(以下は『ナチスを売った男 ジェームズ・ボンド作戦』クリストファー・クライトン著から抜粋)
第二次大戦の末期、英国の謀略機関「Mセクション」は、ナチス・ドイツの持つ財宝を強奪する作戦を開始し、財宝の情報を握るマルティン・ボルマン総統官房長をターゲットにした。
ボルマンを拉致して尋問しナチス財宝を奪うこの作戦は、極秘作戦のため、同じ英国謀略機関のMI5とMI6は排除し、連合国の情報機関にも伝えないことにした。
Mセクションに所属する私は、ドイツのリッベントロップ外相と会見する約束を取りつけた。
私は縁があってリッベントロップと知り合いだった。
1945年になると、ドイツの敗北は決定的だったが、ドイツが降伏するための交渉役(仲介役)は国際赤十字のスウェーデン支部長であるフォルク・ベルナドッテ伯爵だろうと、誰もが確信していた。
だからリッベントロップが秘密裏にMセクションの私と会いたがるのは、何か別の理由があるはずだった。
私はリッベントロップと交渉して、ナチスの持つ財宝のありかを知るボルマンに接触しようと考えた。
上司のイアン・フレミングはこの意見に同意し、私が「このスパイ工作は荷が重い」と言うと、同行してくれることになった。
フレミングは、この作戦に使う自分の偽名は、ジェームズ・ボンドにした。
ちなみにジェームズ・ボンドは、1944年11月にフレミングが読んだ鳥類学の本、『西インド諸島の鳥類のフィールドガイド』の著者名を借用したものである。
Mセクションには、100人近い「ドイツ自由戦士団」も参加した。
この戦士団のメンバーは、ほとんどが英国に逃げてきたユダヤ教徒の若い男女だった。
彼らのリーダーは30代のイスラエル・ブルーム少佐である。
Mセクションを率いるデズモンド・モートンが自由戦士団を徴用したのは、ボルマンがいるのはドイツなので、ドイツ生まれの彼らがいれば便利と考えたからだ。
1945年2月12日に、私の恋人でMセクションに所属するパトリシア・フォーキナーが、オーストリアで作戦中に殺害されたとの報告があった。
彼女が死んだと聞き、私は大ショックを受けた。
彼女が死んだのは、デズモンド・モートンが命じた工作活動のせいだと、私は考えた。
激怒した私は、英国内閣・作戦本部室に行き、モートンに会った。
私はパトリシアを危険な戦場であるオーストリアに派遣したモートンを、激しく非難した。
私は銃を抜いて、モートンを撃とうとした。
すると近くに座っていたチャーチル首相が立ち上り、無造作に私の手から銃を取り上げた。
(※著者のクライトンは、若い頃からチャーチルと知り合いだった。
だからチャーチルは簡単に止められたのである。)
モートンは驚くべき告白をした。
「パトリシアは私の娘だった」と言うのだ。
モートンが言った。
「彼女の両親はカナダ人で、1930年代に自動車事故で死んだ。
私は彼女をイングランドに連れてきて、友人に育てさせた。
私は代理叔父になり、彼女をカトリックに改宗させて名付け親になった。君の場合と全く同じだ。」
(※筋金入りのスパイを育てるには、孤児などの恵まれない子供を養育し、洗脳していくという手法がよく取られる。これもそのパターンである。)
話を聞いていたチャーチルは、「極限の状況では悪が正当化され得る」と言い、さらにこう強調した。
「神が幾千もの人命もろともソドムとゴモラを破壊したのだから、神の名において戦っている私たちも、そのような権利がある。」
(ユダヤ教の未熟な神の理解を根拠にして、自分たちの悪事を正当化している。
詭弁であり、悪人の発想が出ている言葉だ。)
私は、モートンとチャーチルから厳重注意を受けて退室した。
他の者ならば、軍法会議だったはずだ。
私は外に出たが、心身ともにまいり、クライヴ・ステップス(ロンドンの道の1つ)の人目につかない場所で背中を丸めて座り、一時間半も忍び泣いた。
私の姉妹や母に会いたいと思ったが、もう彼女たちとは違う世界に生きていると考え、会うのを諦めてしまった。
ドイツ自由戦士団のリーダーのイスラエル・ブルームは、1945年の当時33歳で、両手の中指が無かった。
ブルームは1936年に、ナチスの突撃隊が自分の妹を強姦しようとしたのを止めた時、突撃隊に中指を切り落とされていた。
ブルームは独自の情報ネットワークを築いており、私々にはそれは謎だったが、彼の立場を尊重して詮索しなかった。
ドイツ自由戦士団は若者ばかりで、副司令官のハンナ・フィーアースタイン大尉は26歳だったが、同団の中ではベテランだった。
イングランドにドイツ自由戦士団がいることは、もちろん秘密にされていた。
彼らのほとんどは黒髪のユダヤ教徒で、イングランドでも辛い生活を送っていた。
第二次大戦が始まってからイングランドに逃げてきたドイツ系のユダヤ教徒は、まずスパイか疑われて情け容赦ない尋問を受けた。
その後は、監獄法一八♭に基づいて、マン島の捕虜収容所に送られた。
認められた一部の者だけは、軍事訓練を受けて、自由戦士団のような兵士になった。
兵士になった者は、祖国を離れて家族もいないという、帰る家のない者も多かった。
軍事訓練を受ける者たちには、当然ながら脱落者もいた。
その場合、重要機密に接していたことから、マン島の強制収容所に送られたり、死刑になることもあった。
1945年の2月8日に、私とイアン・フレミングはリッベントロップに会うため出発した。
9日にスイスのチューリッヒで、リッベントロップの使者と会った。
そして私とフレミングは、ボーデン湖を見下ろす城に連れていかれた。
城は豪華に飾り立てられており、その夜に魅力的で奔放なセックスへの誘いがあった。
普通のものと同性愛の両方の誘いだった。私たちは丁重に断わった。
翌朝に私は銀行に案内され、私名義の口座を開設して、10万ポンドが入金された。
これは現在(1996年)ならば、300万ポンドくらい当たる額だ。
城で贅沢な週末をすごして、2月13日にドイツに入国した。
リッベントロップが手配したSSの制服を着ていたので、検問も大丈夫だった。
2月20日に、ようやくドイツ外相のリッベントロップに面会できた。
私と彼は旧知なので、仲良く挨拶した。
彼に最後に会ったのは、2年以上前だった。
リッベントロップは、部屋から従者がいなくなり私たちだけになると、突然に真顔になり、こう話した。
「ドイツはもう負ける。私は第三帝国が崩壊したらドイツから脱出したい。手助けしてほしい。」
私は訊いた。
「あなたならばドイツ公使館を通じて逃げ出せるでしょう?」
リッベントロップはこう言った。
「実は私は、ナチスが海外に蓄えた膨大な資産がほしい。そのためには買収しなければならない男がいる。」
私は全身をアドレナリンが駆けめぐるのを感じたが、平静を装った。
リッベントロップは言った。
「ヒトラー総統の秘書のマルティン・ボルマンは、ナチ党の総統官房長で、第三帝国の外にある資産を一人で管理している。
私の計画はこうだ。
第三帝国の崩壊の時、ボルマンを連れてドイツから脱出する。
私たちが国外に出たら、ボルマンの身柄は英国に渡す。君たちのいいようにすればいい。」
私は、同行しているフレミングのことを、「この人はナチスの高官をドイツ国外に逃がす組織を動かしている人で、私の友人です」と紹介した。
実際のフレミングは、英国・海軍情報部の幹部である。
ちなみにフレミングは、ギルドフォードにて「レッド・インディアンズ」という血の気の多い兵たちを指揮してもいた。
レッド・インディアンズは、基地周辺の女性住民を強姦したが、それを喜んだフレミングは部隊名を「第30襲撃部隊」から「第30強制わいせつ部隊」に変えた。
(※軍隊や戦争が狂気の世界だと、よく分かるエピソードだ)
これは英国海軍本部で問題となり、1945年の初めに海軍元帥のアンドルー・ カニンガムはフレミングを呼び出して、住民から不満の声が上がっていると告げた。
だがフレミングは、第二次大終の終わりまで、その部隊を存続させた。
リッベントロップは、私たちと話している間にリラックスしたようで、心情を吐露した。
「私はナチスの中で唯一、家柄が良い。
私は紳士であり上流社会人だ。
他の連中は社会的地位も教養もない。彼らには何の価値もない。」
さらにリッベントロップは、こんな話もしたが、私には意味が理解できなかった。
「ヴァルハラで、ナチスの金塊を受け継ぐのはリッベントロップだと予言されたのではなかったか?
自分はその予言を現実にするつもりだ。」
私たちは、ボルマンの居場所を訊いた。
「ボルマンはいつもベルリンでヒトラーと一緒に総統官房にいる。ベルリンの掩蔽壕のどれかの中にいる。」、とリッベントロップは言った。
別れ際にリッベントロップは私の両手を取り、目を見つめて、「信頼しているぞ」とくり返した。
もちろんフレミングも私も、リッベントロップとの約束を守るつもりなど毛頭なかった。
私たち英国情報部は、リッベントロップとボルマンの両方を裏切り、2人の身柄とナチスの財宝を手に入れるのだ。
私たちは翌朝に出発し、3日後の2月24日に英国のバーダムに戻った。
(以上は2025年8月12日に作成)