(以下は『ナチスを売った男 ジェームズ・ボンド作戦』クリストファー・クライトン著から抜粋)
1945年1月4日、イアン・フレミングは英国政府・海軍省にある、三九号室の海軍情報部・本部に入った。
フレミングは三九号室で、海軍情報部長ジョン・ゴッドフリー少将の補佐官を務めていた。
フレミングはこの日、新たに「Mセクション」に入り、そこの部長代理になるよう命じられた。
イアン・フレミングはスコットランドの生まれで、ランカスター大公爵の直系である。
裕福な家の出で、父は国会議員である。
フレミングは若い頃、陸軍士官学校を中退し、株式仲買人になった。
その後、イングランド銀行総裁であるモンタギュー・ノーマンの推薦で、海軍諜報部に入った。
Mセクションは英国政府の秘密の謀略機関で、そのオフィスは建設省の中にあり、六〇号室がMセクションを率いるデズモンド・モートンの部屋だった。
モートンは、Mセクションに加入したフレミングに対し、「これからここで君が行う作戦は極秘中の極秘で、いかなる文章にもせず、存在しなかった作戦になる」と話した。
Mセクション自体が、公的記録から抹殺されることになっていた。
事実、フレミングの公式ファイルを見ると、彼はこの時期、別の場所に勤務したことになっている。
Mセクションはチャーチル首相に直属し、チャーチルだけはMセクションの者たちにいつでも会うことができた。
1945年になると、すでにチャーチルの最大の関心事は、ナチス・ドイツがヨーロッパの敗戦国から掠奪して築いた、莫大なナチス財産に移っていた。
ヒトラーの腹心たちがこの財産を隠匿しようとしていると、チャーチルは信じていた。
そこでチャーチルは、Mセクションに「ナチス財産のある場所を突き止めて、それを奪え」と命じた。
モートンは、Mセクションに加わったフレミングにこう説明した。
「Mセクションが探すのは、ドイツおよびドイツの占領地の外にある、ナチス財産だけである。
ドイツ地域内にある財産は、連合軍最高司令官であるアイゼンハワーの管轄だ。
すでにアイゼンハワー指揮下の特別部隊は、ノルマンディー侵攻作戦の成功後に(財産の押収で)一定の成果をあげている。
Mセクションの工作員の調査では、数十億ポンドにおよぶナチスの掠奪品が、スイスの銀行に預けてある。
(※スイスは中立国で、ドイツの占領下ではない)
ナチス財産があるのは、1つはチューリヒ銀行、もう1つはバーゼル銀行だ。
必要なのは、銀行の口座番号と、口座の保有者と署名者の名前だ。
これらの情報を入手すれば、ナチスの掠奪品を我々が入手できる。」
フレミングは後になって、「この話をモートンから聞いた時は動揺を隠せなかった」と、私に告白した。
Mセクションは、形としては英国政府・経済戦争省に属していたが、この省自体が秘密機関で、傘下に「政治戦争部」や「特別作戦部」などの秘密組織を抱えていた。
Mセクションは1932年に創設されたが、英国王が資金を出しており、英国王が保護した秘密機関である。
チャーチルが海軍大臣になるとMセクションは海軍の管轄となり、ルイス・マウントバッテン卿が英国の連合作戦長になった1941年からは連合作戦本部を通じて資金が供給された。
公式には、Mセクションを率いるデズモンド・モートンは、チャーチル首相の個人的なアドバイザーだった。
モートンの本当の役割は、英国政府の大臣たちにも知らされず、チャーチル首相の秘密サークルにも知らされなかった。
Mセクションは、報告義務が首相と国王に対してしかなかった。
MI6とMI5には内務省というお目付役がいたが、Mセクションにはそれが無かった。
私は、ナチスの財産を奪うMセクションの作戦において、イアン・フレミングの下で現場指揮官をすると決まった。
私はフレミングの部下になり、情報局の中に新設されたCサブセクションを指揮することになった。
フレミングは、「君が管轄する部隊において君が最高位になるよう、君を少佐心得に昇進させた」と告げた。
私は驚いた。心得とはいえ、まだ20歳の私が英国海軍で最年少の少佐になるからだ。
私の少佐心得という身分は、文書では極秘となり、公報などには載らなかった。
しかし海軍大将のダドリー・パウンドとアンドルー・カニンガムは承認し、海軍元帥の国王ジョージ6世も承知していた。
私はバーダムに勤務することになった。
バーダムとは、始めは海軍中将ルイス・マウントバッテン卿の指揮下にあり、1945年当時は海軍少将ロバート・レイコックの指揮下にあった、英国海軍および海兵隊の特別奇襲部隊の訓練施設である。
ここは、Mセクションの重要な作戦本部でもあった。
バーダムの訓練施設群は、ポーツマス近郊にあり、最寄りの幹線道路から砂利道を1マイル入った所にあった。
周囲には古い荘園領主の邸宅があった。
バーダムの海軍婦人部隊の二等仕官スーザン・ケンプは、優秀なのでMセクションに引き抜かれ、私と共に働くこととなった。
Mセクション(英国政府のスパイ謀略機関)には、女性が大勢いた。
Mセクションに入る者は、例外なく厳しい心理テストを受けた。
男女とも最後の忍耐テストは、訓練を共に受けるクラスメートの面前で尻を出し、教官から受ける12回の鞭打ちだった。
こうした教化と訓練(※実体は洗脳)を受けるのだが、だいたい5人に1人は脱落した。(※5人に1人は洗脳されず人間の心を失わなかったというのが正確だろう)
1945年2月11日にイアン・フレミングは、チャーチル首相の手紙を持ってスイスに飛んだ。
フレミングはバーゼルで、スイス蔵相のエルンスト・ノブスと会談した。
英国政府は、スイス政府に、「ナチス・ドイツがスイスに口座を持っている。ナチスは国際的な犯罪者なので口座を凍結するか、調査してくれ」と伝えた。
スイス蔵相は、「ドイツは独立国であり、その口座はドイツ公使館と同じく不可侵である」と述べた。
スイス蔵相は、フレミングに質問した。
「ナチスの資産を英国政府が管理する場合、どう処理するのか。」
フレミングは英国政府の特使として、こう伝えた。
「資産を扱う国際的な委員会が任命されるまでは、英国政府が管財人として行動したい。
資金や財宝の出所が分かれば、所有者に返還する。
申し出の無いものは、復興資金を必要とする国家および国民に分配すればいい。」
スイス蔵相は尋ねた。
「となると、その資金はドイツやイタリアの国民を援助する財源にもなるのですか?」
「明確にその通りです。」とフレミングは答えた。
すると蔵相は席を立ち、スイス情報局の者が現れ、「見せたいものがある」と告げた。
フレミングはアルプスの谷にある村落に連れていかれ、そこにある国立バーゼル銀行の隠し地下金庫に案内された。
そこには金銀のインゴット、数えきれないほどのダイヤ、フランス王室やドイツ王室の持っていた品々、名画の数々があった。
それは全てナチスの財宝だった。
フレミングは、ノブス蔵相から託された白い封筒を、英国に持ち帰った。
その中には「国家社会主義ドイツ労働者党 六〇五〇八」と書いてあった。
同党の党員番号六〇五〇八は、マルティン・ボルマンだと、すぐに判明した。
調査すると、ボルマンはナチスの総統官房長で、地味だがドイツ政府の権力者の1人であった。
マルティン・ボルマンは、元々はナチスの副総統ルドルフ・ヘスの補佐官をしていた。
ヘスが1941年に英国に渡ると、1943年にボルマンはヒトラーの私設秘書となった。
ボルマンはヒトラーの側近で、総統官房長として海外にあるナチス資産を管理していると分かった。
それでMセクションは、ボルマンを拉致して英国に連行することを計画したのである。
(以上は2025年8月4、9日に作成)