(以下は『ナチスを売った男 ジェームズ・ボンド作戦』クリストファー・クライトン著から抜粋)
1941年12月に私は、太平洋を航行する、ブザンソン少佐が指揮するオランダの潜水艦「K-一七」(K-17号)に乗り込んだ。
私は、高性能爆弾と時限装置を艦内に仕掛けてそこを後にし、潜水艦の乗員全員を殺した。
これは上司であるデズモンド・モートン少佐の命令だった。
オランダの潜水艦K-17号は1941年11月28日に、真珠湾に向かう日本軍の艦隊を見つけた。
K-17号のブザンソン艦長は、オランダ軍を統括している英海軍・極東司令部に暗号シグナルでこの事を伝えた。
このメッセージは数時間以内に、アメリカのOSSを率いるドノヴァン将軍とイングランドのMセクションを率いるモートン少佐に届けられた。
2人はそれぞれの上司、つまりローズヴェルト大統領とチャーチル首相に報告した。
ドノヴァンもモートンもローズヴェルトもチャーチルも、真珠湾攻撃の計画はすでに知っていて、実行されるのを祈っていた。
当時の米国は、国民の80%は第二次世界大戦に参戦することに反対していた。
もし米国が参戦しなければ、日本軍は反撃を受けずにインドやオーストラリアなど英国の支配下にある国を占領し、掠奪をほしいままにする。
だから英国政府は、米国の参戦を喉から手が出るほど欲していた。
そして日本軍が真珠湾を攻撃すれば、米国が参戦する口実ができる。
日本が真珠湾を奇襲攻撃し、それを米国が参戦する理由にしたかった米英の指導者は、K-17号の報告を握りつぶし、潜水艦ごと爆破することに決めたのである。
そして私が爆破の実行犯となった。
アメリカのローズヴェルト大統領は、日本軍が真珠湾を攻めると知ってからも、米軍に警戒態勢をとらせず、米艦隊に対して湾外に避難するよう命じることもなかった。
この理由は簡単で、ハワイには何千人もの日本人移民がいたからだ。
その中には日本のために働くスパイもいたし、日本のハワイ総領事は目ざといので米軍が警戒すれば、それを打電しただろう。
日本の天皇・裕仁は、「真珠湾攻撃は奇襲でなければならぬ」と命じていたので、奇襲できないと分かったら中止になったはずだ。
そうなればローズヴェルトは戦争に参戦する口実を失う。
こうした状況判断から、ローズヴェルトとチャーチルはK-17号の報告を無視し、それだけでなく危険な存在と考えて、K-17号を沈めると決断した。
K-17号の乗員は口封じで殺されたのである。
後の話になるが、ある時、私の上司となったイアン・フレミングはK-17号の事件を知っていて、私にこう言った。
「1941年11月28日の12時5分、ブザンソン少佐が指揮するオランダの潜水艦K-17号は、日本の単冠湾の北東280マイルに接近し、そこで日本軍の艦隊を見つけた。
ブザンソンは艦隊の進むコースを計算し、ハワイの真珠湾に到達すると気づいた。」
私は、どうして彼がそれを知っているのかと、唖然とした。
聞くと彼は、私の爆破作戦のときに管制官を担当し、指揮者の1人だったという。
フレミングもあの事件に関わっていたと知り、私は自らの体験を詳しく彼に話した。
爆弾をK-17号に運ぶさい、ウィルヘルミナ女王(オランダの国王)と英国のマックス・ホートン大将からのクリスマス・プレゼントとしての食料を装って持ち込んだこと。
私が潜水艦を出たあと、ラーウィック飛行艇に乗って上から目撃した大爆発。
壊れた残骸や人体の破片やおびただしい油を見たこと。
K-17号の乗組員たちは、日本艦隊のことを口外しないと誓った。
しかし英米の最高指導者はそれを信用できないと判断し、それだけの理由で全員が爆殺されたこと。
私は話しながら悪夢がよみがえり、涙を抑えることができなかった。
フレミングは私の気持ちを癒すかのように、「自分は指揮の一端を担っていただけでなく、事後のもみ消し工作にも関与した」と明かした。
そして「レディング近郊で亡命生活を送っていたウィルヘルミナ女王を訪ね、事の顛末を女王に話したところ、『極東海軍司令部と協力して潜水艦の記録を変えなさい』と命じられた」と明かした。
(※上流階級や王族と呼ばれる者たちが、どれほど冷酷かよく分かる話だ)
(以上は2025年9月21日に作成)