となり、防空壕という穴居生活から解放された
 のである。

 しかし外は一面の焼け野原であった。

 それを記念して、今日はここで食事をするのである。」

次いでイモの葉の雑炊に箸をつける。

子供が驚いて訊く。「どうしてイモの葉を食べるのですか。」

父親は答える。

「平和が来たけれど、食物は無かった。
 そこで我々は飢えをしのぐため、イモの葉の雑炊を食べた。

 しかし我々はその時、自由と平和があらゆる美味の飽食よりも貴いことを知った。」

そして食事の間に、終戦の詔勅をはじめ、当時の新聞の論説や内閣告諭などを、一言半句の改変もなく、そのまま読み進んでいく。

資料の改変は一切しない。

それらの語句の意外さに子供が驚いて質問すれば、それに対して解説をする。

ユダヤ教徒たちは、二千数百年も同じ事(同じ祭り)を続けているのである。

キリスト教のクリスマスも、基本は同じで、行われるのは「今日、ダビデの町で救世主が生まれた」という「ルカ福音書」の記述通りに、歴史事実を演劇することだ。

過越祭のような祝祭を生み出すものは、自分たちが歴史的な所産であるという意識であり、歴史事件は常に1回きりという意識である。

この意識は、キリスト教以前のヨーロッパにはなく、従ってセム族の思考法、いわばヘブライ=キリスト教の宗教思想であろう。

この行き方は、毎年一定の日に、自分が歴史上の一点に戻り、その歴史事件と対面する。

このような歴史意識は、日本には無い。

従って彼らの考え方は、日本人には極めて執念深く見える。

日本では、新年の前に、前の年を「忘年」する行き方である。

後述するが(「なぜ日本は変われないのか」の勉強③で述べるが)、日本の敗戦時も、その状況は「忘年」「新年」の回帰的な意識であった。

ユダヤ教、キリスト教の「歴史的な現在」という行き方は、それまでの歴史を消さず(忘れず)に、それと対面する意識である。

これは聖書の編纂方式に明確に表れている。

そこでは1つの記述に対し、その記述が時代の変遷でどんなに異常に見えてきても、それを消去しない。

そして各章の後に、それへの批判ないしは反論を書き加えていく。

このため旧約聖書は、記述の矛盾の連続という一面がある。

だが彼らは、この矛盾の中に事実を見て、逆に矛盾なき記述は「虚構」と見るわけである。

これが日本だと、明治維新で前の歴史を消し、アジア太平洋戦争で負けた後には戦前の歴史を消してしまった。

彼らは歴史を消さず、批判しつつ書き加えていく形をとる。

だから歴史書は矛盾の連続となるが、それは書かれた事を抹殺しないが故に起こる矛盾である。

日本のように皇国史観を抹殺して人民史観に切り換える形をとると、読者はそれを「信じるか」「信じないか」という態度でしか接し得ず、矛盾を通じて事実に迫ることが出来ない。

この日本の行き方は、「忘年・新年」の行き方である。

『空気の研究』という著作で詳述したが、日本人は現時点の対象に帰依し、過去との対面はしたがらない。

なぜこうなるかというと、セム族的な思想「歴史は一方向で、起こった事は1回限り。そして起きた事は消えない」との世界に接触しなかったからだろう。

日本の世界は、長い間にわたって輪廻転生の世界だった。

キリスト教の影響を受けるまでのヨーロッパもほぼ同じであり、この点、日本人には旧約聖書の史書よりもギリシアの史書のほうが親しみやすい。

輪廻転生のインド・アリアン的な世界は、歴史を一方向のものと見ないし、人間を生まれる前と死後の間のものと規定する。

このため、自らを宇宙的なもの、小さく言えば自然の秩序と同じものと考える。

だから日本では、すべてが「ごく自然に行われる」ことを最上とし、自然の循環が自己を規定している。

従っていっさいの祭りは、自然のサイクルの中に還元されていく。

日本では、無条件降伏での敗戦という史上1回きりと思える事件でさえ、「忘年」を前提とする。

もちろん「戦争体験を忘れるな」という言葉はあるが、終戦祭りは起こらない。

こういう形をとる場合、その民族の歴史観は、自己を基準に過去の歴史を再構成することにしかなり得ない。

そして皇国史観ならそれで全てが説明され、人民史観ならそれで全てが説明されと、歴史は合理的に説明されて疑問も矛盾も生じなくなる。

旧約聖書的な矛盾の積み重ねにはならない。

ところが、その歴史の再構成は、もとよりフィクションである。

そしてフィクションで成立した総政治化の運動は、その見方(史観)の崩壊と同時に解体して終わる。

これは終戦時と60年安保によく表れている。

総政治化が(1つの価値観・史観が)崩壊した時、それが始まった時点を振り返って対面しようと、日本人はしない。

崩壊した瞬間に過去を再構成して、それに基づいて全てを説明し、また新しい総政治化へと進み出す。

結局これが、13~15年の周期で循環が起こる理由だろう。


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