(『誰にでもわかる中東』小山茂樹著から)
第一次世界大戦が始まると、イギリスは戦争に勝利するために、「ユダヤ人勢力からの支援」が必要になった。
そんな中、シオニストたちはパレスチナへのホーム建設の運動を進めた。
シオニストは、イギリスのユダヤ人代表者であるロスチャイルド財閥を動かし、ロスチャイルドはイギリス首相のロイド・ジョージと外務大臣のバルフォアを動かした。
かくして外務大臣バルフォアは、1917年11月2日付で、ロスチャイルドに次の書簡をしたためた。
「イギリスは、パレスチナへのユダヤ人ホーム建設のために最善を尽くす。
ただし、パレスチナにおける既存の市民的・宗教的な諸権利を侵害してはならない。」
これが有名な、『バルフォア宣言』である。
この宣言によって、イスラエル建国の運動が具体的にスタートした。
アラブ人(パレスチナ人)とユダヤ人の対立は、この時点から始まったのだ。
宣言当時、パレスチナに住むユダヤ人は、5.6万人を下回っていた。
一方アラブ人は65万人におよび、人口の92%を占めていた。
しかも、ユダヤ人の移住は1882年に始まったが、5.6万人のうち3万人は82年以降の移民である。
実は、イスラエル建設の計画は、現地のユダヤ人には迷惑がられていた。
パレスチナに古くから住んでいたユダヤ人は、15世紀以降に移住してきた者達で、アラブと同化していた。
シオニズムは、現地のユダヤ人にとっては全く異質な発想であった。
第一次世界大戦後にパレスチナを調査するために設置された『キング・クレーン委員会』は、「2000年前に祖国があったから、パレスチナに権利がある」というシオニストの主張はまともには考慮できない、と結論している。
委員会は「シオニストの計画はパレスチナ住民を侵害するから、変更されるべきだ」と勧告したが、無視された。
第一次大戦の終戦処理をまかされたサン・レモ会議(1920年4月)において、「パレスチナは、バルフォア宣言に基づいて統治される」と決定された。
1922年7月にイギリスは、『パレスチナ委任統治条項』を作成した。
この条項は、国際連盟の承認を受けて、同年9月29日に発動された。
ここに正式に、イスラエル建設は開始された。
この後、ユダヤ人の入植の波がパレスチナを襲い、1933年にナチスのユダヤ人迫害が始まると入植者は激増した。
この結果、ユダヤ人は1917年の5.6万人から、46年には60.8万人に膨れ上がった。
現地のアラブ人は、反シオニズム運動を加速させた。
イギリスは仲介したが失敗し、37年にはユダヤ国家とアラブ国家に分割することを提案した。
この提案は、ユダヤ側とアラブ側の双方から拒否された。
1939年にイギリスは、「10年以内にアラブ国家の独立を認める」「5年後にはアラブの同意なしには、ユダヤ人の入植を認めないようにする」との白書を発表した。
これを見たシオニストは、イギリスを「裏切り者」と呼び、反英テロを開始した。
(2013年2月2日に作成)