壬午軍乱と甲申政変

(『韓国歴史地図』から抜粋)

日朝修好条規の締結後、朝鮮政府は開化政策を推進した。

しかし、封建的な土地制度と身分制度は残されたため、農民の支持を得られなかった。

開化政策に反発した軍人層は、反乱を起こした。
都市の下層民もこれに加わった。

彼らは、開化派官僚と閔氏一族を襲撃し、王妃(閔妃)を排除するために王宮に攻め込んだ。(1882年6月)

これが、『壬午軍乱』である。

閔氏一派の要請を受けた清国は、軍を派遣して大院君(反乱勢力が支持していた王族)を連行した。

そして、再び閔氏一派が政権を握った。

清は軍隊を駐留し続けて、内政に干渉をしていった。

そうした中、ベトナムで清とフランスは戦争を起こして、その影響で清軍の一部が朝鮮から撤収した。

開化派はこれを好機ととらえ、日本軍の支援を受けて、清軍と閔氏政権を追放しようとした。

1884年10月に、開化派はクーデターを起こし、王宮を日本軍と朝鮮軍に守らせた。

これが、『甲申政変』である。

しかし清軍の反撃により、日本軍は撤収して、政変は3日で失敗に終わった。
開化派の官僚は、日本に亡命した。

この政変後に、清と日本は『天津条約』を結び、両国は朝鮮から軍を撤収させた。

しかしこれ以後も、清も日本も朝鮮介入の機会をうかがっていく。

(2013.4.13.)


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