「なぜ日本は変われないのか」の勉強③
総政治化→非政治化の流れを具体的に見る
(2020.7.11~14.)

(※以下は『なぜ日本は変われないのか』山本七平著からの抜粋です。

  この著作は、1975~76年の論文をまとめたものです。)

日本で様々な反省が行われても、1945年の終戦時であれ、60年の安保闘争の時であれ、その時点をそのまま再現して対面するという行き方は無いように思える。

そこで、ここでは「終戦祭り」という形で、当時の新聞などと対面し、アジア太平洋戦争の開戦時と、敗戦時とで、論説がどのように劇変したかを見てみたいと思う。

〇 1941年12月9日(真珠湾攻撃の翌日)の朝日新聞の社説「帝国の対米英宣戦」

宣戦の大詔(天皇の言葉)ここに渙発(発布)され、一億国民の向かうところは厳として定まったのである。

わが陸海の精鋭はすでに勇躍して起ち、太平洋は一瞬にして相貌を変えた。

大日本帝国は、日米和協の道を探求すべく、条理を尽くして米国の反省を求めた。

だが米国は、わが公正なる主張に耳をそむけ、わが陸海軍の支那よりの全面撤兵や南京政府の否認、日独伊3国条約の破棄といった、全く現実に適用できない諸条項を強要してきた。

のみならず、イギリス、オランダ、重慶(当時は国民政府の臨時首都が重慶にあった、つまり中国政府のこと)などの衛星国家を駆って、対日包囲を強化した。

帝国の不動の国策たる支那事変の完遂と東亜共栄圏の確立は、米国を主軸とする一連の反日勢力を東亜全域から駆逐しなければ達成できない。

東条首相の言の如く、『もし帝国が彼らの強要に屈従すれば、帝国の権威は失墜し、遂には帝国の存立までも危機に陥る』事態に到達したのである。

ここに到って、帝国の自存を全うするため、決然として起たざるを得ず、一億が一丸となって勝利のために戦い抜かなければならないのである。

いま宣戦の大詔を拝し、感激に堪えざると共に、粛然として満身の血のふるえるのを禁じ得ない。

一億の同胞は、戦線に立つ者も、銃後を守る者も、一身一命を捧げて決死報国の大義に殉じ、宸襟(天皇の心)を安んじると共に、光輝ある歴史の前に恥じることなきを期せねばならない。

敵は豊富な物資を擁し、しかも世界制覇を目指している。

従って、これを撃砕するには戦争がいかに長期に亘ろうとも、国民はあらゆる困苦に堪えて「天の試練」を突破しなければならない。

宣戦と共に、早くも刻々として捷報(勝利の知らせ)を聞く。

まことに快心の極みである。

御稜威(天皇の威光)の下、尽忠報国の信念を持って戦う時、天祐は常に皇国を守るのである。

〇 1941年12月9日の大阪毎日新聞の社説「東亜解放戦の完遂」

一億総進軍の日は来た。待ちに待った日が来た。

米英両国に対する宣戦の詔書を謹読する者は、血湧き肉踊らない者はいないだろう。

既に事は決した。

全国民は、東条首相の謹話にもある通り「必勝の信念」を持って、最後の勝利まで戦い抜こう。

宣戦の詔勅は、一字一字を魂を込めて拝読せねばならぬ。

否、一句一行の間を埋める無量の聖旨を、日本精神をもって拝察せねばならぬ。

政府が危局を避けようとした幾多の努力は、ことごとく米英によって蹂躙せられた。

平和を維持せんとした努力は、顧みられる事はなかった。

わが国民は、よくここまで辛抱したと思う。

米英がいかに尊大ぶった態度で我らに臨んだか、いかに空論を楯に交渉してきたか。

しかも経済封鎖を企てて、わが生存の糧道を遮断しようとした。

貪欲非道にして金権ユダヤ思想の彼らの行為は、天も人も許さないだろう。

一剣が閃めくや、太平洋狭しとわが皇軍は武威を輝かしつつある。

米英が久しく搾取してきた東洋と南洋の基地は、刻々と壊滅しつつある。

東亜の解放戦だ。新しき大東亜史の創造戦だ。

いまや聖旨を奉体して、一億の民は聖戦に赴く。

銃前と銃後は一体となって、天の使命のために戦い、天の試練に打ち克たねばならぬ。

一切のものを戦争体制に完備すべきであり、政府当局は一段と戦時体制を整える必要があるだろう。

臨時議会はその一好機でなければならぬ。

さて。

これを読むと、当時の日本人の認識は、まことに子供っぽい「アジア対欧米」という図式であり、「善対悪」の図式だった。

そして、それぞれの対象への実体的な把握はいっさい無視されている。

これを、ニクソン大統領の訪中前の、日本の新聞の米中関係の把握の仕方と対比すると、ほぼ同じ形である。

(当時は、米中の国交が無いに等しく、日本ではアメリカが善で中国が悪だった。
 それがニクソンの訪中後に、一気に中国は善と見られるようになった。)

1932~33年ごろから進んできた「国民の総政治化」は、米英への宣戦布告でピークに達した。

そして、その後は平行状態で進んだ。

では、そのピークに達した国民の総政治化は、いかなる形で暴落し、一瞬にして非政治化されたのであろうか。

次に示すのは、終戦時の論調だが、まずは「聖断(降伏)」を決めた御前会議の記事から見よう。

〇 1945年8月15日の朝日新聞の「御前会議に畏き御言葉」

歴史的な御前会議は、陛下みづからの御発意で、14日午前10時45分に宮中で開催された。

この日、各閣僚はお召しによって急遽参内した。

陛下は、「朕が世界の大局を考慮した結果である。いろいろな意見もあろうが、(連合国側の)回答文は天皇主権を承認していると考えるから、皆そのように解釈せよ。
朕の一身がどうなろうとも、これ以上国が焦土と化し国民が戦火に斃れるのを見るに忍びない」との御言葉を賜ったという。

一億民草の上に垂れさせたまう大御心の忝けなさ、一億の国民はただ地にひれ伏すのみである。

皇国3千年、この一大試練を直視する時、悲懐が胸を焦がす。

この日この時こそ、われら一億が真に素裸の日本人となって、腹からの血盟をしっかと固めねばならぬ。

我々は国体護持に対する保障を敵に求めるのか。

否、国体護持はわれら民草の胸中にある。民族伝統の血脈の内にある。

大方針の決した刹那の光景を拝察する時、我々は皇国に生を享けた感激に泣かざるを得ない。

この親政(天皇の決断)に一切の私念を棄てて随順することが、皇国再生の活路であり、わが民族を護る唯一の道である。

上記の「御前会議に畏き御言葉」の記事は、国民の総政治化の暴落(非政治化)の第一歩である。

この中から大仰な形容を除いてみると、次の考え方だと分かる。

「一億が素裸の日本人となって」 → 一切の政治的な思慮を捨て切って

「血盟をしっかと固め」 → 擬制の天皇と国民の血縁的な紐帯だけで結合し

「一切の私念を棄てて随順する」という形で社会的結合を行えば、「皇国再生の活路がある」。

こうした論調(意識)と平行する形で、同じ1945年8月15日の朝日新聞では、戦争終結に至る経緯が記されている。

それを次に見よう。

〇 1945年8月15日の朝日新聞の「戦争終結の大詔渙発さる」

原子爆弾とこれに続いて突如として起こったソ連の参戦は、大東亜戦争を決定的な段階にまで追い込んだ。

9日の午前に開かれた最高戦争指導会議と、これに続いた同日午後の2回の臨時閣議において、戦争終結へ急速なる進捗を見せた。
同夜半に、天皇陛下の親臨の下で最高戦争指導会議が開かれ、帝国の方針は決定した。

帝国政府は、中立国を通じて米英支ソの4国に通達したのである。

このポツダム宣言に対する日本政府の通告文の要旨は、「日本政府は、ポツダム宣言が陛下の国家統治の大権を変更する要求を含まないとの諒解の下に、同宣言を受諾する用意がある」であった。

これに対する4国の回答は、13日の朝に到達した。

我が方は、最高首脳部が「国体護持」という最後の一線に関する議論を重ね、14日の御前会議において聖断を拝し、4国の回答文の受諾で一決した。

ここに大詔は渙発(発布)され、大東亜戦争は遂に終結となった。

上の記事を読むと、日本政府はもっぱら国体の護持に専念し、それについてのみ議論を重ねた。

一方、天皇の処分は、前の引用にあるように「朕の一身がどうなろうと…」という事で、いっさい条件を付けない形となった。

次に見るのは、内閣の告諭(内閣の出す各官庁への通告)である。

〇 1945年8月15日の朝日新聞の「内閣告諭」

本日、畏くも大詔を拝す。

帝国は大東亜戦争に従うこと実に4年近く、ついに聖慮をもって非常の措置(降伏)に至った。

開戦以降、遠い地で骨となった将兵はその数を知らず。

本土の被害と無辜の犠牲もここに極まる。

新爆弾(原子爆弾)の使用とソ連の参戦もあり、帝国は未曽有の難となって、聖断が下った。

帝国の前途は一層の困難を加え、さらに国民に忍苦を求めるに至った。

今や国民の等しく向かうべき所は、国体の護持にある。

過去に拘泥して同胞を互いにそねみ合うのは、他国の乗ずる所となる。

感情に激して軽挙妄動すれば、世界の信義を失う。

この難局に処すべきは官吏の任務なり。

官吏は陛下の有司(役人)として、この聖旨を奉行(執行)し、復興の先達となることを期す。

上記の「内閣の告諭」の要点は、「過去に拘泥してはいけない、感情に流れては信義を失う」であって、他は修飾語であろう。

この言い方は、前に述べた(なぜ日本は変われないのか②で述べた)「忘年」と「新年」の発想だ。

「新年を迎えたのだから、去年の事(これまでの事)はいっさい打ち切れ」という考え方である。

この日本政府の動きに対し、新聞はどのような社説を掲げたのか。

それを次に見よう。

〇 1945年8月15日の毎日新聞の社説「過去を肝に銘じ前途を見よ」

詔書は下った。

事ここに至っては、日本国民は陛下の心の痛みを拝察して、血涙をしぼるばかりである。

同時に国民の分際として、ただただ聖旨を奉戴し、新しい事態に臨むのみである。

今の心境を貫くのは、大戦を通じて祖国に貴い生命を捧げたすべての勇士達に対する感謝である。

感謝するのみで、勇士達に報いる術のないのが、日本国民の新しい運命である。

我々一億は、英霊に対し身の不肖さを詫びると共に、事態を噛み分けて瞑せられんことを切望する。

日本帝国は、自衛のために4年も血と涙と汗をもって戦い続けた。

しかし結果は、今日の事態となった。

ここに至った理由と原因を探究すれば、無数の理由と原因が指摘されるであろう。

そして責任論も国民の念頭に浮かぶはずである。

しかし我らは、この際において責任論など試みようとは思わない。

自分の不肖を意識し、悲しみは余りに深いからである。

我々は過去を忘れず、その教訓を骨身に徹しなければならぬ。

しかしながら、過去に囚われてはならない。

人類の歴史を見るに、大不幸は民族に与えられた試練である。

更生の能力ある民族は、その試練を経て新しい運命を開拓する。

強大な日本を建設することに失敗した日本民族は、真に強靭にして清浄な日本の建設に向かって進むのみである。

大不幸の内から立ち上がる清浄な日本。
それは日本民族を結晶させるのに十分であると考える。

ただしその道は、いばらの道である。

日本国民は、再び血と涙と汗とをもって、長い道程を踏破することを、いま覚悟せねばならぬ。

皇室を戴き、互いをいたわり合う温かい心を持って、新しい生活に入らねばならぬ。

上の社説に出てくるのは、まず運命論であり、無責任論であり、過去の切り捨て論であり、原因の不探究の宣言である。

そして新運命の開拓となり、最後には清浄さといたわり合いによる新しい生活を提唱している。

戦死者に何も報い得ないのが「新しい運命」であるとし、「事態を噛み分けて瞑せられんことを切望する」で死者を切り捨て、過去を切り捨てる。

同時にこれは、遺族たちによる戦争責任者の追究を封じる事にもなる。

これでは、ドイツで行われた自らの手によるナチスの責任追究のような事は、起こるはずがない。

戦争の最大の被害者である死者たちの想いを封じ、それによって戦争責任の不追究論へと進む。

後々になってから新聞は、「戦争責任」を口にするようになったが、敗戦当時においては責任追究を封じ、この問題を切り捨てよと論じていたのである。

もしも新聞が戦争責任を論ずるなら、まず第一に、自らへの痛烈な批判が先行しなければおかしい。

それをしない責任論は、一種の「責任逃れ論」にすぎない。

日本の新しい運命として打ち出されているのが、「清浄な日本」という概念である。

これは「国民の非政治化」の状態であり、家族的ないたわり合いで新生活に入れと言っている。

次いでこの非政治化の動きは、天皇と一般国民の相互の感情移入という形で進められていく。

それを表すのが、「玉音放送」に関する記事である。

次にそれを見よう。

〇 1945年8月16日の毎日新聞の「聖上御放送 玉音曇らせ給ふ」

胸にこみ上げてくる熱いかたまりは抑えきれない。

眼からあふれ出たのは、熱い熱い涙であった。

真に断腸の想いとはこのことか。

8月15日の正午、ラジオは天皇陛下みずからの大詔御放送を全国に伝えた。

この日、明け方から防空情報のブザーが絶え間なく響いていた。
しかし11時50分にそれも打ち切られた。

正午になり、『ただ今より重大放送を行います。みなさま御起立願います』との和田放送員の声に続いて、下村・情報局総裁が玉音を放送する旨を述べ、君が代が奏せられた。

陛下がマイクロフォンの前に立ち、大詔は米英支ソの4国共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を宣せられた。

ああ戦争ここに終わる。

玉音の4分間は、日本国民はみんな泣いたのである。

われらの忠誠は遂に足らず、口惜しさが五体を駆け巡り、全身は申し訳なさに震えた。

全国土が涙にぬれたこの歴史的な御放送が終わって、再び奏せられる君が代の「巌となりて苔のむすまで」、国民の深い深い誓いはその国歌の一節にあった。

〇 1945年8月16日の朝日新聞の「二重橋前に赤子の群」

8月15日午後の宮城・二重橋前、嵐は嗚咽と悲痛の声との中に猛然と吹きまくっていた。

日本は敗れたが、敗れてなおこの様な姿の国民が、歴史においてあったであろうか。

玉砂利を踏んで帰ってくる人々の手には、固くハンカチが握りしめられていた。

涙を隠そうともせず、人々は黙々と帰ってくる。

二重橋前へと歩む人々の数は多かった。それは激しい感情の嵐であった。

この日の正午、その耳に拝した玉音(放送)が深く深く魂に刻み込まれているのである。

国民は、力を出し尽くせば大東亜戦争は必ず勝てると思い、そう信じて戦ってきた。

それがこんな事になった。

群衆の中から「海ゆかば」の歌声が流れ始めた。「天皇陛下万歳」の声も上がった。

歌っては泣き、泣いてはまた歌った。

明日も明後日もこの国民の群れは続くであろう。海ゆかばは歌い続けられるであろう。

苦難の生活に突進せんとする民草の声である。

日本民族は敗れはしなかった。

上の記事に見られるのが、「国民の非政治化」の運動の実体であり、『政治問題を内心の問題にすり替え、感情的に処理して一切が終了する』という行き方である。

文中にある「国民の激しい感情の嵐であった」は、すり替えの実体を伝えている。

大変に興味深いのは、1960年の安保闘争の収拾時にも、ほぼ同じ形である。

この時に、終戦時の昭和天皇と同じ役割をしたのが、亡くなった樺美智子(安保闘争で死亡した東大生)の母親である。

インド的な(仏教的な)輪廻転生を信じる日本人は、「回帰」という概念を持っているが、回帰には終わりがない。

従って、一種の「不滅信仰」となる。

この不滅信仰は、敗戦の翌日に「日本は敗れなかった」と語る形で表れている。

当時の人に聞くと、玉音放送や終戦の詔勅は、ここに記される民草にはよく理解できなくて、ラジオの解説や新聞を読んで初めて終戦を意識した人が多かった。

(玉音放送は音質が悪くて聞き取りづらく、言葉も回りくどい)

終戦から30年経った現在では、人々はこういう記事が書かれ、それに自分たちが反応した事実を、忘れたり消去したりして、現在の価値観から過去を再構成し、その再構成を絶対化するのを「反省」と呼んでいる。

その「反省」は、常に変化する位置で行われており、その変化を見ていくと「国民の総政治化」の過程が分かるわけである。

総政治化の運動の過程においては、過去の記事をそのまま持ち出すと、一種の皮肉か嫌がらせにしか受け取られない。

さらには、過去の記事を示されると、それを書いた記者たちは言い訳をし始める。
そんな必要はないのだが。

この事実は、今の記事が13~15年くらいしたら(今の総政治化の運動が崩壊したら)、同じ調子で言い訳するものになる事を示している。

なぜこうなるかというと、日本が過去を「忘年」する世界だからだ。

総政治化→非政治化という回帰現象は、似た現象は東アジアの国々にもあるが、日本ほど明確に行われている国はないようである。

国民の総政治化が頂点に達し、一転して暴落して非政治化になる時は、共通点がある。

その瞬間の特徴は、新聞(大手メディア)と政治権力との完全な一体化という形で表れる。

これは、上記の終戦記事を読めば自明であろう。

これらの記事は、絶対に政府当局に無理矢理書かされたものではない。
文章を見れば自明だ。

(敗戦して大混乱の状況なので、政治権力がメディアをがっちり統制するのは不可能でしょう)

1960年の安保闘争の終わりでも、これとほぼ似た形で、新聞と政治権力が一体化している。

ここからは安保闘争の追究に入るが、まず1945年末の新聞各社の社説を見て、「国民の総政治化」の出発点を検討してみよう。

〇 1945年12月31日の読売新聞の「神権日本への訣別」

1945年を送るに当たって、人民はその生活の激変をいまさらのように顧みるのである。

疎開した思い出、家を焼かれた思い出、戦死者を悲しむ遺族、帰国してくる者を待ちわびる人々は、敗戦感を一層深刻にしている。

だが、人々は自己の環境だけに囚われてはならない。

人民はもっと大きく眼を見開いて、我々の国が大変動に直面している事実を明確に認識すべきである。

この大変動は、あらゆる不合理の根源であった神権日本への訣別であり、史実に立脚していない皇紀2605年の歴史の終焉にほかならないのだ。

戦争が決定的に不利な情勢になった今年の初めにおいてさえも、強制宗教によって科学的考察の眼を閉ざされていた多くの人々は、敗戦によって国家形態が変わるとか、掠奪や暴行に遭うと畏怖して、戦争を終わらせる努力に躊躇していた。

こんな蒙昧の境地は、ソ連の参戦と原子爆弾の威力によって完全に打ち破られた。

そして降伏後に日本に加えられた連合国(GHQ)の再建の手は、財閥の解体や皇族の逮捕といった意表を衝くものだったが、封建制の桎梏から日本を解放したのである。

世界で最初にして最後であろう原爆の威力が実証されたのが、我が国であった事を思えば、今までの非科学性を清算して、原子の時代への忠実にして勇敢なる使徒として我々は起ち上らねばならない。

原子時代にあるまじき「神の国」は抹殺され、「現し神」の観念は消滅したが、そこに我々は今年の最も大きい意義を見出すのである。

8月15日の無条件降伏の後、軍閥の消滅、言論結社の自由、財閥の解体、警察官僚の粛清、労働組合の再生、農業改革など、活発に日本再建の工作は推進された。

これらの諸工作に決定的な意義を与えたのは、国家神道の廃止であり、天皇制に巣食う邪悪の根は引き出され廃止された。

この間、内閣の更迭は、小磯、鈴木、東久邇、幣原の4代にわたったが、よく4内閣で済んだと言えないこともない。

日本再建の真の仕上げは、これからである。

天皇制への批判、官僚制度の改革は、残された最大の事業として1946年に持ち越される。

あらゆる不合理の根源である戦争責任者の審問も、明年が本舞台となる。

人民は、この1年の経過を検討吟味し、新しい世代に入る心の準備を整えなければならない。

上の論説を読めば、新しい「神話」がすでに出来ており、戦前の神話を継承しているのが明らかである。

論者は、人間の不合理が内にある精神とは別の所にある「他者」で、その不合理と訣別できると信じている。

面白いのは、「史実に立脚していない歴史の終焉」と説いている事だ。

だがそう言っている本人が、開戦時の記事や終戦時の記事を書いた事をすでに全て忘れており、史実に立脚せずに論じているのである。

「非科学性を清算して」という言葉が出ているが、ここに「戦後の不合理の根源」が生まれているのである。

戦後の日本では、科学性と名付けられたものは無謬であり、非科学的と言われたものは無条件で清算・棄却すべきという迷信が生じた。

そしてその信仰の上に立って、「原子の時代への忠実にして勇敢なる使徒として立ち上がれ」と言う。

この言い方は、実は1930~33年の「過去の自由主義的な考え方を棄てて、新しい日本へと立ち上がれ」という社説と全く同じである。

「時代の使徒」という概念自体が、日本人をその時代だけで規定する不合理なものであり、その時代にそぐわないと判断した諸概念を抹殺する事につながる。

いうまでもなく我々は、未だにこの価値観(科学性への絶対信仰)で生活しているわけで、多くの人々は大東亜戦争中の日本人と似た真面目さで、この信仰を持っている。

しかしその中でもなお、1960年の安保闘争という総政治化のピークと、そこから一転しての高度経済成長という非政治化の過程をたどった。

1960年の安保闘争では、運動のピークが一瞬で崩れ去り、運動が収束化する時に「国体の護持が先決だ」という終戦時と同じ議論が出た。

いうまでもなく、戦後の国体とは「民主主義」で、国体護持は「民主主義の擁護」という形で出てくる。

そして安保闘争は、敗北が決定的になればなるほど、声高に国体護持が叫ばれ、国体が護持されたから敗北ではないという論理になった。

この事は、清水幾太郎(社会学者で講和問題や60年安保の運動で理論的指導者となった人)の『わが人生の断片』に詳しく出ているので、1945年の終戦時と対比してみたいと思う。

〇 清水幾太郎著『わが人生の断片』からの引用

私は1960年2月の初めに、『諸組織への要請』という短い文章を書いた。

そこではこう書いた。

「現在、この広汎かつ強烈なエネルギー(日米安保条約に反対する国民の感情)を
 有効に組織する政治指導性が欠けている。

 国民の間に滲透した結果であるエネルギーを、政党や組合は生かしきっていない所に
 問題がある。

 エネルギーと指導性のギャップは、国会乱入事件(59年11月27日)に対して
 諸組織が示した低い評価で明らかであり、とりわけ60年1月16日の羽田空港の
 全国的大衆行動に対する抑圧において明らかである。

 諸組織の指導部は、増大する国民のエネルギーに向かって、『…をするな』と
 説くばかりで、『…をしよう』と呼びかけていない。

 そして大切な味方である勢力に非難を浴びせて、かえって戦線に分裂を招いている。

 このような状態では、新安保条約の批准阻止に成功するどころか、空しく四散
 してしまう。」

『民主主義の擁護』というスローガンに私が腹を立てたのは、それが不潔な方針に思えたからである。

これではもう喧嘩はできない、と私は感じた。

『安保条約の改定阻止』とか『新安保条約に反対』という年季の入ったスローガンを押しのけて、『民主主義の擁護』という新しいスローガンを掲げたのは、インテリであった。

この人たち、特に東大法学部の諸君は、民主主義を雄弁に語り始めた。

60年の7月号および8月号の諸雑誌は、彼らの文章で充満している。

しかし、これらの冗漫で感傷的な文章は、6月2日に竹内好(中国文学者)が述べた短い言葉に要約される。

つまり、「何をおいても民主主義を再建しなければならない。安保条約の問題はその後に延ばせばよい。いま安保が良いか悪いか論じるのは無益だ」である。

彼らの間から、『安保に反対の者も賛成の者も』というスローガンが生まれ、安保条約への賛否を棚上げにして、相共に民主主義の擁護に立ち上がろうという気運になった。

この気運は、インテリと指導部が一緒に盛り上げた。

民主主義というのは、戦後の日本では誰一人反対しない大義名分であるから、運動の幅は何千倍にも拡がる。

いや、日本政府や与党・自民党にしても、民主主義の擁護に反対である筈はない。

一挙に幅は広くなるが、どこにも敵がいなくなる。

敵がハッキリせねば、もう闘争はない。

それに大衆の方々は、少数のインテリのように器用な転換はできないので、目標がにわかに外されて何をしてよいか判らなくなる。

つまり、全体のエネルギーは増えたように見えるが、もう方向がなかった。

本当に増えたのは、エントロピー(無秩序の量)なのであった。
だた昂奮があるだけになった。

目標が判らなくなっただけではなく、闘争の勝敗も判らなくなった。

安保改定の阻止を目標にして来たのだから、国会で新安保条約が成立すれば、運動は明らかに敗北である。

運動に一般大衆が参加するようになったのだから、敗北の原因は大衆の無関心ではなく、どうしても指導部の無能力が問題になる。

事実、それが問題なのであった。

私の想像では、指導部に安保反対のエネルギーを指導する能力がなく、その処理に手を焼き、他方では自分たちの敗北の責任を何とか避けようとして、『安保反対』から『民主主義の擁護』へ目標の転換をしたのではないか。

とにかく、安保闘争の敗北が決定的になるにつれて、これは民主主義の勝利だと声高に叫ぶようになった。

上の安保闘争の末期の出来事は、終戦時の記事と読み比べれば、そっくりの状態だと分かるだろう。


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