(『物語イランの歴史』から抜粋)
ホメイニーが1989年に他界すると、国民の間で「自由」や「民主主義」を求める声が高まり、イスラム教の伝統の1つである「協議」への回帰が強まった。
特に若者たちは、「ヘジャーブの廃止」「政治の多元主義」「経済の自由化」などを要求した。
ソ連の崩壊も、民主化の流れを促進した。
湾岸戦争の際には、イランは「中立」を宣言した。
1997年の大統領選では、「自由の拡大」を唱えたハータミーが当選した。
ハータミー政権は、女性たちの社会進出、出版活動の自由化、などを行った。
そして、ハーメネイ最高法学者と対立した。
ハータミー政権の誕生には、若年層の支持があった。
イランは人口が急増しており、全人口の3分の2は25歳以下で、さらに15歳になると投票権を得る。
2000年2月の総選挙では、自由の拡大を唱えた改革派が勝利した。
保守派の立候補者は、テヘラン選挙区では1議席も取れないなど、惨敗した。
2001年6月に、ハータミー大統領が再選した。
2001年のアメリカのアフガニスタンへの侵攻時は、イランはアフガンとの国境を閉鎖して、イスラム過激派がイランに入らないようにした。
さらにイランは、米軍の軍用機の緊急着陸を認めた。
アメリカは、ホメイニーがアメリカを「大悪魔」と呼んだことや、イランが「イスラエルの抹殺」を唱えるために、関係を拒絶してきた。
そして、イランが核兵器の開発を始めると、封じ込め政策を行った。
(2014年2月18日に作成)