山本七平の周期説を今に当てはめてみる
日本政治を語る②
(2020.10.19.~12.31.)

前回の日記『山本七平の周期説を今に当てはめてみる、日本政治を語る①』では、2005年までの日本政治の出来事を書きました。

今記事はその続きで、2012年までの日本政治を語っていきます。

2005年に、小泉純一郎・政権が進めてきた『国民の総政治化=全体主義の運動』のピークが訪れ、その運動はアメリカ一強の時代が終わる事で崩壊しました。

小泉政権が2006年に終わると、小泉純一郎の後継者として安倍晋三が首相になりました。

安倍晋三については、後に再び首相になり長期政権となったので、今では忘れられているかもしれないですが、06年に首相なった時点でさしたる政治実績がなく、懐疑的な見方も強かったです。

純一郎が後継者に指名したので、晋三は首相になれたのですが、実力が認められていたわけではなかった。

今振り返ると、第一次・安倍政権は、典型的な「官憲主義」(国民の非政治化)でした。

晋三は純一郎の政策の継続を訴えたが、小泉政権の頃の国民を煽動して自らの政策を実現させるという方向ではなかったです。

私の記憶する第一次・安倍政権の印象は、国民を統制しようと図り、国民に政治参加をさせず、自らの「お友達」という狭いサークルの者だけで政治を行おうとするものでした。

これは一部のエリート層だけで政治を行おうとするもので、「官憲主義」です。

安倍晋三は、閣僚の汚職や不祥事が続き、内閣支持率が爆下がりすると、ある日突然に辞任会見をして、首相を辞めてしまいました。

あれは、かなり衝撃的な辞任の仕方でしたね。
自分が趣味で入ったスポーツクラブを辞める様な感じで、さらっといきなり辞めるのを表明しましたが、たぶん首相というポストの重さを自覚してなかったのだと思います。

「無責任な辞め方だ」と猛批判を食らったが、それが当然と思えるほどの、全く前触れなしの退陣でした。

私としては、「安倍晋三は、人格も政治力も平均以下で、坊ちゃん育ちの苦労知らずで、国民のための政治が出来る者ではない。だからここで辞めてくれて大助かりだ。」と思いましたね。

しかし、その後も福田康夫、麻生太郎と、同じく坊ちゃん育ちで親の七光りで出世できた者たちが、首相になり続けました。

この頃に、自民党の劣化は一段と進んだと思います。

それまでも自民党は、世襲議員が跋扈する党でしたが、親や祖父が首相になっている者が安倍晋三→福田康夫→麻生太郎と3連続で総裁(首相)になる状態は、政治力よりも血脈を重視していると思わざるを得なかったです。

「真に異常な党だな」と、痛感しました。

表面上は違って見えても、北朝鮮の金一族が世襲で国のトップになるのと、本質的には変わらないのではないか、と思えてきました。

政治のやり方を見ると、福田政権も麻生政権も「官憲主義」でしたね。

特に麻生太郎は、後の第二次・安倍政権で副首相になってからもそうでしたが、国民をバカにして説明責任を果たそうとしない性癖があります。

あの太郎の態度は、国民を政治から遠ざけようとするもので、エリート意識が根底にあり、官憲主義の代表的態度と言えます。

以上の流れを考えると、小泉政権が行った『国民の総政治化=全体主義』は、安倍政権以後は続かず、2006年からは『国民の非政治化=官憲主義』に変わったと分かります。

だから「総政治化→非政治化」の転換は、この時にも起きていたわけです。

そうして、2009年に自民党が衆院選で敗れて、民主党への政権交代が起きました。

この政権交代は、「国民が新しい風を求めて、民主党の改革に期待して票を投じた結果である」と解説される事が多いです。

しかし私が当時に感じた印象は、そこまで能動的な意図の投票ではなかったです。

当時、自公政権(自民党+公明党の連立政権)が10年くらい行ってきた、競争原理を強調するアメリカ型の社会を目指す政治に、国民が疲弊しきっていました。

前回の日記(山本七平の周期説を今に当てはめてみる 日本政治を語る①)で述べたとおり、小泉政権の時から改革の名の下に、国民は過酷な競争に駆り立てられました。

この競争原理とか市場原理とか言う、弱肉強食の世界は、裏側を見ると自民党と深く結びつく企業が優遇される制度でもあります。

競争を煽られるが、勝つのは権力と結びつく者達という状況に、国民は失望しきった。

さらに自民党議員の不祥事、汚職、失言が次々と出てきて、途切れる事がない。

この状況に心底から嫌気がさした国民が、自民党を捨てて、民主党に票を入れた結果が、2009年の政権交代だと思うのです。

要するに、民主党の政策に共感したとか、民主党に期待したとかではなく、自民党の駄目さに呆れかえったのが、政権交代の最大の理由だと思います。

日本の政治を見ていて思うのですが、日本人は本当に保守的で、政権交代を病的なくらいに嫌いますね。

権力者に拝跪する傾向が強い。

だから2009年の政権交代は、国民によほどの覚悟があったのだと思います。

それだけ自民党の世襲を基礎に据えた、国民目線の絶無した「お坊ちゃま政治」に、怒りと失望を感じていたのだと推察します。

皮肉なのは、政権交代して首相になったのが、同じお坊ちゃまの鳩山由紀夫だった事ですね。

この事から考えても、民主党への政権交代は、国民が手放しに喜んだものではなかったと、私は見てます。

なお、私は当時、「政権交代が起きるかもしれない」とメディアが報じていても、それを信じてませんでした。

当時は他の事に忙しくて、政治にあまり関心が無くて情報収集が足りなかったのかもしれないが、世間で政治への関心が高まっていた実感が無いのです。

人々に政治意識の目覚めがあったとか、政治改革への情熱が盛り上がっていたという印象は無いです。

1990年代の前半は、私も強く感じるほどに政治改革の機運が高まりましたが、それと比べて2009年の盛り上がりは明らかに低かったと思います。

だから衆院選挙で民主党が大勝して、政権交代が実現した時、「本当に?!」と驚きました。

補足ですが、この政権交代は「民主党政権の誕生」と語られる事が多いですが、実際は社民党、国民新党との連立政権なんですよね。

まあ途中で社民党は離脱してしまったのですが。

今になると懐かしいのですが、あの頃は「マニフェスト」というものが重視され、流行してました。

マニフェストは、「選挙公約」のことで、自分たちが政権を獲ったらこれを実現させますという、国民との約束です。

民主党がこれを重視して、日本政界に一般化させました。

長い間日本では、政治家や政党が選挙戦で語る事は口約束で、選挙後にはケロッと忘れて実行しない、という事が横行してました。

これは今でもあるけど、昔はもっと露骨でしたね。

この悪しき政治文化を「変えなければいかん!」というので、「先進国にはマニフェストというものがある、これを日本でも導入しよう」という声が高まったわけです。

マニフェストの定着というのは、分かり易い政治改革で、私は大賛成の立場を堅持してます。

しかし現状の日本では、マニフェストを点検して「これも出来てない、あれも出来てない」と批判する事が多く、間違い探しに使われるみたいな事に成りがちです。

もちろん、マニフェストを実行しないのは国民に対する裏切りですが、批判材料にばかり使われる結果、「マニフェストを作るとかえって面倒になる、作らないで政策をはっきり述べない方がむしろ批判されない」と、自民党などが考えてしまった気がします。

マニフェストは国民との約束だから、とても大切ですが、固執しすぎるのも間違いだと思うのです。

正直なところ、マニフェストを100%実行するなんて、連立政権が基本の今の日本政界では絶対に不可能です。

連立政権を組むという事は、どこかの政策では連立相手の党に譲ることになるからです。

だからもっと国民は大人になって、実現しなかった政策ではなく、実現させた政策に注目する必要があると思います。

現在は、「民主党政権の時期は失敗だった」と言われがちですが(政権を握っている自公およびその支持者が、この評価を拡散している)、民主党政権が実現させた画期的な事はかなりあるわけで、簡単に失敗と決めつけるのは間違っていると思います。

民主党が分裂劇を起こして弱体化し政権を失うと、第二次・安倍政権が始まりましたが、安倍政権がマニフェストを重視しない結果、政権運営に対する評価基準が減り、やたらと安倍政権を盲信する人が増えました。

第二次・安倍政権は、やりたい事を公言せずに陰で行う事や、国民に対して平気で嘘をつく事を繰り返して、政治不信を増幅させました。

あれは、マニフェストの軽視と表裏一体でしたね。

政治に対する国民の信頼を回復させるためにも、マニフェストを復活させる必要があります。

今、「与党(自公)に責任感と緊張感がない」とよく指摘されますが、マニフェストの不在が影響していると思うのです。

マニフェストを掲げると、実行しないと叩かれますが、それが政治に緊張感を生むのではないでしょうか。

私は、民主党政権の時期をけっこう評価しています。
自民党政権よりもはるかにマシだったと思います。

まず民主党政権の時は、息苦しさが無かったです。

国政について国民が自由に発言できたし、その声がある程度は反映されていました。

国民の声に耳を傾けるのは、政治において当たり前の事ですが、第二次・安倍政権では行われないのが日常でした。

私が「民主党政権は国民の声を反映させようとしているな」と感じたのは、福島原発の事故後に、脱原発を求める声が高まる中で、原発政策をどうするかを市民に聞く、公聴会を各地で行った事でした。

当時は、東日本大震災と原発の大事故が起きて、日本中が大混乱していました。

福島原発事故は、一時は「東日本に住むのが困難になるのでは」との説が飛び交うほどの、深刻なものでした。

それで国民の多くが、日本政府の採ってきた原発推進の政策に疑問を持ち、脱原発を望むようになったのです。

しかし脱原発を具体的にどうするかでは、議論が百出して、国民もまとまらないし、与党内もまとまらないという状態でした。

それで民主党政権は、国民の意見を公けの場を設けて、吸い上げようとしたわけです。

あのような国の将来を決める重大な決定について、ごく普通の人々が意見を述べる場を政府が各地に作り、広く意見を求めるというのは、私の知る限りそれまでありませんでした。

原発事故という未曽有の出来事があったからとも言えるけど、もし自民党政権だったら行わなかったでしょう。

それで、市民が参加する公聴会が各地で開かれ、新聞でもそれが取り上げられましたが、意識の高い人が会に集まったようで、「原発を再稼働せずに廃炉にする」という意見が多くなりました。

しかし世論調査では、「脱原発を望むが、ただちに原発ゼロは難しい。将来的に原発のない社会にすべき」との意見が、国民の5割くらいでした。

私は当時、「多少とも生活が不便になろうが、ここは頑張って今すぐ原発ゼロに向かうべきだ」と思ってました。

福島原発事故の後、電力不足が心配され、政府から国民や企業に節電が要請されました。

それで、各家庭、街の街灯やイルミネーション、コンビニの照明など、至るところで節電の努力が行われました。

私は、この事を非常に好もしく見てました。

日本社会が消費に溺れ、不必要なほどに夜間にライトアップしたり、コンビニが「人が集まり易くなる」という理由でまぶしいほどの照明をつけている事に、私は原発事故の前から疑問を持ってました。

だから、「これで日本は、おかしな状態から脱却できる。無駄なエネルギー消費を無くして、地球環境に優しい生活に踏み出せる」と、嬉しく思いました。

そして、節電を日本全体で行った結果、原発が全く稼働しなくても停電にならない日々を送れたのです。

「原発事故は悲惨な出来事だったが、それにより日本人が謙虚さを持ち、電気などを乱用しなくなるならば、決して無駄な事ではなかった」と、当時に思ったものです。

公聴会では、原発ゼロの意見が多く出ていました。
しかし世論調査では、ただちに原発ゼロは難しいとの意見が多かった。
それで、民主党政権はどう決断するのかと、私は注目しました。

そうしたところ、「2030年代に原発ゼロにする」という、なんとも中途半端な、問題の先送りにも見える政策を、民主党政権は選んだのでした。

とはいえ、民主党は実質的に原発をほとんど再稼働させず、ほぼゼロの状態が続きました。

だから私は、「このままいけば2010年代には、原発は必要ないとの結論にまとまる。造られてから40年で廃炉というルールも出来たし、どんどん廃炉になっていき、実際には原発ゼロは2030年代を待たずに実現する」と思いました。

ところが2012年の末に政権交代が起きて、自公政権(第二次・安倍政権)が発足すると、原発は「ベースロード電源」と位置づけられて、必要ないのに原発再稼働が増えてしまったのです。

私は本を読んで知ったのですが、安倍晋三とその側近(今井尚哉)は、原発3大手の1つである東芝と癒着しており、東芝の原発政策に大きく肩入れしています。

こうした癒着や、自民党の長~く続いた原発推進の歴史のために、もはや必要のない原発が、既得利権を守るために温存されてます。

2012年12月の政権交代が起きた衆院選挙の時、安倍晋三・自民党総裁は原発政策について、「最大限の脱原発の努力をし、それでも無理ならば原発を再稼働する」と公約しました。

しかし安倍政権が始まると、どんどん脱原発の政策が減退していきました。

私は見ていて、「明らかなる公約違反だな」と思いましたよ。

私は、2012年12月の衆院選において、安倍晋三が党首討論などで上記の公約を語っている時から、彼の表情や声音や熱量から「実行する気はない」と見てました。

この衆院選では、原発政策をどうするかが大きな争点だったので、晋三(自民党)は曖昧な感じを保ちつつ脱原発を語るリップサービスをしたのでしょう。

私の見るところ、あれは分かりやすい嘘でしたが、騙されて票を投じた人はいたのかな。
安倍・自民党が選挙で勝ったのだから、きっとかなりの数がいたのでしょう。

今は2020年ですが、急速に世界レベルでクリーン・エネルギー(再生可能エネルギー)の技術が進歩し、普及が進んだ結果、日本は確実に原発ゼロを行える状態になっています。

もはや、この事に反論する人は、ほぼ居ないでしょう。

この現実を見ると、日本でどの程度のスピードで脱原発をするかが声高に議論された2011~12年に、「原発を直ちにゼロにできる」とか「2020年の原発ゼロを目指すべきだ」と述べた人達こそ、先見性のある正しい判断をした人々でした。

しかし当時は、国民の5割くらいは「原発ゼロが望ましいが、それを実現させるには長い時間がかかる」という意見でした。

「直ちにゼロにできる」とか「数年でゼロにできる」と述べた人達は、それを色んな数値で示したにも関わらず、トンガった人、極端な意見の人と見られていました。

先見性のある人が、トンガった人とか現実を見ていない人と評されてしまうのは、よくあります。

保守派を自称する人が、「左翼は現実を見ない、お花畑にいる」と言ってバカにするのは、典型的な事例です。

しかし、数年で状況がガラリと変わり、それまでの常識が完全に覆ることが、歴史上ではかなりあるわけです。

私の見る所、右翼とか左翼とか関係なく、先見力のある人が誤解されてバカにされるのは、しょっちゅうありますね。

私が問題だと思うのは、数年とか10年とか経ってみて世の中が変わり、自分が間違っていたと明白になった時に、「お花畑にいる」と他人をこき下ろした人が反省しない事です。

反省したり、過ちを認めて謝罪したりしないんですよね。
簡単に結論を出して、自分と違う意見の人をバカにする人って。

2020年の現時点で、原発は完全に時代遅れの発電方法になっています。

もし日本が2011~12年の時点で、「原発ゼロ」をはっきりと決断し、再生可能エネルギーの技術開発に注力したなら、今ごろ日本は再生可能エネルギーの技術大国になっていたでしょう。

それが2012年末に自公連立政権の安倍内閣になり、原発の再稼働や輸出に向かった結果、大きなチャンスを逃してしまいました。

これは分かりやすい失政です。

民主党政権の時期で、私が今でも強烈に憶えている出来事は、鳩山由紀夫・首相が普天間の米軍基地について、「最低でも県外」と発言した時の、大騒動です。

由紀夫は、沖縄県の人々が米軍基地に苦しめられているのを理解し、普天間基地の移設問題について「最低でも県外に移す」と発言しました。

この発言は、「沖縄県以外の都道府県に移す」という意味と、「国外に移させて、日本にいる米軍自体を減らす」という意味の、2つのメッセージが込められていました。

おそらく由紀夫としては、どっちでもいいんだよ、皆で議論して決めようじゃないか、との気持ちだったと推測します。

沖縄に在日米軍基地が集中している事は、誰もが知る事実です。

「そういう極端な状態はいかん、沖縄県民に悪いじゃないか」というのが、由紀夫の気持ちだったと思います。

これは、私は至極真っ当な考えだと思ったし、聖域扱いが続いてきた在日米軍基地をまな板に乗せた由紀夫の勇気に感心しました。

沖縄には、日本が敗戦した1945年からずっと米軍が駐留し続けて、様々な迷惑を県民にかけてきました。

米軍の起こした事故で、死者が出た事もあります。

日本の戦後では当たり前の景色になっていますが、冷静に考えるととんでもない人権侵害です。

その状態に終止符を打とうとするのは、日本政府の政策として不思議でも暴挙でもありません。

私からしたら、「これぞ政治改革。政権交代したからこそ実現できる、新政権が目玉にできる良い政策」でした。

ところがこの政策に、大手メディアや、親米派の政治家や評論家が、噛みついたのです。

異常なテンションの高さで、目を血走らせ、口から泡を飛ばしながら、ヒステリーとも見える心理状態で、猛反対を始めました。

前回の記事(山本七平の周期説を今に当てはめてみる、日本政治を語る①)で、「2005年の郵政解散選挙の時は、日本全体が異様な空気になった」と書きました。

あの時と同じ位に、「県外移設」を鳩山首相が提唱した直後に、日本全体が異様な空気に覆われました。

世論調査では7~8割くらいが、沖縄県外への移設に反対し、在日米軍の規模縮小にも反対しました。

ただ反対するだけではなく、鳩山首相への批判が一気に噴出し、政策への批判に留まらず、彼の人格への攻撃までが行われました。

国民の大多数が、鳩山首相の政策提案に対し、極端な拒絶反応を示して、総がかりで非難と罵声を浴びせたのです。

真面目に在日米軍基地の問題を取り上げ、まともな提案をした鳩山由紀夫が、大手メディアなどから袋叩きに遭うのは、見ていてとても気持ち悪かったですねえ。

在日米軍に触れると、ヒステリーやパニックを起こす日本人が多い事に、私は衝撃を受けましたよ。

県外移設に反対した人々が主張した事は、「日米同盟を危うくする」「アメリカを怒らせる」「安全保障について分かってない」「現実を見ていない」「戦後体制を崩してしまう」でした。

彼らの言う事は、まとめてしまうと「今までの体制を変えるな」でした。

「いや違うだろ、今までの体制を変えるから政治改革なんだろ。民主党は政治改革をすると説いて選挙で勝ち、政権交代したじゃないか」と私は思いましたよ。

自民党政権とは違う政策を実行してくれる、新しい事を始めてくれる、と期待して、有権者が民主党に票を入れた結果、政権交代が実現したのではないのか。

それまでの自民党政権の低レベルさに対する批判票が、民主党に入ったから政権交代したのも事実ですが、それだって「政治の在り方を変えてくれ」との1つの表明じゃないですか。

民主党政権が発足し、日本の諸問題の根っこにある「在日米軍」にメスを入れた途端、大手メディアなどが猛批判するのは、ずるいと思いました。

私からすると、驚異の変節であり、正に豹変に見えました。

大手メディアは、鳩山政権が誕生した時、「ついに政権交代が実現した。鳩山新政権に期待しましょう!鳩山首相はこんなステキな人なんですよ~」と持ち上げていました。

それが鳩山政権が普天間基地の県外移設を語り出したら、180度の方針転換をして、「誰があんな奴を首相にしたんだ」と言い出したのです。

私は、「お前らだろ、政権交代を煽ったのは。民主党政権が誕生した時、あんなに持ち上げたじゃないか」と呆れかえりましたよ。

大手メディアに顕著に表れた大豹変とヒステリックな非難の浴びせ方は、それに同調する形で多くの国民にも見られましたが、私は本当にびっくりしましたねえ。

沖縄の人々が米軍基地に苦しめられているのに、「現状を維持しろ」と国民の多くが主張したからです。

「何を考えてんだ、こいつら。日本人なのか、こいつら?」とまで思いましたよ。

結局のところ、自分の住む家の近くに米軍基地が移設してきたら、絶対にみんな嫌なんですよ。

「安全保障のために米軍が必要というなら、あなたの家の近くに造らせてくれ。そうしたら、あなたの家は米軍が守ってくれて安全になるじゃないか」と説いても、誰も首を縦に振りません。

米軍基地が危険で嫌なものだと、みんな分かっているからです。

「危険な存在で嫌だと思っているなら、日本から無くしてしまえばいい」と私は思うのですが、そこまでの割り切りも覚悟も出来ない国民が多い。

それで、沖縄県民という弱者に、嫌なものを押し付けて、その非人道的な行いを直視せずに逃げている。

「日本人のほとんどって、偽善者の根性なしで、最低の連中だな」と思いましたよ。

残念ながら、偽善者や根性なしの意見が大勢を占め、正論を唱えて日本人である沖縄の人々に寄り添った鳩山政権が、県外移設の撤回に追い込まれてしまった。

私は当時、絶句し、目が点になり、唖然としました。
「この異常な出来事は何なんだ!」と考え込まざるを得ませんでした。

そして考察してみて、『日本人の多くが、在日米軍を神のごとく崇めて、恐れている』と悟りました。

理屈じゃなかったんですよ、あの鳩山叩きと、米軍基地への執着は。
見ていて、それは明らかでした。

「在日米軍に意見したり手を加えたりするのは、畏れ多いことだ。そんな事も分からないのか鳩山由紀夫は」というのが、あの時に多くの人が発したエネルギー波でした。

歪んだ思考であり、それに染まってない私が吐き気をもよおすほどの、気持ち悪いネガティブな思考・信念でした。

歴史を振り返ると、日本はアジア太平洋戦争を始めて、連合国に敗れました。

それで連合国軍に日本を占領されて、その統治下に入りました。

連合国軍といっても、実質は米軍で、その占領下で戦後体制が作られたわけです。

だから、在日米軍を撤退させたり縮小させるのは、正に「戦後レジームからの脱却」です。

国民の多くが鳩山政権をこき下ろして、最終的に退陣にまで追い込んだのは、「そんな事をしたら、今の体制が変わっちゃうじゃないか」という心理が根底にありました。

『在日米軍を根拠にして、米政府が日本を指導する体制。この戦後体制が終わっちゃうじゃないか』、これが彼らの言い分をムキ出しにしたものです。

私からすると、「終わっていいんだよ、そんなもの。軍事力の脅しを使った、異常な体制じゃないか。日本の長い歴史で、こんな状態は例外中の例外だぞ」なんですけどねー。

外国軍を自ら駐留させて、その外国軍が無法な行いを続けるのを黙認する。

いざとなったら、自国民の人権を切り捨ててでも、外国軍に寄り添う。

「なんという異常な心理状態なんだ。バカなんじゃないか、こいつら」と、在日米軍・絶対護持の人々が不思議で仕方なかったです。

しかし日本史を勉強する中で、団塊の世代とか、戦後体制を身体一杯に浴びて生きてきた人々にとっては、「その体制を終わらせます」と言われると、自分を全否定された様に感じて不安になるのだと気付きました。

だから、洗脳というのは恐ろしいものですね。

戦前の日本国民は、全員が天皇の臣下に置かれて、天皇様のために生きるよう洗脳されました。

戦後になると、今度は米軍が来て、それまで神だった天皇を抱き込んだ。
そしてアメリカ様に忠誠を誓って、アメリカ文化と在日米軍を受容して生きるように、国民は洗脳されました。

「どちらも洗脳なんだよ。お前ら目を覚ませ!」と、声を大にして私は言います。

米軍が日本から撤収したら、日本は「どの国と同盟するか」や、又は「どことも同盟しない」かを、自分たちで考えて決める事になります。

大変な事に思うかもしれないですが、歴史を通じてずっと日本はやって来た事であり、出来ないわけがありません。

私が強く言いたいのは、『今の状態こそ、日本史の中で異常な時期であり、屈辱的な状況なんだぞ』です。

なぜ沖縄の人々(自国民)を切り捨てて、米軍(外国軍)を選ぶのか。

その心理の気持ち悪さと卑屈さに、気付いてほしい。

私は、鳩山政権(民主党政権)の打ち出した、普天間・米軍基地の「最低でも県外、できれば国外」という政策に、大賛成でした。

あれは素晴らしい、快心の政策だったのになあ。

当時の日本人の多くがそれを理解せず、大ブーイングの中で撤回に至ったのは、今でも残念でなりません。

あの時、皆が「最低でも県外、できれば国外」に賛同したら、きっと米政府と在日米軍は追いつめられ、在日米軍の縮小に繋がったでしょう。

そうなれば、今の辺野古問題も起きなかったです。

さて。

次は、第二次・安倍政権の時期に起きた事を書きます。

この時期に、「国民の総政治化=全体主義の運動」が行われた事を、書いていきます。

かなり長文になっているので、今回はここで終えて、続きは別記事にします。

この記事は、10月に書き始めましたが、その後にこのウェブサイト全体の改修作業に入った結果、そっちに時間とエネルギーを取られて、書き上げるのにえらく時間がかかりました。

すっと作成中の状態だったので、コロナの流行中だし、心配した方もいるかもしれません。

すいませんでした、私は元気にしています。

サイトの改修には、まだかなりの時間がかかるので、この記事の続きがいつに完成するか断言できません。

今ここを書いているのは、12月31日、大晦日です。

それでは皆様、良いお年を。


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