タイトルMセクションという諜報・謀略機関
そこのスパイにさせられた男

(以下は『ナチスを売った男 ジェームズ・ボンド作戦』クリストファー・クライトン著から抜粋)

🔵序文からの抜粋

この話(この本の中身)を公表することについて、私はウィンストン・チャーチルとルイス・マウントバッテン卿から、書面による許可をもらった。

ただし両人は、それは自分の死後にしてほしいと念を押された。

またかつての私の同僚であるイアン・フレミングからも、この物語の公表を促す手紙をもらったが、その中で彼は「ジェームズ・ボンドの小説の発想の源は、この作戦にあった」と明かした。

私は、(ナチスの最高幹部である)マルティン・ボルマンをベルリンから強制連行したこの作戦を、ついに公表すると決心した。

ただしボルマンが握っていた巨大なナチス財産の行方は、今もって不明である。

(※本書を読むと分かるが、英米の支配階級がナチス財産を入手した)

ナチス財産を手に入れるためには人殺しもいとわない人間もいるので、私を含めて作戦を担当したチームのメンバー全員について、まだ生存している者は本書では変名を使った。

この作戦を書いたものを、1970年代に最初に刊行した時は、「Mセクション」やイアン・フレミングに触れることはできず、デズモンド・モートンの名前も出せなかった。

その後、この作戦を裏打ちする事実が発表されてきて、真実と立証できるようになった。

それでも本書では、ヨーロッパの古参の政治家の要望で、いくつかの出来事は書けなかった。
いつの日かそれも発表できればと思う。

この作戦の時、フレミングはすでに36歳だったが、我々はまだ20代だった。

ボルマン連行作戦は、トップ・シークレットだったため、その記録はほとんど残っていない。

しかし私は、Mセクションが保管している、いくつかの文書や資料を見ることができる。

また私は特別に、マルティン・ボルマンを尋問した報告書も見せてもらった。

この報告書は、1945年5月から46年初頭までにまとめられた、800ページの文書である。

🔵ここからは本文の抜粋である。

私は1945年1月の時点で、まだ20歳だったが、すでに多くの秘密作戦をこなしていた。

私は、英国海軍ではクリストファー・クライトン大尉で、スパイとしてドイツ政府に接触し、そこでは売国奴のジョン・デイビスー等兵になっていた。

この2つの肩書は、私のボスである、Mセクションの創設者で指揮者でもあった、デズモンド・モートン大佐が作ったものだった。

私は1945年1月23日に、アイルランドのダブリンで、ドイツの諜報部の高官と会った。

私の目的は(任務は)、ドイツの外相であるヨアヒム・フォン・リッベントロップに再び会うことだった。

私は英国を裏切ったジョン・デイビス一等兵として、彼らと会談した。

そのドイツ高官はリッベントロップの密使で、私が情報を渡し、その見返りにスイスの私の口座に大金が入るという交渉をした。

その密使が、「リッベントロップがあなたに会いたがっている」と言うので、私は「ドイツに行く」と約束して別れた。

私はすぐに英国に戻り、ボスであるテズモンド・モートンに「ドイツとの接触が上手くいった」と報告した。

私が諜報の仕事についたのは(スパイになったのは)、父の影響である。

私の父はケンブリッジのクライスツ・カレッジに進学し、そこで19歳の海軍中尉ルイス・マウントバッテン卿と親しくなった。

このカレッジは、特待生のヨーク公爵(後のジョージ6世)と、その弟のヘンリー王子(後のグロスター公爵)もいて、父は同じサークルに入った。

なおルイス・マウントバッテンのいとこが、ヨーク公爵である。

父の友人には、シャンペンのセールスマンで、外交官でもあった、ヨアヒム・フォン・リッベントロップもいた。

父は若い頃にフランスの中学校に留学したが、そこに特別生徒としてリッベントロップがいたのが縁の始まりだった。

この友情により、1930年代にリッベントロップは、しばしロンドンのわが家を訪れていた。

当時のリッベントロップの肩書きは、ヒトラーの全権外交使節、もしくは駐英ドイツ大使である。

1936年のことだが、当時12歳の私の遊び相手に、リッベントロップがなってくれたこともある。

Mセクションのボスであるデズモンド・モートンは、私が家の古くからの友人だった。

モートンは1891年の生まれで、イートン校を卒業すると、ウリッジ陸軍士官学校に進んだ。

第一次世界大戦で負傷すると、戦後は情報部に所属し、1930年に「産業情報センター」を設立した。

産業情報センターは、表向きはビジネス団体だったが、実は「Mセクション(モートン・セクション)」という諜報・謀略組織をつくるための団体だった。

Mセクションは、歴代の英国王(ジョージ5世、エドワード8世、ジョージ6世)が、英国政府の管理の外で抱える、極秘の諜報・謀略用の機関となった。

Mセクションは創設すると、モートンの親友であるウィンストン・チャーチルの熱心な支援を受けた。

Mセクションが活動を始めた1932年は、チャーチルは首相の座にはいなかったが、2人は近所に住んでおり、頻繁に情報を交換した。

モートンは貴族的なスコットランド人で、ローマ・カトリック教を熱心に信仰していた。

それで1930年代の初めに、モートンのすすめで私の両親はカトリックに改宗した。
この時、モートンは私の2度目の命名式で名付け親となった。

その後、1932年に私の両親は離婚した。

離婚すると、モートンは私の後見人となり、私は彼を「おじさん」と呼ぶようになった。

1939年になると、モートンの私への教育がどんどん陰湿になってきた。

これは、その年の夏に私のもう1人の代理おじであるリッベントロップが、ドイツの外務大臣になったためだ。

私とリッベントロップの関係をよく知っていたモートンは、私をスパイとして使うことを考えたのだ。

私は15歳の時、1939年8月に、黒衣の天使(私がそう名付けた存在)を初めて見た。

北フランスのある礼拝堂から出ようとすると、ポーチに黒い姿が立っていて、私の名を呼ぶではないか。

私は恐くなり、神に祈った。

すると心の中で、その黒い者が話しかけてきた。

「すぐにお前は私のものになる。生きたままでだ。

お前は始まろうとしている国際紛争(戦争)に、私の影響をもたらすことになろう。

お前は私に仕えるのだ。戦争の名において、お前は犯罪を犯す。

勝利の名において、そして私の名において、お前は悪事を働く。

お前は私の死の天使の一人になるのだ。」

私はたしかに黒衣の天使を見たし、また姿を現すように思えた。
そしてその黒い姿は、何週間か後にも、さらに何ヵ月か後や、何年も後にも、しばしば現れた。

私が黒衣の天使を見たその夜、私は英国に呼び戻され、翌日にモートンに会った。

モートンは「君は海軍に入るんだ」と命じた。

その夜も、黒衣の天使が夜中に現れて、私の下僕になれと求めてきた。
私の身体は麻痺したように動けなかった。

私がスパイとなる手始めは、マウントバッテン卿とダドリー・バウンド提督の直々の許可の下で、変名で英国海軍に就職することだった。

1939年9月に15歳の私は、変名でダートマスの英国海軍兵学校に入学した。

スパイ活動では、変名が当たりまえで、軍に入る時から変名を使うこともある。

スパイとなった者の仕事は、欺瞞、殺人、裏切り、暴虐、神や礼儀や友情の完全否定であった。

マウントバッテン海軍提督は、私に「常に変名を使え」と命じ、ダートマス兵学校の大佐に対し「奴がうっかり変名を忘れたら必ずどやしつけろ」と命じた。

私をスパイにしたモートンとマウントバッテンは、私の母には一部だけだがその事を伝えたが、父には明かさなかった。

父は外科医として働き、人間として優しく温かい人だった。
それゆえに、私に課せられた異常な役割を知れば、黙っていることができなかっただろう。

だからモートンたちは父には隠したのである。

モートンの要請で、私は1940年3月にダートマス兵学校をやめて、Mセクションで働くことになった。

私が初めて作戦に参加したのは16歳で、アイルランドのドニゴール州にあるドイツ軍の潜水艦基地(Uボートの補給基地)への攻撃を指導した。

この作戦で私は初めて人を殺し、4人を殺したが、そのうち3人は素手でだった。

1940年10月に次の段階として、モートンは私を訓練パイロットとして英国空軍に入れた。

しかし私と仲間が受けた訓練は、飛行機の操縦ではなかった。

我々が受けた訓練は、落下傘、素手での格闘、殺人術、ナイフ術、武器や爆発物の使い方、破壊活動、水泳、カヤックの乗り方、暗号コードや無線電信の使い方、などだった。

Mセクションにおける「文書処分・変造・偽造」のユニットは、私の変名であるジョン・デイビスの記録を改竄し、犯罪記録を加えた。

私は15歳の時点で、英国嫌いの熱烈なドイツ支持者に、軍の記録の操作で作り上げられた。

この事は後に、私が英国の裏切り者だとドイツ人に信じさせるのに役立った。

父は、私の偽造された軍歴を本当のことだと信じたので、私は父との関係がおかしくなった。

その悩みをウィンストン・チャーチルに伝えると、彼はこう言った。

「何よりも、個性のない若者という君の評判を守るんだ。
もし誰かが別の評価をしだしたら、君はもうおしまいだ。」

(以上は2025年7月23日、30日に作成)


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