李氏朝鮮は各国に狙われて、不平等条約を強制される

(『韓国歴史地図』から抜粋)

1873年に、西洋との通商を強硬に反対していた大院君(国王の父)が退き、高宗(国王)が直接統治をするようになった。

そして、王妃(閔妃・ミン夫人)の姻戚である、閔氏一派が権力を掌握した。

1868年に明治維新を断行していた日本は、大院君が退いたのを朝鮮開国の機会ととらえ、75年に軍艦・雲楊号を朝鮮に派遣した。

そして、東海岸一帯の測量をし、艦砲による武力示威を始めた。

雲楊号は、故意に江華島に接近し、朝鮮軍を挑発して武力衝突を引き起こした。(江華島事件)

そして武力で威嚇しつつ、門戸開放を要求した。

朝鮮政府は日本の要求に屈して、1876年2月に『日朝修好条規』を締結した。

この条約は、朝鮮が外国と結んだ最初の近代的な条約であった。
そして、「不平等条約」だった。

開港場には日本人居留地が作られ、治外法権が認められた。

日本の商品は、関税なしに朝鮮に流入することになった。

日本の沿岸測量権と海図作成権も認められた。

朝鮮政府は1882年に、アメリカとも不平等な通商条約を結んだ。

これ以後、イギリス・ドイツ・イタリアなどとも不平等な条約を結ぶ事になった。

清国は、82年の「壬午軍乱」と84年の「甲申政変」に武力介入し、朝鮮への内政干渉を本格化していった。

82年に結ばれた『商民水陸貿易章程』では、朝鮮が清国の属国であることを間接的に示し、清商人に有利な状況となった。

その結果、朝鮮に対する清の貿易量が増加していった。

(2013.4.11.)


『韓国史 李氏朝鮮末期~日韓併合まで』 目次に戻る

『韓国史』 トップページに戻る

『世界史の勉強』 トップページに行く

『サイトのトップページ』に行く