(『誰にでもわかる中東』小山茂樹著から)
一般には、「アラブとイスラエルの対立は、古くから存在している」と信じられている場合が多い。
しかし、『ユダヤ人(ユダヤ教を信ずる者をユダヤ人という)の排斥』は、キリスト教が普及した西欧で生み出されたものである。
逆にアラブは、異教徒に寛大であり、小額の人頭税を払えばユダヤ人の自由な活動を認めてきた。
アラブ人とユダヤ人の間に対立が生まれたのは、19世紀後半に興った「シオニズム運動」と、この運動に基づく「パレスチナへのユダヤ人の入植開始」からである。
『シオニズム』とは、「ユダヤ民族が、祖国の地パレスチナに結集する運動」をいう。
シオンとは聖地エルサレムをとりまく丘の一つで、かつてダビデ王が王宮と神殿を建てた場所である。
シオニズムが明確な姿をとるのは、1896年にイスラエル建国の父と言われるテオドール・ヘルツルが『ユダヤ人国家』と著して、翌年に第一回目の『シオニスト会議』が開催されてからだ。
この会議で、「パレスチナにユダヤ人のためのホームを、公法によって創設すること」が公に宣言された。
当時、シオニズムに理解を示したのは、イギリスのみであった。
当時のイギリスは中東に大きな権益を持ち、中東への介入を加速させていた。
ヘルツルは、「さしあたりのホームは、パレスチナに限ることはない」と信じていた。
イギリスは当初、ユダヤ人のキプロスへの移住を考えた。
次いで、シナイ半島北部への移住を計画したが、エジプトの反対で頓挫した。
その次には東アフリカのウガンダにある高地への移住を、イギリスは提案した。
1903年の第六回シオニスト会議で、ヘルツルは「ウガンダが適地かどうか、調査団を派遣して確認してはどうか」と提案した。
この提案は可決されたが、東欧ユダヤ人の強い反対で頓挫した。
ヘルツルは1904年に死去し、05年の第七回シオニスト会議で「ユダヤ人のホームは、パレスチナ以外は対象としない」と決定された。
(2013年2月2日に作成)