第2次中東戦争(1956年10月~11月)

(『中東戦争全史』山崎雅弘著から抜粋)

1956年10月29日に、イスラエル軍はシナイ半島に進撃して、エジプトへの侵攻を行った。

『第2次の中東戦争』の始まりである。

シナイ半島は、アジアとアフリカを結ぶ架け橋であり、大部分は不毛の岩山と砂漠である。

半島を横断するルートは、4つの街道に限られる。

英仏は、イスラエルと協力する事を約束しており、英・仏・イスラエルの3国はエジプト侵攻作戦の最終的な打ち合わせを、56年10月24日にしていた。

その作戦は、次の内容だった。

① 10月29日に、イスラエルがエジプトに侵攻する。

② 英仏両国は、イスラエルとエジプトに即時停戦を要求する。

  同時に両国は、スエズ運河を守るという目的で、スエズ運河に
  進駐することを申し入れる。

③ イスラエルは、両国の提案を受け入れる。

  そして、英仏はスエズ運河を占領する。

英仏は、「この作戦ならば、スエズに侵攻しても非難されない」と考えた。

英仏両国は、計画通りに調停者を装い、イスラエルとエジプトに対して「スエズ運河から兵力を撤退させなければ、我々は武力で運河の安全を確保する」と通達した。

この時点では、イスラエル兵はスエズ運河に遠く及ばないシナイ半島におり、実質的には「スエズ運河からエジプトは手を引け」との内容であった。

ナセルは、当然ながら拒否した。

56年10月31日に英仏は、空軍を使って、エジプト各地の空軍基地にじゅうたん爆撃をした。

エジプト国民は、スエズ運河を再び強奪しようとする英仏を見て、ナセルを強烈に支持した。

ここで英仏は、思わぬ反発に遭遇した。

アメリカのアイゼンハワー大統領が、英・仏・イスラエルの行動を厳しく非難したのである。

本来ならばアメリカは、英・仏・イスラエルへの支持を表明してもおかしくない。

しかしこの時は、ハンガリーで民衆のデモが広がっていた。

ソ連からの脱却を目指すハンガリー国民のデモに対して、ソ連は戦車部隊を投入して武力で鎮圧し、数千人の死者と20万人の亡命者が出ていた。

アメリカは、ソ連がハンガリーで行っている暴挙に、世界の関心を集めようとしていた。

結果としては、英・仏・イスラエルのエジプト侵攻は、ソ連の暴挙のインパクトを大きく弱めました。

イギリス国内でも侵攻に反対する世論が高まった事もあり、英仏両国は56年11月6日に、国連の停戦決議案を受け入れて、侵攻を中止した。

イスラエルもまた、11月8日に停戦決議案を受け入れた。

英仏軍は、12月22日までに撤兵を完了し、イスラエル軍も翌年3月8日までにすべての兵力を撤収した。

(2014.2.25.)

(『インテリジェンス 闇の戦争』ゴードン・トーマス著から)

1956年7月26日に、エジプトのナセル大統領はスエズ運河の国有化を宣言した。

ナセルは演説で極めて冷静だったが、エジプト軍情報部から「イギリスは軍事行動に出ないようだ」との報告を受けていた。

ちょうどその時、ロンドンの首相官邸では、イラク王ファイサル2世を歓待していた。

ナセルの発表が知らされると、ファイサル2世に随行していたイラク首相は、こう言った。

「イーデン首相、あなたが取る道は1つしかありません。エジプトを攻撃することです。さもないと手遅れになります。」

(当時のイラクは、親英米の勢力が権力を握っていた)

イーデンはにやりと笑い、「ナセルなど恐れるに足らずだ」と応えた。

その後、イギリス政府は、『エジプト委員会(旧スエズグループ)』のメンバーが官邸に集まって会合を開いた。

イーデン首相は感情を爆発させ、「何が何でもあの男を取り除くのだ! エジプトが混乱に陥って無政府状態になってもかまわん!」と叫んだ。

会合では、軍事力の行使が決められ、アメリカをこの計画から外す事も決定した。

だが、アメリカを外した事は、後に重大な結果をもたらすことになる。

ナセルを倒してスエズ運河を奪うため、英・仏・イスラエルは協力関係を強めた。

英国のMI6は、モサドとの連携を強めるため、諜報員をテルアビブに派遣した。

その諜報員の最初の仕事は、イスラエル首相ベングリオンがイーデンと直接話ができるように、通信回線を開くことだった。

モサドのイセル・ハレル長官は、このMI6諜報員のために、モサド本部内にオフィスを提供した。
このような事は、モサドでは前例が無かった。

イーデン首相は、フランスのモレ首相と電話会談をし、「イスラエルがエジプトに先制攻撃をかけるには、それなりの理由が必要だ」という点で一致した。

そこでモサドは、外国メディアに「ナセルはイスラエルに組織的な攻撃を仕掛けようとしている」との偽情報を流した。

MI6も、キプロス島とアデンに設置しているラジオ局から、「イスラエルは、エジプトから攻撃されかけている」との偽情報を流した。

56年9月になると、中東各地のラジオも「戦争が間近い」とのMI6が作った情報をいっせいに流し始めた。

英仏は、イスラエルとエジプトが戦争を始めたら、1950年の『英仏米の3国宣言』を根拠にして、平和維持を目的にスエズ運河に出兵すると決めていた。

1956年10月22日に、イスラエルとイギリスの政府要人を乗せた軍用機が、パリ近郊の軍用飛行場に着陸した。

そして、イスラエルのベングリオン首相、イギリスのロイド外相、フランスのモレ首相、などを中心にして、『エジプト侵攻のための秘密会談』が行われた。

秘密会談では、次の合意がまとまった。

① まずイスラエル軍の地上部隊が、スエズ運河まで侵攻する

② イギリスとフランスは、エジプト軍とイスラエル軍の
  引き離しを名目に、平和維持軍としてスエズ運河に入ること
  をナセルに迫る

③ 英仏軍がスエズ運河に上陸したら、イスラエル軍はシナイ
  半島まで撤退する

④ ナセルが英仏軍を拒否したら、英仏は共同で大部隊を
  エジプトに送り、スエズ運河を占領する

3国の大臣は合意書に署名し、内容は永遠に機密とされた。

フランス情報部が持ち帰ったコピーは、フランスDGSE(対外治安総局)の資料室に保管されている。

アメリカは、3国のあやしい動きを察知していたが、「イスラエルがヨルダン侵入を計画し、その支持を得ようとフランスと交渉している」と推測していた。

その話も、モサドが流した偽情報の1つだった。

イスラエル軍がエジプト国境に移動すると、10月28日にアメリカは「なぜ国境に移動したのか」と、イスラエルに説明を求めた。

翌日にイスラエル軍は、エジプトへ侵攻を開始した。
CIAは偵察機を使って高々度から進撃を撮影していたが、その速さに驚いたという。

侵攻作戦に関わったモーシェ・ダヤンは、「我々は進路をすべて綿密に考え抜いていた」と語っている。

アメリカのアイゼンハワー大統領は、事態を知ると、蚊帳の外に置かれたことを裏切り行為と受け取った。

一方カイロでは、ナセルが大群衆に向かって演説をし、国民に徹底抗戦を呼びかけた。

イギリス空軍が空爆を始めると、アイゼンハワーは声明を出して「すべての軍事行動を中止しなさい」と要求した。

だが、その4日後には、イギリス軍の空挺部隊がスエズの町にパラシュ-ト降下を始めた。

11月7日には、数万人の英仏上陸部隊を乗せた船団が、スエズ沿岸に到着した。

その晩、ソ連のブルガーニン首相は、英仏イスラエル3国に対して「ただちに軍を撤退させなければ、ソ連はエジプトにいるイスラエル軍に核ミサイルを使用する」と警告した。

これに対してアイゼンハワーは、「もしそのような事をしたら、アメリカはソ連に照準を合わせている核ミサイルを発射する」と応じた。

ブルガーニンは発言を後退させ、怒りをハンガリー動乱の残虐な鎮圧に向けた。

これにより、ブダペストの町では数千人の死者が出た。

アイゼンハワーは、英仏に圧力をかけるために、アメリカの石油会社が南米から英仏に運んでいた石油を止めた。

さらに、外国為替市場に介入して、イギリス・ポンドとフランス・フランをドルで支えるのを停止した。

ポンドとフランは危機に陥り、英仏軍は12月22日までに撤退を始めた。

間もなく、それと入れ替わりに、国連の平和維持部隊がスエズ地帯に入った。

イギリスのイーデン首相は、責任を取る形で辞任した。

英・仏・イスラエルにとって、アメリカとソ連が共にナセルの側についたのは、大きな誤算だった。

この後、エジプトとソ連の関係は強固になり、1970年にナセルが死ぬまで続く。

(2015.5.14.)

(『タックスヘイブンの闇』から抜粋)

第2次中東戦争の時にアメリカは、英仏の帝国主義がアラブ世界をソ連との提携に追いやるのを危惧して、イギリス・ポンドが売り浴びせられたのにイギリスを支援しなかった。

イギリスは、1956年10月20日~12月8日の間に4500億ドルの外貨準備を失い、財政は破綻寸前まで追い込まれて、撤退するしかなくなった。

デイヴィッド・キナストンは、「この事件は、イギリスの終焉を思い知らせた」と書いている。

数ヶ月後には、ガーナはイギリスから独立した。

第二次世界大戦の終結時には7億人の外国人を支配していたイギリス帝国は、植民地が次々と独立していき、1965年には5000万人の人口に縮小した。

(2014.3.13.)


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