タイトルMセクションの行った謀略

(以下は『ナチスを売った男 ジェームズ・ボンド作戦』クリストファー・クライトン著から抜粋)

私は、後見人となったデズモンド・モートンの下で、彼が指揮する英国の秘密の謀略機関である「Mセクション」のスパイになるよう訓練された。

そして10代の時からスパイとして働き始めた。

私の人生を振り返ると、第二次大戦中はずっとモートンの操り人形だった。

彼の命令で多くの工作活動に参加し、その結果を思うと今でも罪の意識にさいなまれる。

私はモートンの命令で数々の工作を行ったが、その流れで1945年の初めに、マルティン・ボルマンをベルリンから連行する作戦において、現地指揮官の1人に選ばれた。

(※このボルマン連行作戦については別ページに書く)

ここでは、私が英国人の裏切り者ジョン・デイビスとなるためのイメージ作りに寄与した、私がモートンから命じられた作戦を話す。

1942年の初めに、デズモンド・モートン、ウィンストン・チャーチル首相、連合軍最高司令官のアイゼンハワーは、ドイツ軍が押さえている英仏海峡の港の1つを攻撃して、その戦闘力を探ろうとした。

すでに連合軍は、ナチスが支配するヨーロッパ大陸に攻め込むことを計画しており、ドイツ軍が港をどのくらいの兵力で守れるかを知りたかったのである。

この作戦は、奇襲では目的を果たせなかった。

謀略機関「Mセクション」を率いるモートンは、ドイツ軍の諜報部「アプヴェール」に信頼されるスパイを作ろうと努めていた。

特にその長である、ヴィルヘルム・カナリス提督を目標にしていた。

そこでモートンは私に、「カナリスと接触して、英仏海峡の港ディエップへ英国軍が攻め寄せる日時を漏らすように」と命じた。

私はアイルランドのダブリンに行き、ドイツ公使館と接触した。

その接触で約束した場所に行くと、私はドイツ人に拉致されて、別荘に監禁された。

もし私の経歴がMセクションの工作で犯罪歴に染められていなかったら、さらに私の父がリッベントロップの友人で、私もリッベントロップの知人である過去が無かったら、私は処刑されていただろう。

私は、ベルリンにいるカナリスの許へ連行された。

余談になるが、モートンによれば、カナリスは有名なスパイとなったマタハリの恋人で、マタハリをスパイとして死なせたのは彼だという。

カナリスは私に会うと、詰問した。

「なぜ君は自分の国を裏切るのだ?
なぜ私に情報を与えようとするのかね?」

私は言った。

「カネがほしい。私は父を憎んでいるし、英国の制度も嫌悪している。」

この作り話は、眠っていても暗唱するくらいに、私は事前に訓練されていた。

カナリスは「まだ信用できない」と言いつつも、私が提示した情報料1万ポンドを支払った。

それで私は、英国軍がディエップを攻める日時を教えて、金を受け取り、英国に戻った。

1942年7月の終わりに、私はまたドイツに行って、ディエップに英国軍が侵攻する作戦の最新情報を教えた。

8月19日にその作戦は行われた。

作戦が実行された日、私はディエップのドイツ軍の砦にいて、手錠をはめられていた。

その日、午前3時頃にカナリスが現れて、「(お前の言う通りに)攻撃が6時までに開始されなければ、お前を殺す」と言った。

時間通りに攻撃は始まったが、私は連合軍(※英国軍以外も作戦に参加した)が待ち構えるドイツ軍に虐殺されるのを見ることを強いられた。

私は、カナダ軍の戦車が破壊されていき、300名ほどの兵士が死ぬのを見た。

15時になると、カナリスは(残りの支払い金である)1万ポンドを私に渡し、「君はすごい仕事をした」と言った。

だが彼の口調は冷たく軽蔑に満ちていた。

私は自己嫌悪を感じながら、死傷者が横たわる海岸を歩き、帰国の途についた。
海岸に倒れている兵の多くは瀕死の重傷だったが、何の手当もされてなかった。

私は、自分が英国王と英国政府の命令で行った裏切りに絶望し、心の底から死にたいと思った。

私は罪の償いのつもりで、もらったカネを海に捨てた。
ただしモートン言われていたので、彼に渡す用の1枚は残した。

帰国してモートンに一部始終を報告したが、モートンは私に同情したりしなかった。

なおモートンに渡した1枚は、偽造紙幣だと分かった。

このディエップへの攻撃計画をドイツ軍に漏らした件では、その裏切りで連合国軍の4千人が犠牲になった。

私がこの件を、攻撃作戦の最高司令官だった海軍中将のルイス・マウントバッテン卿に報告した時、軍法会議で有罪になるのも覚悟していた。

ところがマウントバッテンは「すべてを承知していた」と言い、「君は上々の首尾で作戦を遂行した」とねぎらったのである。

私の行った次の作戦に話を移す。

1942年10月に私は、パリに行き、フランスにおけるSS(ナチスの親衛隊)のボスであるエルンスト・カルテンブルンナー将軍に会った。

それから私は連行されて、長距離の移動をし、リッベントロップにも会った。

その場にはなんと、ヒトラー総統もいた。
ディエップへの侵攻を事前に知らせた功績が、ヒトラーに認められた結果だった。

この時は、私のすぐ近くにヒトラーはおり、(私はスパイの訓練として殺人術も学んでいたので)3秒で彼の首の骨を折ることができたと思う。

しかし私がデズモンド・モートンから命じられていたのは、ヒトラーの殺害ではなかった。

私はヒトラーたちに、連合軍が北アフリカではなく、ノルウェーを攻撃しようとしていると伝えるために、ドイツに来たのだ。

ヒトラーはドイツ語で何か言い、微笑んで片手を私の頬に当てた。
ディエップでの私の働きを褒めていると分かった。
ヒトラーは上機嫌で、元気に見えた。

私が連合軍のノルウェー作戦を話すと、ヒトラーはリッベントロップに向かって「ほら、言った通りだろう。私の言った通りだ」と叫んだ。

この会談でヒトラーは何度も私に親愛の言葉を吐き、英国がドイツの領土になったら私が果たす職務についても話した。

(※こうした権力欲の強い独裁者タイプの人間は、口が達者で調子のよいことを言う。読者は覚えておいてほしい。真に受けてはいけない。)

私は後になって、この会見にはマルティン・ボルマンも同席していたと知った。
私はまだボルマンという人物は知らなかった。

(以上は2025年7月30日に作成)


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