(『中東戦争全史』山崎雅弘著から抜粋)
エジプト大統領のナセルは、中東各国の首脳との交流を活発化して、1956年4月に『エジプト・サウジアラビア・イエメンの3国による軍事協定』を成立させた。
さらに同年5月には、シリア・ヨルダン・レバノンとの間に、相互軍事条約も結んだ。
ナセルがソ連の支援をうけてアラブの盟主になっていくのを見たアメリカは、56年7月19日にダレス国務長官の名で、「アスワンハイダムの建設への資金援助を、しばらく見送る」と通告した。
翌20日には、イギリスと世界銀行もそれに追随した。
アスワンハイダムは、エジプトに大規模な農地を作り出そうとする国家プロジェクトの根幹で、建設費のうち4億ドルを、米・英・世銀から借りる事になっていた。
ナセルは、アメリカからの圧力に対して、思い切った行動に出た。
1956年7月26日に、「スエズ運河を、エジプトに接収する。運河の年収1億ドルは、ダム建設費に充てる。」と発表したのである。
エジプトの民衆は狂喜し、アラブ諸国はこぞって祝電を送った。
スエズ運河の大株主だった英仏両国は、激怒した。
中東と西ヨーロッパを結ぶ大動脈を、ナセルの手に握られたからだ。
スエズ運河・株式会社は、1858年に設立され、その時に「この会社は、99年間にわたって運河を経営し、その後に全ての所有権をエジプトに移譲する」と決められていた。
運河は1869年に完成し、全長160kmの長大な運河によって、地中海と紅海は結ばれた。
イギリスは1875年に、エジプトが保有するスエズ運河の株式を、強引に買い上げてしまった。
その後は、通行料は英仏で独占して、エジプトには一切の利益がなかった。
スエズ運河を航行する船舶の数は、第2次大戦後に激増しており、1955年当時で全世界の海上輸送の7分の1が利用していた。
イギリスは、翌年に迫ったスエズ運河の移譲を控えて、運河を国際機関の管理下に置こうと政治工作を始めていた。
ナセルの国有化は、英仏の目論見を完全に打ち砕くものだった。
英仏の首脳は、軍事的手段による運河支配権の奪回をするために、作戦の立案に入った。
そこに、協力を申し出た国があった。
独立前には容赦のない反英テロを繰り返していた、イスラエルである。
イスラエルは、フランス製の兵器を大量に購入していた。
1955年9月にナセルは、「チラン海峡の封鎖」を決めたが、これによりイスラエルは航路を失っていた。
スエズ運河を支配したい英仏と、チラン海峡を航行したいイスラエルは、手を結ぶ事を決めた。
そしてエジプト侵攻作戦の最終的な打ち合わせを、56年10月24日に行った。
この作戦は、次の内容である。
①
10月29日に、イスラエルがエジプトに侵攻する。
②
英仏両国は、イスラエルとエジプトに即時停戦を要求する。
同時に両国は、スエズ運河を守るという目的で、スエズ運河に進駐することを申し入れる。
③
イスラエルは、両国の提案を受け入れる。
そして、英仏はスエズ運河を占領する。
英仏は、「この作戦ならば、侵攻しても非難されない」と考えた。
イスラエルの港には、大量のフランス製兵器が、偽装されて陸揚げされた。
フランスのこの協力は、イスラエルの戦車部隊が「中東最強」と評される事につながった。
(2014.2.24.)