(以下は『ナチスを売った男 ジェームズ・ボンド作戦』クリストファー・クライトン著から抜粋)
1943年の初めに、英国のルイス・マウントバッテン卿は、「COPP(連合作戦指導党」という秘密のユニットに私を加えた。
この党は、「マウントバッテンの個人的な海軍」と呼ばれ、35名の者から成っていた。
私はここに加入することで、英国中枢の秘密情報も扱うことになった。
1944年の初めに、Mセクションを率いるデズモンド・モートンの命令で私は、ナチスの連絡相手に「連合軍が計画しているヨーロッパ上陸の大作戦の詳細情報を提供できる」と伝えた。
モートンの指示に従い、情報料は10万ポンドと相手方に伝えた。
ナチスと接触する前、1944年5月5日にモートンのオフィスで、「連合軍のヨーロッパ上陸は6月5日の夜明けで、場所はフランス北部のパ・ド・カレだ」と私は聞かされた。
モートンは私の頭に、「上陸地点はパ・ド・カレ」だと、繰り返し叩き込んだ。
念入りにもオフィスの壁には、その地域の地図がかけられていた。
このとき私は、実際の侵攻地点がノルマンディーであることも、モートンに騙されていることも、全く知る由もなかった。
1944年5月11日に、アイゼンハワー連合軍最高司令官の命令で、ドーセット州のスラプトンの海岸で、Dデー(ヨーロッパ上陸作戦を行う日)に向けた演習が行われた。
しかし3隻のドイツ軍のEボート(魚雷艇)に見つかって攻撃され、420名の米軍人が死亡した。
この事件を隠蔽することが連合軍の最高レベルで決定され、アイゼンハワーはモートンに託した。
モートンは、この事件を目撃したすべての男女を集めて、拘束した。
そのうち30名はワイト島の沖に船で運び、船ごと機雷で沈没させて殺した。
私は上述とおり、Dデーについてドイツ軍に伝えるよう、命じられた。
それで5月22日に、ロシュフコー公爵の城で、ドイツ軍のエルヴィン・ロンメル陸軍元帥に会った。
ロンメルは礼儀正しい人で、その眼差しは相手を射抜くように鋭かった。
彼の存在感は強烈で、私の心の底まで見とおしているようだった。
私はモートンに指示された通りに、「連合国の侵攻場所はノルマンディーのセーヌ湾です。日時は6月5日の早朝です。」と、ロンメルに話した。
私は侵攻場所はパ・ド・カレだと信じていて、偽情報を伝えたつもりだった。
ロンメルは強いなまりの英語で「裏切り者のユダめ!」と私を罵り、「お前の祖国、家族、友人を裏切って、いくら欲しいのだ?」と訊いた。
「10万ポンドです」と私は答えた。
ロンメルは言った。「どうして君を信じなきゃいけないんだ? 我々のすべての情報が、(侵攻場所は)パ・ド・カレだと言っている。」
私とロンメルが話していると、その部屋にSSの将軍が入ってきて、「ヒトラー総統の所から参りました」と言った。
この将軍が言った。
「君はジョン・デイビス一等兵でなく、英国情報部のクリストファー・クライトン大尉だな。我々は証拠を握っている。君を逮捕する。」
ロンメルは、私が売国奴ではなかったと知って、むしろほっとした様にも見えた。
逮捕された私は、シェルブール城にあるSSの牢獄に入れられた。
そこは独房で、床にしかれた藁には虫がわいていた。
ゲシュタポ(秘密警察)による尋問と拷問が始まった。
彼らの質問はこれだった。「(上陸場所は)ノルマンディーじゃないんだろ? パ・ド・カレじゃないのか。さあ言うんだ。」
手足の爪をはがされ、顔を殴られ、電気器具を睾丸に当てられる拷問が続き、私は錯乱状態になりかけた。
堪えきれないと思い、左下の臼歯に仕込んである青酸カリのLピルを噛んで飲む(自殺する)ことにした。
この時、私が英国スパイとして犯してきた犯罪が次々と頭に浮かび、私は罰を今受けており、死ぬべき者なのだと考えた。
ところがどうだ、青酸カリを飲んだはずなのに、何も起きなかった。
私は繰り返される殴打や電気ショックに耐えられず、ついに「そうだ、パ・ド・カレだ」と言った。
すると暴行が止んだ。
私は独房に戻されたが、敗北感と祖国を裏切った思いから、「もし英国に帰れたら絞首刑か銃殺にして欲しい」と思った。
6月5日になると、その朝にパ・ド・カレに連合軍が上陸するはずが、何もないので、私は銃殺されることになった。
SSの上官の命令で私はトラックに乗せられたのだが、驚いたことにそのトラックにはMセクションの同僚たちが乗っていて、私はそのまま救出された。
私は後で知ったが、連合軍の上陸作戦は悪天候のため24時間延期され、6月6日にノルマンディーのセーヌ湾に上陸した。
救出された私は、ハスラーの英海軍病院に収容され、デズモンド・モートンが見舞いに来た。
モートンは私に対し一言も謝らず、Lピルの青酸カリを飲んだのに死ななかったと話すと、ピルに青酸カリではなく水を入れるよう命じたことをあっさり認めた。
モートンは、こう弁解した。
「君が真剣に自殺しようとしたことが大事で、そうすればドイツ軍は君が最初にしゃべったノルマンディーを嘘だと思うし、拷問で言わせたパ・ド・カレを信用する。」
モートンはこうも言った。
「密かにドイツの諜報部に、君が英海軍情報部の大尉だという情報を流した」
この件もモートンは謝罪しなかった。
モートンは話を続けた。
「我々が君を脱獄させたことで、ドイツ軍は君が重要な士官であり、君が他の情報をしゃべる前に救出させたと考えるだろう。」
モートンによると、今度の件でドイツは私をますます信用するという。
話し終えてモートンが帰ろうとする時、私は尋ねた。
「すまなかったの一言はないんですか?」
モートンは驚いた顔で言った。
「戦争にすまないという言葉はない!」
モートンが帰った後、私は二度と立ち直れないほどの悲しみに襲われた。
傷心の私は、恋人のパトリシアが見舞いに来たことで、なんとか立ち直れた。
余談になるが英国は、1943年4月にもユーイン・モンタギュー少佐を使って、連合軍の次の侵攻目標がシシリーでなく、ギリシャかサルディーニャであるとの、偽情報をつかませようとした。
モンタギューはこの謀略を、『存在しなかった男』という著書で語っている。
この作戦も、チャーチル首相の承認を得ていた。
ここで、私の恋人になったパトリシアのことを話す。
パトリシアは英国海軍に入隊したが、バッキンガムシャー州にあるコード暗号学校に行くことを命じられた。
この学校は、極秘の「エニグマ=ウルトラ」を含む、ドイツと日本の暗号解読を目指す作戦を主導した機関である。
1944年にパトリシアはMセクションに加わり、そこに居る私と出会った。
だが彼女は1945年1月に、オーストリアで工作活動中にドイツ軍のSSに見つかって捕まり、拷問にあい拷問中に自殺した。
パトリシアが死んだ時、私はゲシュタポから受けた拷問から、ようやく回復した状態だった。
(以上は2025年7月30日、8月4日に作成)