イスラエルが建国すると、ナショナリズムが高揚する
自由将校団は、1952年にクーデターを成功させる

(『中東戦争全史』山崎雅弘著から抜粋)

イスラエル建国時に見せた欧米の寛大な態度は、アラブ人の欧米への不信感を決定的にした。

すでにアラブ人にとっては、旧宗主国のイギリスやフランスは、「富を勝手に持ち去る泥棒」だった。

イスラエルが1948年に建国されると、アラブ世界には強烈なナショナリズムが起こった。

エジプトでも、第二次世界大戦の末期に結成された、若い軍人たちの秘密結社『自由将校団』が力をつけてきた。

この自由将校団の指導者が、後に大統領となるガマール・ナセルであった。

ガマール・ナセルは、1918年1月15日生まれた。

12歳の時に、意味も分からぬままに反英デモに加わり、投獄された。

そこで「青年エジプト党」の党員と知り合い、釈放後に入党した。

37年にナセルは、陸軍士官学校に入った。
彼は、歴史書を貪るように読みふけったという。

第二次世界大戦が始まると、ナセルはエジプト兵を率いてイギリス軍を支援し、ドイツ軍と戦った。

第1次中東戦争では、ナセルはエジプト軍の腐敗ぶりを目にした。

エジプト軍では、外国からの兵器購入時に、国王らが汚職をして私腹を肥やしていた。

第1次中東戦争が終了すると、ファルーク国王も対英協力の不利益を認識して、1951年10月にイギリスとの同盟条約を破棄した。

1952年7月23日に、ナセル中佐に率いられた自由将校団のメンバー300人は、カイロで無血クーデターを成功させた。

メンバーの多くは「ファルークを絞首刑にすべきだ」と主張したが、ナセルは「流血は、新たな流血をまねく」として却下した。

ファルークは、豪華な王室ヨットに美女たちを乗せて、エジプトを後にした。

(2014.2.24.)

(『インテリジェンス 闇の戦争』ゴードン・トーマス著から)

第二次大戦後になると、エジプト民衆は駐留するイギリス軍とイギリス政府を、ますます嫌悪するようになった。

だが、MI6のカイロ支部の人々は、相変わらずメンバー制の社交クラブでカクテルをすする日々だった。

その社交クラブには、CIA、NKVD(KGBの前身)、モサドなどの要員もたむろしていた。

モサドの諜報員は、元エジプト軍情報部の副長官から、カイロに隠れ住んだナチス・ドイツの残党のうち強制収容所でユダヤ人を使って人体実験をした科学者たちの名を、聞き出した。

間もなく、それらの科学者たちは、モサドの暗殺隊キドンの手で次々と殺されていった。

1948年にイギリスのパレスチナ統治が終わり、イスラエルが誕生すると、イギリスが支配を続けるエジプトの「MI6カイロ支部」の重要性が増した。

イギリスは、スエズ運河を支配する事で、アジアとの貿易および石油の輸送をスムーズに行っていた。

(スエズ運河は、地中海とアジアを結ぶ重要な運河である)

MI6カイロ支部長は、「 スエズ運河を支配している限り、ムスリムの集団が騒いでも大した事はない」と、ロンドンに報告していた。

1952年7月に、カイロでクーデターが起きた。

ムハンマド・ナギーブ将軍が率いる自由将校団は、3000人の兵士を引き連れて決起し、カイロの街を支配下に置いた。

腐敗しきっていたエジプト王ファルーク1世は、中央銀行から金塊を持ち出して、大型ヨットでイタリアに逃亡した。

MI6カイロ支部は、クーデターの直前まで「軍は国王に忠誠を誓っている」と報告しており、ナギーブ将軍の資料さえ持っていなかった。

クーデターが起きると、アメリカのCIAは、OSSでアラブ地区の指揮官だったカーミット・ルーズベルトを送り込んだ。

(OSSは、CIAの前身である)

これは、国務長官ディーン・アチソンの命令で行われ、カーミットの任務は『エジプトの支配権をイギリスから奪う工作を始めること』だった。

すでに、CIAのカイロ支部は、クーデターに加わった将校たちと交渉を始めていた。

CIAの工作対象となった1人に、ナギーブ将軍の右腕で国粋主義者の将校、ガマール・ナセルがいた。

ナセルは30代前半だったが、生来の雄弁家でカリスマ性があった。

カーミットはナセルに、「エジプトが西側諸国の一員になって政治的に安定するなら、アメリカは可能な限りの援助をする」と持ちかけた。

この提案は、アメリカがエジプトのメインバンクになり、軍備の供給者となる事を意味していた。

カーミットは、CIAの『外国要人の買収用の資金』から、ナセルの指定した銀行口座に、当時のカネで1200万ドルを送金した。

カーミットは要人買収を得意技とし、「影響力を及ぼす最も速くて確実な方法だ」と述べている。

ナセルは、イギリス人たちの贅沢な生活ぶりと高慢な態度に、怒っていた。

10代の時には反英デモに参加して逮捕された事が2回あり、その時は警官に警棒で顔面を殴られ、馬のムチで打たれていた。

そしてナセルは、「いつの日かイギリスを追い出す」との思いを同じにする将校たちと、小さなグループ(自由将校団)を結成したのである。

カーミットはナセルに対して、「エジプトがイギリスのくびきから自由になるには、ナギーブ将軍では力不足だ」と説いた。

1954年になると、ナギーブは政争に敗れて退場し、ナセルが新大統領になった。

(2015.5.13.)


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