レオナルド・ダ・ヴィンチ(以下は『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説と解読』瀬木慎一著から抜粋
2003年8月2日にノートにとり勉強)
レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年にフィレンツェで生まれた。
1519年に67歳で亡くなる。
豊かな公証人の父と、村の娘の間に生まれた。長男である。
父が別の女性と正式に結婚したため、祖父と叔父に育てられた。
画家を志し、17歳の頃に、若き大家デル・ヴェロッキオ(1435~88)の工房に入門した。
ヴェロッキオはドナテルロに師事した人で、画家としてよりも彫刻家として有名だった。
ちなみにミケランジェロの師は、ギルランダイオ(1448頃~94)である。
ダ・ヴィンチの絵は、真作と確定しているものは少ない。
「三賢王(1481~82)」 は、ダ・ヴィンチの真作の最初のもの。
油彩、未完の作で、彩色なし。これ以前に疑問作が6点ある。
「聖ヒエロニムス(1480) 」は、油彩、未完で彩色なし。
工房から独立して、一人で制作した。
「岩窟の聖母(1483~86)」は、イエスの母マリアを書いたもの。
無原罪のみごもりの聖母という教義は、1477年に正式にカトリックの公認となったらしい。
聖母を中心とした絵で、当時になかったスタイルである。
20年後に何らかの事情で似作(レプリカ)が作られた。
「スフォルツァ騎馬像(1482~93年11月)」は、7.2メートルの巨像である。
威服王と通称された独裁者スフォルツァの依頼で制作した。
これは粘土による原型で、ブロンズ鋳造する予定もあったが中止された。原型も消失してしまった。
「最後の晩餐(1495~97)」は、ミラノの修道院の壁画である。
1560年頃には色彩は消えてしまった。
ちなみにダ・ヴィンチの絵は全て油彩である。
油彩は当時の新技術(技法)で、失敗の危険があった。
「樹木の装飾 (1498)」は、ミラノのスフォルツァ城のアッセの間に書かれた壁画である。
最後の晩餐と樹木の装飾は、共にミラノ公スフォルツァの依頼で作った。
ダ・ヴィンチは工房をすでに持っていた。
ダ・ヴィンチは、スフォルツァには1482年~99年まで仕えた。
その後はロマーニャ公のチェーザレ・ボルジアに仕える(1502年~03年3月)も、ボルジアが権力を失ったため、フィレンツェ市に仕えた。
1503年に、フィレンツェはピサと戦争した。
ダ・ヴィンチは、アルノ運河の掘削計画の査察や、ピオンビーノ城塞の改築を、フィレンツェ書記長のマキャヴェッリから依頼された。
「アンギリアの戦い (1505~?)」は、フィレンツェのメディチ家の館に、ミケランジェロとの競作で書いた壁画である。
破損し消失してしまった。ダ・ヴィンチの唯一の歴史画だった。
「モナリザ (1503~05)」は、黒衣の女性を描いたもの。
「聖アンナと聖母子(1510)」。
この頃、マリア崇敬の念が高まり、マリアについて書かれたアポクリファ(外典、秘典)に基づいて様々な画像が作られた。
「洗礼者ヨハネ (1513~16)」は、背景が黒になっているが、年月のため黒ずんだのである。
「レダ(最晩年の作品)」は、17世紀までフォンテーヌブローに存在した。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、数多くの素描を残している。
約5000ページが今に伝わっており、内容は900種に上る。
1505年の当時に、50冊の手帳があった事が判明していて、おそらく2万ページくらいはあった。
遺言により、晩年の弟子メルツィが相続したのだが、メルツィの死後に散逸してしまった。
補足だが、『ダヴィンチの手記 上下』が、杉浦明平の翻訳で岩波書店から出ている。1958年初版。
ダ・ヴィンチは、人体解剖に30回も携わっている。
当時は、地球の創造は5千年位前だと考えられていた。
しかしダ・ヴィンチは、地質の研究をして、アルノー平野は20万年は経過していると考察した。
彼は重力の法則に気付いていた。
軍事では、潜水艦と毒ガスを発想したが、それ以前には無い発想である。
彼は、1482年のスフォルツァへの自薦状では、大砲の製作、戦車の製作、建築、水道建設などを、自らが出来るものとして列記している。
チェーザレ・ボルジアは、ダ・ヴィンチを召し抱えると、領土内の全ての要塞を管理する地位を与えた。
ダ・ヴィンチは、1506~12年はミラノをフィレンツェを往復して暮らした。
1516年10月には、フランソワー世に付いてフランスへ行った。
ダ・ヴィンチは、当時は珍かった菜食主義で、生涯独身でもあった。
イタリアのルネサンスは、イタリア人が自国の衰退を憂い、活力の再興を願った志向から生まれた。
克服の目標とされたのは東方のイスラム文明と西北のフランク王国文明で、代わるものとして古典のギリシャ文明を学んだ。
イタリアは臨海都市国家であり、ルネサンスはその運営の主導権を外国に奪われたために生まれた排他主義の側面もある。
ダ・ヴィンチの生きた時代は、ドイツとフランスの軍事的制圧下において個我に目覚めた知識人や芸術家が、自立のため苦闘した時代である。
(以上は2024年12月18日に作成)
(以下はどこからの抜粋か不明。たぶんダ・ヴィンチ・コードという本が話題となった2003年頃に、テレビ番組でその内容が放送されたが、それの抜粋である。)
ダヴィンチはそれまではなかった、絵の対象の輪郭をくっきり描くのではなくぼかす技法を考案した。
代表作のモナリザは、誰が名付けたかわかってない。
綴りのAを先頭に持ってくると、エジプトの太陽神(男)と月の女神のアモールとリザになる。
モナリザは、ダヴィンチの自画像と顔立ちが似ている。
目のとなりのイボ、ペンのタコが同じである。
この作品は50歳頃に書き始め、死ぬまで筆を入れ続けた。
(生き別れていた)ダヴィンチの母が、ダヴィンチの噂を聞き訪ねてきたのは、ダヴィンチが40歳をすぎた頃。
その2年後に母カテリーナは死去した。
ダヴィンチは64歳の時にフランスへ移住した。
そのダヴィンチの家は、地下道でアンボワーズ城とつながっていた。
彼はフランソワーズ王と仲が良かった。
晩年に彼は、不自由な手で都市が水に飲みこまれる絵を12枚も書いた。
ダヴィンチは黄金比を追求した。1対1.618。
イエスの聖骸布とされるものが、イタリアのトリノにある。
麻の素材で、次に公開されるのは2025年。
年代測定では、1260~1390年の間に作られたとの結果。
イエスは、西暦30年4月に死んだとされている。
ダヴィンチの書いた『最後の晩餐』の光の入り方を調べると、4月上旬、PM5時頃で、時期が合う。
カメラの原理(感光)を解き明かしたのはダヴィンチである。
ダヴィンチは同性愛で逮捕されたことがあり、死体解剖して告発されたこともある。
未完の作品が多く、未完の男と言われていた。
『最後の晩餐』について、本『ダ・ヴィンチ・コード』ではナイフの手が誰の手にも合わず、謎の手と分析している。
しかしCG(コンピュータ・グラフィックス)にしてみると、ペテロの手であるとはっきりわかる。
さらにCGで『最後の晩餐』を立体的にしても、人物がかぶらず、構図がしっかり作られていると分かる。
『最後の晩餐』でイエスの隣にいるのは、マグダラのマリアだと『ダ・ヴィンチ・コード』は分析する。
マグダラのマリアは、イエスに従う女性信者のリーダーで、常にイエスの近くにいて、 イエスの復活にも立ち合ったとされている。
591年に、「マグダラのマリアは娼婦だった」とローマ教会(現バチカン)が発表し、彼女は信仰の対象から外された。
しかし南フランスでは昔から女性(マリア)への信仰が篤く、教会もある。
『最後の晩餐』でイエスと隣の女性的な人物は、Mの形になるよう描かれている。
フランスのソニエール神父は、1800年代に古い教会で古文書を発見し、その後に大金持ちになった。
その古文書には「NOIS」とあり、反対にするとSIONになる。
これはシオン修道会のことで、この団体は11世紀から活動する謎の秘密結社である。
シオン修道会は、第20代総長の名にダヴィンチがある。
他にも、アイザック・ニュートン、ヴィクトル・ユゴー、クロード・ドビュシーといった有名人が総長になったという。
シオン修道会は、イエスとマグダラのマリアの結婚および、その子孫を守る目的を持つとの説あり。
南フランスのサント・ボームの洞窟。
ここでマグダラのマリアが最後の活動(修行)をしたという。
南フランスには、マグダラのマリアが身ごもった子供(サラ)と共に海を渡ってパレスチナから逃れてきたとの伝説がある。
1969年、バチカンは「マグダラのマリアは娼婦ではない」と発表。教えを変えた。
ロンドンのニーブン・シンクレア氏が、イエスの血を引いていると発表。
(以下は『東京新聞 2023年3月16日』から抜粋)
レオナルド・ダビンチの母親が、黒海とカスピ海に挟まれたカフカス地方出身の奴隷だったとする、新説が発表された。
ナポリ大学のカルロ・ベッチェ教授の研究発表である。
これまでダビンチの母は、イタリアのトスカーナ地方の農民とされてきたが、ベッチェ氏はフィレンツェの古書を調べて新説に至った。
母はチェルケス人の奴隷で、カフカス山脈から連行されて売られ、ベネチアを経てフィレンツェに来て、そこで公証人のピエロ・ダビンチと出会ったという。
ピエロ・ダビンチが書いた文書があり、これはダビンチの母の自由奪還のため1452年に作成された。
ダビンチ研究の第一人者であるパオロ・ガルッツィは、「この新説はかなり説得力がある」と評する。
(2025年11月21&30日に加筆)