(以下は『ナチスを売った男 ジェームズ・ボンド作戦』クリストファー・クライトン著から抜粋)
私たちMセクションは、英国政府首脳から「マルティン・ボルマン拉致作戦」を命じられたので、ドイツの首都ベルリンの研究を始めた。
ボルマンはベルリンにいるので、拉致の前に下調べが必要だった。
ベルリンは水路が多く、川だけでなく、グローサー・ミュッゲル湖やヴァン湖がある。さらに運河網もある。
それで私たちの移動手段はカヤックまたはカヌーと決めた。
つまり拉致班は、川を使って移動する。
Mセクションの者のうち、拉致作戦のターゲートを知る者は、私、イアン・フレミング、スーザン・ケンプの3人だけだった。
他の者には、誰かを拉致して連れ出すことしか伝えなかった。
フレミングはこの作戦の前、自身のアリバイを作るために入念な措置をとった。
フレミングは公式には海軍情報部に所属したが、ギルドフォードの第30襲撃部隊の指揮官としてもかなりの時間をすごしていたし、ロンドンに行ってMセクションのリーダのデズモンド・モートンと戦略を練ってもいた。
1945年3月5日、ドイツ外相のリッベントロップから私に連絡があり、「再びドイツに来て、今度はボルマンにも会ってほしい」と依頼された。
ボルマンは、リッベントロップの提案した、第三帝国の崩壊時にドイツを脱出するアイディアに乗り気だという。
そこで私とフレミングは、再びドイツに赴くことになった。
私たちが出発する2日前、ボルマン拉致作戦のための前準備をするために、40名がドイツのグローサー・ミュッゲル湖にパラシュート降下し、ベルリンに拠点を構えた。
これはドイツ自由戦士団20名と、英国海兵隊員20名で行った。
この工作活動では、ドイツ自由戦士団の副司令官ハンナ・フィーアースタインが、パラシュート降下のときにパラシュートの切り離しが上手くいかず、パラシュートを外せずに溺れ死んだ。
私とフレミングは、3月10日にドイツ外務省の職員の手配により、飛行機でベルリンに向った。
ベルリン上空に着くと、英米軍の爆撃による破壊の大きさに目をみはった。
建物は骨組みだけとなり、道路は爆弾孔や残骸の山で通行できなくなっていた。
ベルリンが大混乱に陥っているのは明白で、我々Mセクションの作戦がドイツ軍に止められることはほとんどないと感じた。
私たちの乗った飛行機は、着陸が4回も遅れた。
着陸しようとしても、爆弾孔のため不可能になっていた。
仕方なく飛行場の外の道になんとか着陸した。
そこからは車でドイツ外務省に向かった。車はほとんど走ってなかった。
だが歩行者は多く、老人や女性や子供が、乳母車や車輪つき木箱を押しながら、食料・水・燃料を探し求めていた。
外務省に着くと、SSの将校が敬礼して室内してくれた。
リッベントロップ外相のオフィスに入ったが、窓は大半が割れたり吹き飛んでいて、天井の穴から水がしたたり落ちていた。
リッベントロップは、この前会った時よりも、いくぶんやつれていた。
彼はすぐに本題に入り、「ボルマンはカネを払ってベルリンを脱出するのに同意した」と言った。
その後、ボルマンとも面会した。
初めて会ったが、背が低くて雄牛のような体つきだ。
左目の上に大きな傷あとがあった。
ボルマンは、「この戦争は我々の負けである。自分も安全な場所に逃れたい」と言った。
それだけでなく、「あとで捜索されることのないよう、自分が死んだと誰もが思うよう工作したい。替え玉を探す必要がある。」と言った。
「まだ替え玉は用意していないのですか?」と、フレミングは心底から驚いた口ぶりで尋ねた。
「1人もいない」
「ヒトラー総統にはいるのでしょう?」
「もちろんだ」
「どうして貴方にはいないのですか?」
「この地位にいれば嫉妬の対象になる。替え玉を探しているという話だけで、何事か企んでいるとの噂が飛び交うだろう。
問題は、私に似ている者を君たちが見つけられるかだ。」
「探す時間はほとんどないですが、ベストを尽くします」
ボルマンが話を続けた。
「私が脱出する時、替え玉は殺されることになる。
死体は目立つ所に置かねばならん。身長や体重は私とぴったり同じになっている必要がある。そうでないと検死に耐えられん。」
フレミングが答えた。
「替え玉は全力で探します。英国での身の安全は請け合います。」
ボルマンは、「私が無事に英国に着いたら、報酬の90万ポンドはチューリッヒ銀行の君の口座に振り込む」と私に言った。
ボルマンは、自分の写真や医科・歯科の治療記録などを、私たちに渡してから言った。
「これが必要だろう。でも必ず返してくれ。」
ボルマンのふるまいから、どうやら私たちが英国の諜報機関の者だと分かっているらしかった。
自分の将来を、こちらの手に委ねると決めたらしかった。
私とフレミングは3月18日に、Mセクションの作戦本部があるバーダムに戻った。
さっそく会議が行われた。
すでに連合軍は10日前にライン川を越えていた。ドイツはあと数週間の命と思われた。
ボルマンの替え玉については、モートンが「捕虜収容所にいるドイツ人から探せばいい」 と言った。
これに対しスーザン・ケンプは、「たとえ捕虜でも、本人の知らぬ間に替え玉として殺してしまうやり方は許されるのか」と質問した。
この問題は、継続審議となったが、そのまま無視された。
こういったやり口が、Mセクションを率いるデズモンド・モートンの本質だった。
替え玉に行う、ボルマンに似せる歯の手術は、私の知り合いの歯科医であるオルドレットに決まった。
オルドレッドは、私たち英国スパイの下あごの臼歯に穴をあけ、そこにいざとなったら自殺できるように青酸カリのカプセルを入れる手術をする人でもあった。
同じく外科医も、私の知り合いのアーチボールド・マッキンドーに決まった。
結局スーザン・ケンプが、ボルマンの替え玉を探すことを命じられた。
彼女はカナダに多数のドイツ人捕虜が拘束されていたので、トロントに出張した。
3月19日に、私とフレミングは、連合国軍最高司令官であるアイゼンハワー将軍から呼び出しの電報をもらい、ランスに向かった。
私もフレミングも、それまでに数回、アイゼンハワーと会ったことがあった。
アイゼンハワーは私たちに、「チャーチル首相がナチスの財宝がドイツ国外に預けてあるのを見て、入手しようとしていると聞いた」と言った。
私たちMセクションは作戦を立ててナチス財宝を狙っていたから、思わず顔がこわばった。
アイゼンハワーは、財宝を入手したらそれを英国の金庫に入れるのではなく、持ち主に返還するという保証を求めてきた。
私たちは、最大限の努力をすると約束した。
アイゼンハワーは、ヨーロッパで連合軍が行う作戦すべての監督権を持っていた。
だからボルマンを拉致してナチスの財宝のありかを吐かせる作戦について、逐一を報告するよう、私たちは命令された。
さらにアイゼンハワーは、Mセクションに自分が抱えているスパイを加えるよう、私たちに命じた。
そのスパイがバーバラ・ブラビノフ大尉で、肉感的な若い女性だった。
彼女も拉致作戦に加わることになった。
後で分かったが、モートンはナチス財宝強奪作戦に米国も加えたほうがよいと判断し、米国政府の諜報・謀略機関であるOSSのドノヴァン長官に、こっそり知らせていた。
それでドノヴァンは、ローズヴェルト大統領とアイゼンハワーに報告したのだった。
さらにMセクションのボルマン拉致作戦には、アンソニー・ブラント少佐(第四の男といわれたソ連のスパイ)とロジャー・ホリス大尉が加わった。
2人ともMI5の将校だという。
この2人はボルマン拉致が任務ではなく、ドイツのある場所に行くため私たちに同行するという。
2人の同行は、英国王ジョージ6世の指令だった。
私はジョージ6世に呼び出されて、そのことを知った。
私は、父を通じて子供の頃から国王を知っていたし、戦争が始まってから2度、作戦の報告もしていた。
(※著者の父はジョージ6世と同じ学校に通い、親しくなった)
ジョージ6世は、私にこう説明した。
「クロンベルク城に保存されている書状が気になっている」
フランクフルトの近くにあるこの城は、ヘッセ家のもので、英国の貴族マウントバッテンはこの家の子孫だ。
「この書状にはヴィクトリア女王から長女に向けた手紙もある」
長女はプロイセン皇后となり、カイゼルを産んでいた。
ジョージ6世は、自分たちの一族の利害に関わる手紙が世間に漏れるのを恐れていた。
ことに親ナチスに傾いていた兄ウィンザー公(かつての国王エドワード8世)の手紙が広く知られるのを恐れていた。
ジョージ6世は、「ブラントとホリスの任務は、その手紙を見つけて持ち出すことだ」と言った。
ちなみにブラントは王室と血のつながりがある人だった。
この件は結局、ブラントとホリスはMセクションとは別行動する事になった。
ボルマンの替え玉は、カナダで調達された。
オットー・ギュンターという男で、騙されて次々と手術を受けた。
ボルマンに似せるため左目の上に傷跡をつけ、歯も2本抜いてブリッジを入れて詰めた。
これだけでなく、Mセクションは文書偽造の担当者が、ギュンターの身体と合うようにボルマンの記録文書を改ざんした。
こうしておいて、ギュンターの死体と記録文書をベルリンに置き去りにすれば、疑う者はいないだろうと思われた。
ギュンターを見つけたスーザンは、自分の良心の声をおさえて、ギュンターに対し「この特別な扱いに耐えれば、戦争終結後はただちにドイツに帰国させる」との、嘘の約束をした。
少し前にOSSを率いるドノヴァンに触れたが、彼はモートンと似た立場にいた。
Mセクションを率いるモートンは英国国王とチャーチル首相に直属していたが、ドノヴァンは米大統領に直属していた。
MセクションもOSSもスパイ組織で、正規軍にとってタブーのことを引き受けていた。
モートンとドノヴァンは第二次大戦中に絶えず連絡し合い、協力し合っていた。
Mセクションで働く私とフレミングも、ドノヴァンとは知己で、私たちは彼(OSS)の作戦に参加したり、彼の訓練キャンプで訓練を受けたことがあった。
(以上は2025年8月12日に作成)