ナセルはイギリス支配から脱却するために、
ソ連に接近する

(『中東戦争全史』山崎雅弘著から抜粋)

大統領になったナセルが重視したのは、イギリスからの脱却だった。

スエズ運河地帯には、8万人のイギリス兵が駐留し続けていた。

ナセルは、大統領になる前の1954年10月19日に、イギリスと協定を結び、「56年6月20日までに、全イギリス兵はエジプトを去ること」で合意していた。

イギリス政府は、スエズ運河の大株主は英仏両国だし、運河の自由航行を保障されていたので、撤兵を受け入れた。

しかし、「イギリス兵が撤兵すると、エジプトの対外進出が増す」と憂慮したイスラエルは、カイロでテロ活動を開始した。

55年2月28日には、パレスチナにおけるエジプト軍司令部が、イスラエル軍に攻撃された。

55年の初め頃からは、ガザ地区で、エジプト軍の訓練を受けたパレスチナ難民のテロ組織「フェダイーン」と、イスラエルの第101特殊コマンド(指揮官はアリエル・シャロン中佐)が銃撃戦を開始した。

ナセルは、アメリカから兵器を購入しようとした。

しかし、アメリカは『三国宣言』(米・英・仏が、中東への武器供与を制限する協定)を盾にして、拒絶した。

追い詰められたナセルは、それまでの反共姿勢をかなぐり捨てて、ソ連に接近した。

そしてチェコスロバキア経由で、大量のソ連製兵器を手に入れた。

これにより、中東の軍事バランスは一挙に変化した。

ソ連は、スターリン時代にはイスラエル支持を採っていたが、その後はアラブ諸国寄りへと転じていた。

この動きは、すでに中東で勢力拡大を図ってきたアメリカを、イラ立たせた。

(2014.2.24.)

(『インテリジェンス 闇の戦争』ゴードン・トーマス著から)

ナセルは大統領に就任して1ヵ月後に、「エジプトがイギリスと同盟関係を続けてほしいなら、イギリス軍は1956年6月までにスエズ運河から撤退するのが条件だ」と、MI6(イギリスの対外情報機関)に通告した。

この通告は、CIA高官のカーミット・ルーズベルトの助言によるものだった。

これを受けてイギリスの右翼は勢いづき、スエズ運河からの撤退を拒否する有志が集まって「 スエズ・グループ」(後のエジプト委員会)が結成された。

このグループのメンバーには、『統合インテリジェンス委員会』の高官もいた。

(統合インテリジェンス委員会は、MI5やMI6を監督する組織である)

こうした中、次期イギリス首相への就任が決まっていたアンソニー・イーデンは、中近東諸国へ歴訪の旅に出た。

イーデンの目的は、イギリスが中近東の防衛に加わることを保証する条約を結ぶことだった。

(ソ連が中近東に進出してきており、イギリスは自分の持つ石油利権を守ろうとして軍事条約の締結を目指したのである)

イーデンは55年4月にバグダッドで条約を成立させる計画だったが、それにはエジプトの参加が必要だった。

なぜなら、エジプトに駐留するイギリス軍が、中近東の防衛(実際には軍事支配)に必要だったからである。

イーデンとナセルは会談したが、ナセルは署名を拒否した。

ナセルはイギリスに対抗するために、ソ連に接近した。

チェコスロバキアから、ソ連製のジェット戦闘機や戦車を購入した。

カーミット・ルーズベルトは、イギリスにどう対処したらよいかを助言し続けていた。

この頃になると、アメリカのワシントンでは、「カーミットの努力にも関わらず、エジプトはソ連に接近している」と考え始めた。

(2015.5.13.)


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