(以下は『ナチスを売った男 ジェームズ・ボンド作戦』クリストファー・クライトン著から抜粋)
私たちMセクション(英国政府の諜報・謀略機関)は、マルティン・ボルマンをベルリンから拉致してくるための準備を進めたが、いよいよ決行が近くなると、作戦本部があるバーダムで最終確認が行われた。
まず拉致の実行部隊は、ベルリンのミュッゲル湖にパラシュートで降下する。
そこからシュプレー川をカヤックで下り、上陸したらヒトラーたちナチスの首脳がいる地下壕へ行く。
もしシュプレー川が通行不能だったら、運河を使う。
約束通りにボルマンとリッベントロップ外相を地下壕から連れ出したら、用意したボルマンの替え玉オットー・ギュンターを地下壕で殺して置き捨て、我々は脱出する。
すでにドイツの首都ベルリンは、連合軍の攻撃により電気、水道などが麻痺しており、夜は闇に包まれていた。
しかも住民たちが食料や燃料を求めてさまよっているので、群衆にまぎれることは容易に思われた。
作戦の最終確認が終わると、Mセクションの者たちはいつもの夜のように、大騒ぎして部屋中で同僚のスパイと抱きついたりキスしたりし、乱交祭りとなった。
その騒ぎを、Mセクションの長官デズモンド・モートンだけは、じっと立ったまま見ていた。
(※色んな本を読んでスパイの告白に触れると分かるのだが、スパイはだらしのない生活をする者が多く、それは性方面もそうである。
一般人は、スパイは普通の人よりも自分を制御していると考えるだろうが、実際はめちゃくちゃな私生活の者が多い。
不祥事をしまくっていると考えられるが、それを揉み消してしまうのである。
こういう組織をのさばらせる事は、危険でしかない。よく覚えておいてほしい。)
私やイアン・フレミングなど、ボルマン拉致作戦の実行部隊は、1945年4月22日にバーダムを出発した。
旅行機に乗りベルリンに向かう途中、私の前に何度も現れてきたあの黒衣の天使、死神の幻影が、また現れた。
しかし一瞬の出来事で、すぐに消えた。
ミュッゲル湖にパラシュート降下し、先行部隊が用意していたカヤックに乗った。
私たちが連れてきたボルマンの替え玉ギュンターは、顔に包帯をさせておいた。
ベルリンの街に入ると、至るところに腐乱死体が放置され、死の悪臭が充満していた。
砲弾の飛来音と爆発音の中、市民が移動していた。
私たちが通りを曲がると、砲弾の直撃で頭が2つに割れた若い女が、血の海に横たわっていた。
そばには生後数ヵ月の赤ん坊がいて、まだ息があった。片腕が肩から切断されていて、最後の力をふり絞って母親の胸にすがろうとしていた。
思わず注目したが、赤ん坊は数秒後に力尽きた。十字を切って先に進んだ。
ドイツ政府・外務省の建物に私たちは到着した。
ここも砲撃により、窓ガラスは全て割れていて、壁にも大穴が開いていた。
リッベントロップ外相が我々のことを通告していたようで、案内役が地下壕まで同行してくれた。
そこで朝まで過ごした。
午前9時半になると、リッベントロップのいる外務省の彼の執務室に案内された。
リッベントロップはまだ地上の執務室を使っていたが、壁は砲弾の穴だらけで、床には崩れた壁が散乱していた。
彼と話したところ、彼は我々と脱出するのではなく、ベルナドッテ伯爵とスイス大使館を通じてベルリンから脱出する道を選んでいた。
彼は「明日にここを発つ予定だ」と言った。
この時の彼は心ここにあらずで、すぐ去ってしまった。
私はリッベントロップと旧知の間柄で、かつては家族ぐるみの友人だったのだが、今は何の感情も湧いてこなかった。
むしろこの男がボルマン拉致作戦の足手まといにならず、ほっとした。
これでお目当てのボルマンに集中できる。
(※著者のような上流社会の出身者や、諜報界の人間は、いざとなると実に冷酷である。色んな本を読んできて、それを強く感じる。)
私たちは次にマルティン・ボルマンと会った。
彼から預かっていた文書を返して、替え玉の特徴と合うように文書を改ざんしたと説明した。
ボルマンはその文書に目を通し、「すばらしい!」とドイツ語で言った。
ボルマンに脱出する日を尋ねると、「まだ分からない、5~6日かかるかも」との返事だった。
フレミングが尋ねた。「どうしてすぐに発てないのですか?」
ボルマンが答えた。
「ナチスの秘密警察や、忠実な党員が、脱出を試みる役人を射殺している。もっと混乱が高まるまで待つほうが得策だ。」
私たちは待つことにした。
やがて、ソ連軍がベルリンの中心部を包囲した、との連絡が入った。
1945年4月30日の午後、ボルマンがSSの将校2人を従えて私たちのいる所へ来た。
ボルマンが話し始めた。
「ずっと故カナリス提督の所持する書類を入手しようと奔走していた。
カナリスはナチスの防諜機関の長で、反ナチスに傾いたためSSに処刑された。
その書類をついに手に入れたが、君たちが英国軍の士官だと書いてある。」
SSの2人が拳銃を抜き、こちらに向けた。
彼らは、私たちのうち女性のブラビノフは通訳だと思ったらしく、ノーマークだった。
ブラビノフは拳銃を腰の位置から素早く放ち、弾はSSの2人の腕を打ち抜いた。
私は銃を抜き、ボルマンに照準を合わせた。
彼はうなずき、敗北を認めた。
ここでフレミングが、初めて流暢なドイツ語を披露して話し始め、その場にいる私、フレミング、ブラビノフの3人がスパイだと明かした。
次いで私が、「私はボルマンをベルリンから英国に移送する作戦の指揮官である」と告げた。
私は、「貴方が英国に渡れば、身の安全は保証され、余生を快適に暮らせるだけのカネが与えられる」と伝えた。
ボルマンは少し考えてから、挑むような口調で言った。
「交換条件は何だね」
フレミングが答えた。
「ナチスはドイツ国外で、現金や宝石、不動産などを奪ってきた。
こうした財産の移譲に全力で協力し、加えてナチス政権の統治や、自身の生活について、英国の尋問に答えることだ。」
ボルマンはためらいなく返事した。「分かった、協力しよう。」
私たちが拳銃をしまうと、ボルマンは廊下に出て大声で部下を呼んだ。
すると将校が2人やってきたが、ボルマンが何か囁くと、撃たれたSS2人を連行していった。
SS2人の運命は明白で、多くを知りすぎたので殺されるのだ。
フレミングはボルマンに、「もし裏切れば、この話がすぐにナチスの幹部、特にゲッベルスに伝わるようになっている」と告げた。
これは嘘だったが、ボルマンを脅かすにはもってこいだった。ボルマンは震えていた。
なお、ブラビノフがSS2人を撃った時、銃声を聞いて兵たちがやってくる危険もあった。
しかしここは地下壕で、分厚いコンクリートと鋼鉄の壁になっており、さらに連合軍の激しい砲撃音に銃声が紛れたようだ。
その日の20時30分にボルマンが再び私たちのいる部屋に現れ、「私の脱出は翌5月1日の夕刻に行う。ナチスの中枢部はそれまで退却しないから、自分もその時刻までは行動を起こせない」と告げた。
私が「ヒトラーはどうなったのか」と尋ねると、「総統は死んだ」とボルマンは言ったが、詳しい説明はせずにボルマンは去っていった。
ヒトラーはついに死んだが、まだ戦争は続いていた。
私はふと考えた。
私たちはボルマンを連れてここから脱出するが、それは愛国心からでも道徳心からでもない。私たちは命じられた事をやっているにすぎない、と。
私たちは、友軍であるソ連軍に嗅ぎつけられる前に脱出しなければならなかった。
そして脱出の際には、ボルマンの替え玉としてギュンターを殺さねばならない......。
私たちはギュンターの心臓を撃ち抜いて、発見されやすい場所に置き去りにする計画だった。
彼を撃ち殺す銃の弾は、英国製だとまずいので、私たちはそのためにドイツ製の銃も持ってきていた。
余談になるが、リッベントロップは、ヒトラーの後継者に指名されたカール・デーニッツ 提督に取り入るのに失敗し、身を隠したが1945年6月14日にハンブルクで英国軍に捕まった。
そしてニュルンベルク裁判にかけられ、46年10月に死刑を宣告された。
5月1日の夕刻になると、17時にボルマンは私たちを地下壕から外に出してくれた。
外は戦火を交える音が凄まじく、私は近くに待機しているMセクションの部隊と連絡するため、音を遮る目的で石壁に身を残した。
連絡した部隊の者によると、ソ連兵はベルリン市民を襲い、略奪と強姦をし、市民を無差別に殺しているという。
私の心の重荷になっていたのは、もうすぐ替え玉のギュンターを殺さねばならない事だった。
ギュンターは、もうすぐ死ぬ運命なのに、協力すれば釈放するという嘘の約束で騙されていたので、牛のような無頓着さたった。
5月1日の23時の少し前、ようやくボルマンが私たちの前に現われ、「すぐに脱出する」 と告げた。
ギュンターはボルマンの服に着替えさせられた。
その際に私は、彼の肛門に指を挿入するなどして、徹底的に彼の身体を検査して、変なものを持っていないか調べた。
ボルマンの身体検査もしたが、彼はヒトラーの遺言状を持っていて、それはボルマンを唯一の遺言執行人に指名していた。
この書類は、これからスイスの銀行などに預けてあるナチスの財産を入手する際に、その権利を主張するのに役立つだろう。
私たちはボルマンが書いてきた日記だけを、ギュンターに持たせることにした。
ボルマンには、Mセクションが偽造した身分証明書を渡した。
これには偽名とナチスの下級職員である旨が記されていた。
それを見たボルマンは満足げだった。
ボルマンだけでなく、ナチスの残党たちはベリルンから脱出し始めていた。
私たちがいる地下壕の廊下は、人であふれて、それぞれが勝手なことしゃべっていた。
いよいよ脱出にかかると、まずボルマンが先導した。
ひょんなことから、ヒトラーのお抱え医師だったルートヴィヒ・シュトゥンプフェッガーらも我々に同行して脱出することになった。総勢21名となった。
地下壕を出て、外務省庁舎の横を通り抜けた。
地下道に降り、フリードリヒ通り駅へ歩いて行った。
駅に着きそこから地上に出ると、あちこちで火の手が上がり、砲弾が飛び交っていた。。
Mセクションの味方部隊と合流する地点に向かい、いよいよギュンターに死んでもらう時が来た。
私は銃を抜いて彼を撃とうとしたが、その時ちょうど砲弾が飛んできて、ギュンターとシュトゥンプフェッガーに当たった。
そして2人は死んだ。
私はギュンターの顔の包帯を取ったが、顔はボルマンにそっくりだった。
ボルマンはギュンターの脇にひざまずき、素早くその顔を調べた。
ボルマンはポケットから何かを取り出すと、ギュンターの口元に近づけた。
ボルマンはシュトゥンプフェッガーにも同じことをした。
私には彼が何をしているのか分からなかったが、彼は青酸カリの小瓶を持っていたので、青酸カリのカプセルをギュンターたちの口に含ませたのかもしれない。
私はギュンターが砲弾で死に、自ら手を汚さずにすんだことを、神に感謝した。
シュプレー川でMセクションの仲間が乗るカヤックに合流した。
ここで合流したスーザン・ケンプは、イアン・フレミングに緊急命令を伝えるよう言われたと告げた。
「フレミングだけすぐにロンドンへ飛べ」との命令だった。
それでフレミングだけはすぐにミュッゲル湖に戻ることになった。そこから飛行機でロンドンに向かう。
我々はボルマンも空路で運べばいいのではと考えたが、Mセクションを率いるデズモンド・モートンは空路よりも水路の方が安全だと考えているのだと思い直した。
要するに使い捨てのスパイのうち、フレミングだけが空路で呼び戻されることになった。それだけのことだ。
我々はフレミングと別れて、カヤックで川を下った。
ソ連軍は陸上で戦闘し、川を行く者にまで手は回らない様子だった。
川には死体も浮いていた。
途中、川に死体の山があって、ほぼ川をせき止めていた。
それで川に首まで浸かって死体をどかした。
死体はみなヌルヌルしていて、悪臭を放ち、水を吸って膨れ上がっていた。
死体をいくつかどかすと、溜まっていた死体は流れ始めた。
1人が楽し気に赤ん坊の死体を頭上にかざして、それを濁流の中に放り投げた。
生涯忘れられない恐ろしい光景だった。
再びカヤックで進んで、ハーフェル湖に入った。
無線でMセクションの別部隊に連絡すると、英国軍と共にエルベ川沿いに駐屯しているという。
そこまではあと110kmほどだ。
我々の全員は、大便と小便がしたくなるとカヤックの中で出した。全員がタンポンを支給されていた。
ガトウ空港に近づいた時、戦闘音が我々の所まで響いてきた。
そこを離れると音は小さくなった。
シュヴァネンヴェルダー(スワン島)に着いた。
これは島といっても、800mほどヴァン湖に突き出した半島である。
ここで我々はカヤックを止めて上陸した。
逃げてきた人で溢れていたが、Mセクションに協力するドイツ自由戦士団が我々を迎え入れる準備を整えてくれていた。
すでに朝になっており、我々はここで朝食した。
私はボルマンから目を離さなかった。
部下には「もしボルマンがソ連軍の手にわたりそうになったら、ボルマンを射殺せよ」と命じていた。
これから行くポツダム橋が、ソ連軍の手に落ちたという電信があった。
さらに別の電信で、一時期Mセクションにいたアンソニー・ブラント少佐が、1936年にケンブリッジ大学の「キリストの使徒たち」という秘密結社に所属していたと告げられた。
その電信では、キリストの使徒たちはホモの集団で、マルクス主義を信奉していたという。
またブラントは1936年に共産党にも入党したという。
ブラントはMセクションにいた時、ボルマン拉致作戦の書類を見ていた。
ということは、ソ連軍はこの作戦を知っているはずだ。
ソ連軍が我々の行く手で待ち伏せていることが考えられた。
だが我々には、ブラビノフやブルームというロシア語の上手い者がいる。だからソ連兵をうまく丸めこめるかもしれない。
それにMセクションは、英国の脱出部隊に使宜を図るように、ソ連側に要請しているはずだった。
夜の20時になると、我々はカヤックに乗り、再び川を移動した。
我々全員は、支給されたソ連の特殊諜報部隊の記章を付け、偽造したソ連軍の身分証を携えていた。
ポツダム橋にソ連軍がサーチライトを設置していると連絡があったので、ロシア語が話せる者の乗るカヤックを先頭にした。
ポツダム橋に近づくと、我々はカヤックにソ海海軍の旗を掲げた。
ポツダム橋に着くと、ブラピノフは岸に上陸し、そこを守るソ連兵たちに「私はセロヴァ大佐だ。逃走中のナチ戦犯を捜索すべくパトロールしている」と話した。
さらに「ジューコフ元帥の特命を受けている」と付け加えた。
そして身分証と通行許可書を見せた。そこにジューコフの署名もあった。
ブラビノフは、ソ連兵たちに「下流の他の部隊にも我々の通過を知らせろ」と命じた。
ソ連兵たちは疑いながらも、我々の通行を傍観した。
その後も4度、ソ連軍に会ったが、ブラビノフがまくし立てて切り抜けた。
この間、ボルマンはずっと協力的で、かんしゃくを起こしたりはしなかった。
ボルマンは体力があり、カヤックを漕ぐ腕力は私の2倍近くあるかもしれなかった。
ボルマンの正体を知らされていないドイツ自由戦士団員たちは、親し気に彼に話すようになった。
ずっと川を進み続け、5月8日の朝には英国軍が待つハーフェル川とエルベ川の合流点まであと40kmとなった。
ここで「ドイツが無条件降伏した」との電信があった。
我々は静かに祝杯を上げた。
川を進んでいくと、川の近くでソ連兵が酔って大騒ぎしているのが聞こえてきた。
ソ連兵を避けるため、何度か上陸して陸路をカヌーを運びながら移動した。
我々はクールハウゼンの小さな町で休憩をとることにした。
町の近くで野営したのだが、2人のドイツ人の少女が、ソ連兵5人に追われながら逃げ込んできた。
我々はそのソ連兵5人を殺したが、2人の少女は姉妹で、母はソ連兵に暴行をうけて殺され、父は戦死したと言う。
姉妹も暴行をうけて負傷していた。
それで仕方なくカヤックに乗せて、野戦病院に入れることにした。
カヤックで進む途中、自由戦士団のリーダーであるイスラエル・ブルームの乗るカヤックがソ連兵に攻撃され、ブルームは死んだ。
ブラビノフを先頭にしないで進んだ、私の判断ミスだった。
ついにエルベ川との合流点に着き、待っていたMセクションの部隊と合流した。モートンもそこに居た。
我々は全員がモートンに敬礼し、私が「(ボルマンを連行してくるという)指令は、ここに遂行されました」と報告した。
モートンは謝辞を述べて、私を米陸軍のウィリアム・シンプソン中将に引き合わせた。
シンプソンは、「君たちの作戦の目的は何なのか聞いてないが、成功したそうじゃないか」とねぎらってくれた。
ボルマンは英国軍に引き渡された。
(以上は2025年8月12~13日に作成)