(以下は『ナチスを売った男 ジェームズ・ボンド作戦』クリストファー・クライトン著から抜粋)
私たちがマルティン・ボルマン拉致作戦を終えて、Mセクション(英国政府の諜報・謀略機関)の本部があるバーダムに戻った時、作戦の途中で別行動になったイアン・フレミングも帰国していた。
フレミングは、ベルリンで私たちと別れた後、タムバッハ城からドイツ海軍の公文書を回収する作戦に加わっていた。
この作戦で入手した文書には、アイルランドに存在したドイツ軍のUボートの補給基地のものもあった。
ちなみ私は1940年10月に、このアイルランドのドニゴール補給基地を爆破して2隻のUボートを破壊した作戦に従事した。
ドイツ当局は、この基地の存在を隠して、Uボートが別の場所で沈没したことにした。
現在、当時のドイツ海軍を研究する者は、Uボートの基地はアイルランドになかったと 主張している。文書が公けになっていないからだ。
Mセクションを率いるデズモンド・モートンとOSSを率いるドノヴァンの命令で、フレミングの次の任務は、スイスの銀行などにあるナチスの隠し財産を入手することになった。
マルティン・ボルマンは私たちとの約束を守り、スイスのバーゼルに護送されると、ナチス財産を銀行から引き出す署名手続きを行った。
ナチスの財産は、しばらくは同じ銀行に保管されたが、1945年6月末までに第1回目の英米側への譲渡が完了した。
私たちMセクションがボルマンをベルリンで誘拐して連行し、ナチス財産を入手した事を知ると、英米の他の諜報機関も同じような作戦を始めた。
それでモートンは、ボルマン以外のナチス高官も拉致するため、新たなサブセクションを設けた。
この作戦では、そのナチス高官が戦争犯罪人かは問題ではなかった。
その者が協力に同意すれば、犯罪記録は抹消され、多額のカネをもらって英国や米国の国籍も得られる。
Mセクションにおいては、この作戦はアンドルー・プレストンにちなんで「アンドルー作戦」と呼ばれ、スーザン・ケンプが責任者となり、OSSの工作員も何人か加わった。
ヴェルナー・フォン・ブラウンも、この作戦で協力に同意させた1人である。ブラウンはV2ロケットを開発した人だ。
私はバーダムに残って、ボルマンを担当した。
ボルマンはバーダムに収容されて、数ヵ月にわたり尋問を受けた。
この尋問は800ページの報告書にまとめらた。
1945年の秋にニュルンベルクで開かれた国際軍事裁判で、ボルマンの欠席裁判が行われた。
そして有罪判決になったら、本人が見つかり次第、刑が執行されることとなった。
ボルマンが発見されるのを防ぐため、モートンは外科医のアーチー・マッキンドーに手術を依頼した。
手術はバーダムで行われ、何回も手術して、耳の形を変え、唇を厚くし、手の甲は体毛が薄くなり、鼻は少し削られ、額の傷は長く延長され、指紋も変えられた。
さらにボルマンは、歩き方と話し方を変える訓練も受けた。
1945年8月に日本が降伏すると、ほどなく英国のアトリー新首相と国王・ジョージ6世の命令で、モートンはまだ見つけていないナチス財産を探す特別なサブセクションを設けた。
ボルマンの助けを借りて、すでに90%近くは入手していたが、未回収のものを世界中で探すよう命じられたのだ。
この「ミダス・タッチ作戦」は、フランス、ベルギー、デンマーク、オランダ、米国も参加したが、ソ連は加えられなかった。
米国の諜報・謀略機関OSSは積極的に動いて、OSSは少佐に昇進したばかりのバーバラ・ブラビノフが指揮官となった。
この作戦で、未回収だったナチス財産のうち半分が回収された。
ボルマンは手術から回復すると、ロンドン北部のハイゲートに住まいが与えられた。ここはドイツ移民の多い所だ。
しかし社会から隔絶されたボルマンは精神を病んでしまい、田舎の村に移ることになった。
小さな村ならば、住民と交流しても大丈夫と判断された。
Mセクションは、ボルマンの村への移住に際し、英国海軍大尉のピーター・グラントと、その妻マーリーンに協力を求めた。
そして第二次大戦中に戦死したマーリーンの父を利用することにして、その父が生きていたことにし、ボルマンを父の代わりに住まわせることにした。
マーリーンの協力で、ボルマンは彼女の父の性格や生活ぶりを予習した。
マーリーンの父はカトリック信者だったから、カトリックの信者を装うことがボルマンに要求されたが、なんとボルマンは洗礼を受けて本物の信者になった。
他方で、ボルマンを捜す者たちの目を欺くため、MI6は偽情報を流し、「ボルマンは南米に逃れた」という噂を広めた。
ボルマンは、マーリーンの父として小さな村に落ち着き、1956年に病死したと、私はMセクションにおいて聞かされた。
だが詳しくは後述するが、ずっと後になって、これは嘘だと聞いた。
私はボルマンの尋問や手術に関わった後、1945年7月に上司のモートンからこう命じられた。
「君は俳優になる訓練を受けろ。スパイはずっと芝居をしているようなものだから、大丈夫だ。」
その場にいたイアン・フレミングが話を継いで言った。
「君には俳優の才能がある。ただし演技を学び洗練させないといけない。
だからRADA、つまり王立演劇アカデミーで学び、それからオールドヴィックに入団するのだ。」
私はRADAで、ロジャー・ムーアと出会った。
ムーアは後日、私がアメリカのハリウッドでワーナーブラザーズのディレクターとして活動する時、援助してくれた。
ちなみにムーアは、映画でジェームズ・ボンド役も演じている。
フレミングの友人には、オールドヴィックで主役を演じるローレンス・オリヴィエがいた。
オリヴィエは、元は英海軍航空隊の少佐である。
私が俳優になるのを命じられた頃、Mセクションはボルマン拉致作戦の文書を処分・改ざんして、証拠を消し去る作業をほぼ完了していた。
もちろんMセクションの内部資料は残されたが。
チャーチル首相はこの作戦を行った時、モートンに対して「作戦の証拠を消し、作戦の実行は不可能だったと思わせるように文書を改ざんしろ」と命じていた。
この作戦で大きな役割を果たしたイアン・フレミングについても、大がかりな隠蔽工作が行われた。
そしてフレミングの経歴は、この作戦が行われた1945年1月~5月にかけては、極東で活動し、2月下旬にはジャマイカでウィリアム・スティーヴンスン卿と会ったことに改ざんされた。
なおウィリアム・スティーヴンスンは、英国情報部の米国地区の責任者だった人だ。
私は俳優となり、舞台、映画、テレビで活躍した。
ただし私はMセクションに所属したままだった。
だからこの時期の私は、いくつものMセクションの作戦に参加したが、その1つは、1956年のソ連の指導者ブルガーニンとフルシチョフの英国訪問に関するものだ。
もう1つは、1966~69年にチェコスロバキアで展開された作戦だ。
この作戦では、私は67年にチェコスロバキアで『ジャッジメント・イン・プラハ』という映画を監督した。
これはNATOのために行ったスパイ作戦の隠れ蓑でもあった。
私は1980年代の初めに、ようやくスパイ活動から足を洗ったが、それまでは常にMセクションの指令が優先で、アーチストとしての活動はかなり制約されていた。
余談になるが、1947年の春に出版された『ザ・ラスト・デイズ・オブ・ヒトラー』は面白かった。
この本の著者は元秘密情報部将校のヒュー・ローパーで、ヒトラーの死んだ時を再現するように、英国政府から依頼されて書いたものだ。
この本の目的は、ソ連の指導者スターリンの不安を和らげることだった。
スターリンはヒトラーが逃げて生きていると考えていた。
この本でローパーは、ヒトラーの近くにいた何人かにインタビューをとっているが、ヒトラーは彼の愛人で死の2日前に妻となったエヴァ・ブラウンと共に自殺したと書いている。
ボルマンは脱出したとし、脱出の際にヒトラーの遺言のコピーを持ち出したと書いている。
この遺言のコピーは、この本『ナチスを売った男』に書いた通り、私たちMセクションが入手して、今はMセクションが保管している。
1964年にドイツの雑誌『シュテルン」の編集者ヨハン・フォン・ラングは、元ヒトラーユーゲントの最高責任者であるアルトゥール・アクスマンを取材した。
そして1945年の5月1日から2日にかけて、ベルリンのレーアター駅近くの橋でボルマンとシュトゥンプフェッガーの死体を見たと、アクスマンから聞いた。
調査の結果、この死体は数百メートル離れた所に埋葬されていた。
1972年12月に、その埋葬されたという場所から、2つの白骨死体が掘り出された。
そしてボルマンとシュトゥンプフェッガーの骨との報告がなされた。
ヒュー・トーマスは1995年に出版された著書『ドッペルゲンガーズ(替え玉)』で、こう書いている。
エヴァ・ブラウンの死体は、歯が本人と違うし、血液型も違う。
死体からシアン化物の検出もなく、肋骨を貫通した榴散弾が死因だった。
ヒトラーの死体も、歯はまずまず一致しているが、左足の付け根と膝から上が焼け焦げている。
他の部分はほんの少し焼けているだけで、何かを隠そうとしているようだ。
ボルマンは生きて脱出し、パラグアイに渡って1959年に死んだが、死体は密かにベルリンに埋葬された。
私は、自分の関わったMセクションの活動を、本にしたいと考えて問い合わせた。
すると第二次大戦中にチャーチル首相の参謀長だったイズメイ卿から、1952年3月4日付で「君のやったことを話せる日が来ることを願っている」との手紙が来た。
さらに首相に返り咲いたチャーチルからも54年10月に手紙が来て、こう書いてあった。
「君の希望をイズメイから聞いた。だが今は早すぎる。まだ話してはならない。
私が死んだ後ならば、話したまえ。
その時には真実だけを話すことだ。私をかばう必要はない。
私は甘んじて歴史の裁きを受けよう。」
(※自分が生きている間は公開を禁じているのだから、裁きを受ける気がないのは明らかだ。
チャーチルは格好つけているが、逃げているにすぎない。)
私の上司だったイアン・フレミングは、英海軍を除隊した後、作家となって1953年に処女作の『カジノ・ロワイヤル』を発表し、その主人公はジェームズ・ボンドとした。
フレミングは1963年秋に私への手紙で、「私たちが共に行った作戦から、私の書く小説のインスピレーションを受けた」と述べている。
Mセクションで私の同僚だったスーザン・ケンプは、出世していき、1955年にMセクションの副長官となり、65年から引退する80年までは長官をつとめた。
なお、私をMセクションに入れてスパイにしたルイス・マウントバッテン卿は、ボルマン拉致作戦を詳細まで知っていた。
その事を彼の手紙を読んで理解した。
私は1960年代の末に、Mセクションの長官だったデズモンド・モートンの家に行って、自分の関わったMセクションの作戦について本にしたいと伝えた。
するとモートンは自制心を失い、私に指を突きつけて、「卑しい売国奴」とか「悪魔の申し子」と罵った。
それだけでなく、「縁を切る、お前の父親代わりはもうやめた」と毒づいた。
モートンとはその後、二度と会わなかった。
彼はほどなく、Mセクションの書類を全て燃やしてしまった。
ところが1991年4月に、スーザン・ケンプから電話があった。
そしてMセクションの書類は、モートンが燃やす前にコピーをとっており、一部ならば見てもよいと許可をくれた。
さらに彼女は、ボルマンの晩年についても教えてくれた。
「ボルマンは1956年に死んだのではなく、イギリスで生き続けて1989年に亡くなった」と。
だがこの時の彼女は、私を騙していた。
偽情報を流布するため、私を利用したのである。
ボルマンの晩年について、真実をスーザン・ケンプが教えてくれたのは、1996年の春だった。
Mセクションがかつてそこで働いた私まで騙したと知り、私は面食らった。
スーザン・ケンプから聞いた真相はこうだ。
1945~56年は、ボルマンは英国で暮らした。
その間、ブラジルやアルゼンチンなどにMセクションや米国CIAの監視下でボルマンは出かけて、そこにいる指名手配中のナチス党員たちを見つけ出すのに協力した。
この捜索では、膨大な現金や宝石や金塊も回収できた。
そして第三帝国の再興を目指す企てを阻止できた。
1956年4月に、英国をソ連指導者のブルガーニンとフルシチョフが訪問した。
この直前に、英国のアンソニー・イーデン首相は、「英国はボルマンをかくまっていることで厄介なことになっている」とMセクションのスーザン・ケンプ副長官を叱責した。
イーデンは、「ロシア人どもが来る前に、ボルマンの馬鹿野郎を追い出せ」と命じた。
それでマーリーンの父親になり替わっていたボルマンは、護衛付きでアルゼンチンに 移された。
マーリーンの父は死去したと、村人たちには伝えられた。
その後、ボルマンはアルゼンチンからパラグアイに移ったが、1959年2月に病死した。
しばらくしてCIA、パラグアイ政府、ドイツ諜報機関の密約が成立し、ボルマンの遺体はベルリンに送られて埋葬された。
それが前述のとおり1978年に堀り起こされたのである。
このスーザンの話は、前述のヒュー・トーマスの著書と一致する。
なおスーザン・ケンプの証言によると、ニュルンベルク裁判でボルマンに死刑が宣告された時、ボルマンはMセクションの者に連行されて、VIP席から裁判を傍聴していた。
これは脅しの意味があり、モートンの指令で行われた。
余談になるが、ピーター・ブロデリック・ハートレーという男は、Mセクションに雇われてボルマンの替え玉として戦後のイギリスで暮らした。
Mセクションは1952年にハートレーを見つけ、替え玉として利用した。
ハートレーはMセクションに雇われて、整形手術でボルマンに似せられた。
ハートレーはハンナという女性と恋仲になり、子供も産ませた。
ハートレーは1989年7月に亡くなった。
ハートレーが書いたとされる手紙のほとんどは、Mセクションの専門家が偽造したものだ。
(以上は2025年8月13日に作成)